町を救った子供たち

ディンケルスビュール

【ディンケルスビュール】

三十年戦争中(1618-1648)の1632年、スウェーデンのグスタフ・アドルフ王はエルヴァンゲン修道院(Stift Ellwangen)と帝国都市ディンケルスビュールに、情報収集の基地と今後の進軍の橋頭保を置くことを司令官スぺレウス(Claus Dietrich von Sperreuth)に命じた。スウェーデン軍はディンケルスビュールを征服し、荒廃させ、略奪することを目的に帝国都市へと軍を進めた。

「スウェーデン軍がやってくる!」塔の見張りがひび割れた声で叫んだ。これまでのところディンケルスビュールは破壊を免れていた。そのため、ディンケルスビュール市民は長年にわたりドイツを襲った恐ろしい戦争の恐ろしさについてまだ何も知らなかった。占領された町や村は完全に破壊され、市民は虐殺され、略奪の限りが尽くされた。この戦争がいつまで続くか誰にもわからず、当時の人々は世界の終焉が近いことを確信していた。

ディンケルスビュールは豊かな街だった。市民の多くはスウェーデン軍の接近に我を失い、町はパニックとなった。市長は緊急市議会を開催、対応を話し合ったが結論はでなかった。スウェーデン軍の兵力は圧倒的だ。戦って勝ち目はない。我々に町を守るだけの力はない。それだけ言うと市長は黙り込んでしまった。味方に援軍を頼むにしても時間がなかった。ディンケルスビュールの市民は打つ手がなく、途方に暮れていた。「これから一体なにをするべきなのか・・・」

「もう我々には希望はない。これから何かをしたところで、あるいは何かをしなかったところで、残念だが結果は変わらない。」と市長は言った。市議会のメンバーは互いに顔を見合わせ、戦争に敗れたほかの町や村がどのような運命を辿ったかを思い出した。そしてディンケルスビュールがまさしく今おなじ道を辿ろうとしていることを考え身震いした。

そうこうしているうちにスウェーデン軍の代表が町へとやってきて、市長の前に連れて行くようにと要求した。「我々に対して門を開き、町を明け渡せ。自分たちにそれ以外の選択肢がないことはよくわかっているだろう。」とスウェーデン軍のリーダーは言った。ディンケルスビュール市議会議員の一人が震える声で尋ねた。「もしわれわれがその要求を拒否したら?」

スウェーデン代表団のリーダーは笑いを浮かべて議員を見つめ、「お前たちにそのようなことができないことはよくわかっているだろう。お前たちが望むと望まざるとにかかわらず、我々はお前たちの町を征服する。お前たちが我々に鍵を渡すかどうかも重要ではない。ただ、お前たちが自発的に鍵を渡し門をあけるなら、それはお前たちにとって決して悪いようにはならないだろう。」と言った。

市議会議員の何人かは代表団を殺すことを考えた。まるでその考えを読んだかのようにスウェーデン代表団のリーダーは顔にかすかに笑みを浮かべ、「あえてここでお前たちを殺すこともない。1時間の猶予を与えてやるから、その後、我々の司令官に城門の鍵を渡すのだ。」

「町を助けてくれるのであれば、町にあるお金と財産を全て差し出そう。」無駄なあがきだとはわかっていたが市長は言わざるを得なかった。代表団はしびれをきらし、「金や財産はすでに我々のものだ。我々はお前たちの町を要求しているのだ!」と厳しく言い放った。代表団が町を去ったあと、市民はパニックとなった。市庁舎の前では市民が市長や市議会議員からの話を待っていたが、勘の良いものは自分たちの置かれた状況がいかに絶望的かをすでに理解していた。

この町の塔の見張り役の男にロア(Lore)という娘がいた。ロアは城壁の上に上がり、スウェーデン軍の宿営地を見下ろした。そして何やら考えを巡らしているようであった。市長が静まり返った市民に対して町の状況を説明しているとロアが歩み寄り、市長と市議会に対して自分の計画を説明させてほしいと願いでた。

「一体どうするつもりだ?」市長はあまり関心のない乾いた声で訊いた。「町の子供たちを全員集めてください。子供たちと一緒にスウェーデン軍の駐屯地に行き、町を破壊しないようにお願いしてみます。たくさんの子供たちの存在は彼らの心を和らげてくれるはずです。」

「ダメだ。」と市議会議員の一人が息を呑んだ。「それは危険すぎる。あなたには私の子供は絶対に渡さない!」しかし、ロアは諦めずに言う。「聞いてください、危険なことは承知しています。しかし、今何もしなければ、いずれにせよ私たちは子供たちを失ってしまうのです!」その隣で市長は「あと30分もない・・・」と悲痛な声で言ったのだった。

「やらせてください。これは私たちに残された唯一の選択肢です。今何もしなければ間違いなく負けてしまいます。」ロアがそう言い終わると、今度は市長が「わかった、子供たちを全員集めなさい。わかっていると思うが、この計画が失敗すればスウェーデン人達は君たちをその場で全員殺すだろう。」と静かに、しかし確信をもって言った。

約束の時間は過ぎ、スウェーデン人は戦闘態勢に入る準備が整っていた。すると、一人のスウェーデン人兵士が言った。「見ろ。あれは何だ?」城門が開かれると、子供の手をつないだ若い女性が町を出てスウェーデン軍の陣地に向かってくるのだった。歌い、許しを請い、手を挙げて、彼らはスウェーデン人に慈悲を願ったのだった。

「どうしますか?」と兵士の一人が指揮官に尋ねたが、兵士は指揮官スぺレウスの顔から荒々しさと破壊の怒りが消え去っているのがわかった。指揮官スぺレウスは自身の息子を亡くしており、行進する子供たちを息子の在りし日の姿と重ね合わせたのだった。「この光景を見たからには、もう町を破壊することなどできない。ディンケルスビュールの町は破壊せずにおく。」と司令官は部下に命令した。ディンケルスビュールの市長と市議会議員は市壁に立って様子を見ていたが、何が起こっているのかわからなかった。目を凝らすと、子どもたちを伴ったロアとスウェーデン人の軍隊が一緒になって城壁の前をゆっくりと歩いている姿が見えた。

スウェーデン軍の指揮官は「お前たちディンケルスビュールの男どもができなかったことをこの少女と子供たちは成し遂げたのだ。子供たちが町を破壊から守ったのだ。」と言った。ディンケルスビュールの市民はその言葉を聞いて安堵の涙を流し、みなで大喜びした。ロアは生涯みなからの尊敬を集めたのだった。*お話の別のバージョンでは、町に入ってきたスウェーデン軍の代表団が司令官の息子が亡くなったことをうっかり話してしまい、ロアという少女がそれを聞いて知っていたというものもある。

帝国都市であったディンケルスビュールは三十年戦争の間、破壊されることなく8回の占領を受けた。町が救われた物語から、ディンケルスビュールでは今日でも毎年7月中旬になると「キンダーツェッへ」というお祭りを祝う。祭りは1897年から続いており、町を救った少女ロアと子供たちの伝承を地元の子供たちや市民が演じるのだ。

キンダーツェッヘの様子。街を練り歩く子供たち(Source:br.de)

しかし、ディンケルスビュールの郷土史家ゲルフリッド・アーノルド(Gerfrid Arnold)はこの伝承は一から作られた歴史的改ざんだと言っている。三十年戦争中にスウェーデン王グスタフ・アドルフがスぺレウスをディンケルスビュールに送ったことは事実であり、1632年、ディンケルスビュールはスウェーデン軍によって占領されている。そして町がスウェーデン軍による破壊を免れたことも事実であり、そこから「子供たちが町を救った」という脚色がついたようだ。

そもそもこの祭りが始まったのは三十年戦争の為ではない。祭りの起源は1475年頃の手紙から推測すると、この町にあったカトリックのコーラス学校の学校制度にあった。1552年には子供たちのグループが、太鼓を持って街を行進した文書で言及されている。 17世紀以来、子供たちは学校のお祭りを祝うために伝統的に太鼓をたたきながら町を出て行進したようだ。当初は太鼓のみだった楽器も長い年月とともに様々な楽器が追加されていき、最終的にはコーラスを含む楽隊になったようだ。そしてキンダーツェッヘの前身となるお祭りは、16世紀、帝国都市にラテン語教育の学校が設立されたことを祝ったときに始まったと考えられる。当時は学校のお祭り行事だったようだ。

学年の終わり、成績・行いが良かったラテン語学校の学生は教会と市が費用を負担して、ディンケルスビュール周辺都市への旅行に出かけることができたという。このことは1629年の文書に残っている。すでに三十年戦争が勃発していたにもかかわらず、市は高額な費用を負担して学生たちを遠足に出したことが1635年のカトリック教会の本にも記録されている。

三十年戦争中、ディンケルスビュールはカトリック教徒によって統治されていたが、住民の大多数はプロテスタントだった。三十年戦争が終結し、1649年に結ばれた市の平等協定によりルター派にも多くの権利が与えられ、1654年にはプロテスタントの子供たちも初めてキンダーツェッヘを開催したという。しかし、お祝いはカトリック教徒とは別に行われており、カトリック教徒の子供たちは数週間前に行っていたのだった。これは教皇グレゴリウス13世の暦改革の結果であり、 プロテスタントの行事は暦の上でカトリック教徒に10日遅れていたことに由来する。 ドイツのプロテスタントもグレゴリオ暦を採用したときになってはじめてキンダーツェッヘは両宗派の子供たちが合同で祝う祭りとなったのだ。つまりキンダーツェッヘが現在の形で行われるようになったのは1848年になってからだ。

1864年のキンダーツェッヘ(Source:wikiwand.com)

1884年にローテンブルク・オプ・デア・タウバーの《マイスタートルンク》フェスティバルを近代化した音楽家ルートヴィヒ・シュタルク(Ludwig Stark)はディンケルスビュールのキンダーツェッヘへの参加に関して市と契約書を交わしている。これはもちろんディンケルスビュール市がローテンブルクと同様のフェスティバルを望んだからに他ならない。ルートヴィヒ・シュタルクは1897年のキンダーツェッヘでスウェーデン軍指揮官スペレウスに対峙する形で少女ロアを登場させたと言われており、学校のお祭りが歴史をモチーフにしたパレードへと転換された時期であった。

キンダーツェッヘを祝う子供たちには市から「グッケ」)(Gucke)が配られる。「グッケ」とはドイツ語でテューテ(Tüte)つまりバッグのことだ。町を救ってくれたお礼に子供たちはお菓子がいっぱいに詰まったバッグをもらうのだ。

キンダーツェッヘは2014年12月からバイエルン州の無形文化遺産に、2016年12月からはドイツ連邦共和国の無形文化遺産に登録されている。フランケン地方における三十年戦争により被害は甚大で、一部地域では40%から50%も人口が減少したという。ディンケルスビュール、アルトドルフ、ローテンブルクには現在でもこの戦争に端を発する祭りが残っているが、戦争の恐怖や悲惨さを反映していない楽しいフェスティバルとなっている。

参考:

pressenet.info, “Die Sage von der Dinkelsbühler Kinderlore”, Ulla Schmid, 04.2019, https://www.pressenet.info/sagen/sage-kinderlore-kinderzeche-schweden-dinkelsbuehl.html

br.de, “Die tapferen Kinder von Dinkelsbühl”, 15.07.2016, https://www.br.de/nachricht/mittelfranken/inhalt/kinderzeche-dinkelsbuehl100.html

nordbayern.de, “Dinkelsbühl erinnert mit Kinderzeche an Dreißigjährigen Krieg”, 12.05.2018, https://www.nordbayern.de/region/dinkelsbuhl-erinnert-mit-kinderzeche-an-dreissigjahrigen-krieg-1.7579360

brauchwiki.de, “KINDERZECHE IN DINKELSBÜHL”, https://www.brauchwiki.de/kinderzeche/

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