ライプツィヒから南に50キロの地点にアルテンブルクという町がある。この町は976年、神聖ローマ皇帝オットー2世によってはじめて言及されている。この町を訪れた皇帝は多く、ロタール3世、コンラート3世、ハインリッヒ6世、オットー4世、フリードリヒ2世もこの町に滞在した。バルバロッサとして知られる神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世のもとで皇帝の居城(Kaiserpfalz)が拡張されている。バルバロッサはこの居城でオットー・フォン・ヴィッテルスバッハにバイエルン公国を封土しており、その時の様子は城内の絵画に描かれている。14世紀からはヴェッティン家がアルテンブルクの支配権を引き継ぐようになったのだが、15世紀に入りこの城でザクセンを揺るがす一大事件が発生したのだった。
ザクセンの居城でマルガレータ(Margaretha von Österreich)が見たのは衝撃の光景だった。 黒いフード付きのローブを身に着けた3人の男がロープのはしごを使ってアルテンブルク城に入り、息子のエルンストとアルブレヒトを連れ去ろうとしていた。母親は城壁に寄りかかりながら助けを求めて叫び声をあげたが無駄だった。 3人の誘拐犯は大きな抵抗に合うこともなく、泣き叫ぶ少年たちを連れ去ったのだった。直ちに教会の鐘が大きな音で鳴らされ、警鐘が町に異常を知らせたが、男たちはすでに闇夜に姿を消した後であった。
1455年7月7日の夜に発生したこの犯罪の立案者は、クンツ・フォン・カウフンゲン(Kunz von Kauffungen)という騎士だった。彼は、マルガレータの夫であるザクセンのフリードリヒ2世がここから30キロ離れたライプツィヒで彼の側近と一緒に滞在していた隙をついたのだ。クンツ一味はこの夜、選帝侯と宮廷の大部分の使用人が城を空けていることを事前に調べ上げていたのだった。また、用意周到なことに、クンツは、ハンス・シュワルベ(Hans Schwalbe)という内通者を料理人としてあらかじめ城内に忍び込ませていた。この料理人による内側からの協力がクンツの侵入を容易にしたのだった。中世には政治的、経済的な理由で貴族の子女が誘拐されることがあり、皇帝の子息でさえ誘拐される事件も発生している。
大胆な誘拐は成功したわけだが、そもそも何故クンツはこの誘拐を主導したのか?その原因は10年ほど前に始まったある戦争にある。この地域では、1446年から1451年にかけて《ザクセン兄弟戦争》と呼ばれた戦争が行われていた。ヴェッティン家の領土をめぐり、ウィルヘルム3世と選帝侯フリードリッヒ2世の兄弟の間で起こった武力紛争である。マイセン辺境伯でテューリンゲン方伯であったフリードリヒ4世が亡くなった後、遺産と支配地域はヴィルヘルムとフリードリッヒの2人の甥に相続されることとなった。ヴィルヘルム3世は借金の残るテューリンゲン方伯領とフランケン地方の領土を得て、残りはフリードリッヒ2世の所有するところとなった。アルテンブルクの分割(Altenburger Teilung)と呼ばれるこの分割案は神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世も容認しており、兄弟の団結を求められていたのだが、兄ヴィルヘルム3世は納得がいかず、この領土争いは戦争へと発展したのだった。
この戦争にクンツは選帝侯フリードリッヒ2世の要請により、選帝侯側で戦っていた。しかし戦闘中、クンツは敵方に捕らえられ、捕虜となってしまう。当時の慣習として、高額な身代金を自分自身で支払う必要があった。金額は3,000グルデンとも4,000グルデンとも言われ、現在の相場では約130万ユーロに相当する。戦争自体は1451年にナウムブルクの和平条約(Naumburger Frieden)が締結され終戦。自身の身代金でさえ自分で支払ったクンツは、戦後、フリードリッヒ2世に土地やお金による補償を求めた。フリードリヒ2世がクンツの要求をにべもなく拒否したとき、クンツ・フォン・カウフンゲンは諸侯に属さない自由騎士の身分を選び、フリードリッヒ2世に対して私闘を挑む決意をしたのだった。
クンツはフリードリッヒ2世に不満を持っていた2人の貴族を仲間に入れ、ヴィルヘルム・フォン・モーゼン(Wilhelm von Mosen)とヴィルヘルム・フォン・シェーンフェルド(Wilhelm von Schönfeld)と同盟を結んだ。 3人はアルテンブルク城内を見たことがあったのだ。ある夜、計画の諸条件が整ったとき、彼らは30名の騎馬兵を引き連れて計画の実行に移った。誘拐された息子たちの命と引き換えに、フリードリッヒはクンツの要求を満たすよう脅迫されたのだった。 2人の王子は別々のルートを通って南へと連れ去らわれた。そこにはカウフンゲン城(Burg von Kaufungen)がボヘミアとの国境約70キロのところに建っていた。
エルターライン(Elterlein)付近の森で休んでいる間、11歳のアルブレヒトは見張り役の隙を見て、ゲオルク・シュミットという名前の炭屋に自身の身元を告げることができた。事情を理解した炭屋は、同じ村の住民や僧侶の助けを借り、クンツ・フォン・カウフンゲンに襲い掛かった。そしてなんと一味を制圧することに成功したのだった。クンツは仲間と共に捕虜の身となり、グリューンハイン修道院(Kloster Grünhain)の役人に引き渡された。アルブレヒトは後にこの炭屋の勇気ある行動に対して《der Beherzte(勇敢な)》という名を与えた。そしてアルブレヒトの父親であるフリードリッヒ選帝侯からは、生涯にわたる税金の免除とともに、報酬としてツヴィッカウ近くの小さな土地を与えられている。それはどんな称号よりも炭屋を喜ばせた。
クンツの仲間であるモーゼンとシェーンフェルドは14歳のエルンスト王子を、当初、廃坑トンネルの中に3日間隠していた。エルターラインの森での出来事を知った時、彼らは自分たちの計画が失敗したことを悟り、止む無く人質を解放することに決めた。彼らはハルシュタイン城の城主であるフリードリッヒ・フォン・シェーンブルク(Friedlich von Schönburg)と交渉を開始し、今回の事件の免責とザクセンからの亡命を条件に王子を解放することに同意した。実際、モーゼンとシェーンフェルトは実行犯であるにもかかわらず、無傷のまま逃亡に成功している。しかしクンツ・フォン・カウフンゲンは、自由の身にはなれなかった。クンツはフライベルクの法廷で告発された。罪状は治安妨害の罪であった。裁判でクンツは、自分は当時の法律によれば合法であった私闘を行ったのであり、正式な宣戦布告状としてフリードリッヒに手紙を送っていたと主張した。実際クンツが証言した手紙はモーゼンとフォン・シェーンフェルトによって誘拐の前日に発送されていたが、手紙がアルテンブルク城に届いたのは事件の翌日であった。
選帝侯フリードリッヒ2世は1455年7月14日にフライベルクのマーケット広場でクンツ・フォン・カウフンゲンを斬首刑に処したのだった。クンツの首が転がった場所には、現在でも目印として青い石畳が残されている。そして市庁舎の出窓にはクンツの顔を模した石製の頭部が取り付けられているが、その目は自身が処刑された石畳の方を向いている。
クンツの兄弟であるディートリッヒ・フォン・カウフンゲンも共犯者として首を刎ねられた。クンツ一味をアルテンブルク城へと引き入れた料理人のハンス・シュワルベも有罪となり、ツヴィッカウにて真っ赤に熱せられたトングで体をつままれ、その後八つ裂きにされ処刑された。クンツの家族もザクセンを離れることを余儀なくされ、この時に一族がザクセンに所有していた領地や城は徹底的に破壊されている。カウフンゲン城、ヴォルフスブルク城(Wolfsburg)、コーレン城(Burg Kohren)などが取り壊しの対象になった。
ここに終焉を迎えた誘拐事件であったが、この一連の騒動は《アルテンブルクの王子誘拐事件》(Altenburger Prinzenraub)と呼ばれる。炭屋が助けたこの二人の王子は後に歴史に名を残すことになるが、それはこの誘拐事件の為ではなかった。 ライプツィヒ条約に基づき、1485年、エルンストとアルブレヒトの兄弟は相続した土地を分割した。エルンストは、選帝侯位とワイマール、エアフルト、ヴィッテンベルクの周辺地域を手にし、アルブレヒトはライプツィヒ、ドレスデン、マイセン周辺の領土を手に入れた。こうして、ヴェッティン家はエルネスティン系とアルベルティン系に分裂したわけだが、その結果、神聖ローマ帝国におけるその後のザクセンの地位低下を招くことになった。現在のザクセンとテューリンゲンの分離はまさしくこの時に始まったのだ。
参考:
welt.de, “Deutschlands spektakulärstes Kidnapping”, Jan von Flocken, 31.05.2007, https://www.welt.de/kultur/history/article909049/Deutschlands-spektakulaerstes-Kidnapping.html
burgerbe.de, “ALTENBURGER PRINZENRAUB: WIE KAM ES 1455 ZUR ENTFÜHRUNG?”, 2. February 2014, https://www.burgerbe.de/2014/02/02/wettiner-unter-schock-prinzenraub-auf-der-altenburg/
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