ドイツ人の使徒 ボニファティウス

フルダ

ドイツ人の使徒と呼ばれるボニファティウスは、ヴィンフリス・ボニファティウスといい、イングランドのウェセックス出身のベネディクト会修道士だ。アングロ・サクソンの修道士が、未開のゲルマンへの布教を目指しやってきたのだった。716年、ボニファティウスまず、ドイツ北部のフリースラントで宣教活動を行った。現地で話されていた古フリジア語が、自身の母語であるアングロサクソン語と近いところから、現地語で布教をおこなったが、ちょうどこの時期、カール・マルテルとフリースラント王ラートボートとの争いが激化。一旦の故郷イングランドへの帰国を挟んで、718年、50歳のときに再度大陸側へと渡っている。この時、ボニファティウスがまず訪れたのは、ローマであり、この時に教皇グレゴリウス2世より「善をなす人」という意味で、「ボニファティウス」という名前を戴いている。

ドイツに再訪したボニファティウスは、ヘッセン、テューリンゲン、フランケン地方、バイエルン地方で布教活動をしている。ボニファティウスは、ザルツブルク、レーゲンスブルク、パッサウ、フライジングに司教座を設けている。

当時、ドイツの都市のなかには、キリスト教が布教されてはいたが、まだゲルマンの宗教が根強く残っている都市もあった。教義に厳しいベネディクト会派のボニファティウスは、そういった地域に布教を行い、現地の言葉でミサを執り行い、キリスト教会の改革も推し進めるのであった。

723年、現在のフリッツラー近郊のガイスマル(Geismar)に到着したボニファティウスは、現地の人がトールに捧げたオーク木を切り倒している。木を切り倒すときに、トール神に向かって、自らに雷を落とせと呼びかけたという。ボニファティウスがオークの古木を切り始めると、突然巻き起こった大風によりオーク木は倒され、これを見た人々はキリスト教へ改宗したと伝えられる。この時に切り倒したオーク木を使って、ボニファティウスは礼拝堂を建て、この場所に現在のフリッツラー司教座聖堂が建っている。なお、この時にボニファティウスが倒したオーク木の代わりにもみの木が見つけられ、これが最初のクリスマスツリーになったという説がある。

732年に、ボニファティウスが再度ローマを訪れた時に、ローマ教皇は、ボニファティウスを「宣教司教」に任命し、フランク王国の宮宰であるカール・マルテルも、ボニファティウスの保護状を出している。カール・マルテルがボニファティウスとキリスト教の布教を援助したのは、自身が対立していたザクセン人たちのに土着信仰を捨てさせ、キリスト教に改宗させることが、この地域の支配に好都合であると考えたからである。こういった特権をもって、ボニファティウスは、ヴュルツブルクとエアフルトに司教座を新設、フルダには修道院を設立している。

ボニファティウスは、746年にマインツに司教座を置き、そのままこの地に留まった。その後、ボニファティウスは再度フリースラントへと宣教の旅に出たのだが、そこで異教徒に殺された。ボニファティウスの遺骸はしばらくユトレヒトにあったが、後にフルダの修道院に埋葬され、そしてフルダ司教座聖堂の地下聖堂に移されている。今日、ボニファティウス像が、フリッツラー、フルダやマインツに設置され、ドイツにキリスト教を伝えた伝道師の業績を讃えている。

参考:

「ドイツの歴史百話」、坂井榮八郎、刀水書房

die-tagespost.de, “Von der Donareiche zum Weihnachtsbaum”, 23.12.2016, https://www.die-tagespost.de/kultur/feuilleton/von-der-donareiche-zum-weihnachtsbaum-art-174858

katholisch.de, “Bonifatius: Missionar und Reformer”, Peter de Groot, 05.06.2018, https://www.katholisch.de/artikel/58-missionar-und-reformer

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