ハンザの女王 | リューベック

リューベック

リューベックのシンボル、ホルステン門。この門は、1464年から1478年にかけて、市の城門として建てられた。何世紀にもわたって繁栄したハンザ同盟の都市リューベックは、この強力な壁によって外部の脅威から身を守る必要があったのだった。 3つの城門が都市への入場を制限し、北はブルク門(Burgtor)、南はミューレン門(Mühlentor)、西はホルステン門がその役割を果たした。 町の東側は、堰き止められたヴァーケニッツ川(Wakenitz)によって守られていた。ホルステン門の隣には、レンガ造りの「塩の倉庫」が立ち並んでいる。この倉庫は、リューネブルクから運ばれてきた塩を保管する為に使用された。ここに保管された塩で、北海やバルト海で獲れたニシンを塩漬けにし、各地へ輸出したのだ。

リューベックのホルステン門(筆者撮影)

1143年、ホルシュタイン伯アドルフ2世は、当時まだ未開の地だったトラーヴェ川とヴァーケニッツ川の間にある中洲に町を建設し、その地をリューベックと名付けた。町は1157年の火災で荒廃したことで、リューベックの住民はアドルフ2世の君主であるザクセン公ハインリヒ獅子公に助けを求めた。ハインリヒは新しい町を建設したが発展が見込めなかった為、アドルフからリューベックを買い取り、再建に着手。1159年、リューベックには都市特権が与えられた。

町の周りに廻らされた堀(筆者撮影)

この頃、北海で貿易をしていたドイツ人の商人たちは、バイキングなどの異民族と競合しながら商売をしていくため、遍歴商人の団体である「商人ハンザ」を形成した。この組合は活動地域を拡大していき、その商館はロンドンから、ルーシ、ノヴゴロド公国のノヴゴロドまで広がった。その後は、フランドルのブリュージュ、ノルウェーのベルゲンに拡大し、その勢力は地中海にまで及んだ。

北海における貿易と取引地域の拡大、そしてハインリッヒ獅子公による保護によって、リューベックは発展をつづけた。しかし、ハインリヒはバルバロッサこと神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と対立し、失脚する。

獅子公失脚後は、リューベックは名目上、王領地としてとどまるが、実質的にはホルシュタイン伯の支配下に入った。フリードリッヒ・バルバロッサはリューベックに多くの特権を与え、1227年にはホルシュタイン伯の支配を排して、帝国都市としての地位を与えた。リューベック市民の一部は周辺地域に移住し、ロストックやヴィスマールなどの町を築いた。

13世紀になると有力商人が都市参事会を通じて政治に参加するようになり、そういった都市間同士で条約が結ばれていった。これに伴い、ハンザ同盟は当初の商人団体から、都市同盟へと変容していった。その後、ハンブルクとも同盟を結んだが、次第に構成メンバー間での争いも起こった。まずリューベックとロストックが対立し、その後、リューベックはヴィスビューとも覇権を争うが、13世紀の末には、ハンザ同盟におけるリューベックの優位が確定した。

ハンザ同盟の盟主として、《ハンザの女王》と言われたリューベックは大きな役割を果たした。ハンザ同盟は、ロンドン、ノヴゴロド、ブリュージュなど各地に商館を置いたが、リューベック商人はノルウェーのベルゲンに商館を築き、ノルウェーの鱈を南に売却して大きな利益をあげた。また、リューネブルクの岩塩をおさえ、塩漬けにしたニシンの取引でも独占的な地位を誇った。

ハンザ同盟は諸都市間の同盟という性格上、恒久的な管轄組織は存在せず、同盟としての意思決定は、不定期に開催されたハンザ会議で決定された。1356年に最初のハンザ会議がリューベックで開催されている。開催は、リューベックやその周辺都市が持ち回りで受け持ったが、リューベックの市庁舎で開催されることが多かった。ハンザ会議が開催されるときには、町の財力を他のメンバーに誇示する為にも、会議場は華やかに飾られた。リューベックの市庁舎内部は、現在もツアーで見学可能だが、ハンザ会議の会場となった部屋は、非常に豪華なつくりになっている。(残念ながら、内部の写真撮影は禁止されている。)

リューベックの市庁舎(筆者撮影)

14世紀になると、ハンザ同盟都市のヴィスビューを占領したデンマーク王国との争いが激化した。1362年には、ヴァルデマー4世率いるデンマークと開戦。デンマークの領土拡大への野心に脅威を抱いていたノルウェー王国、スウェーデン王国、シュレースヴィヒ公国、ホルシュタイン伯国、ドイツ騎士団などもハンザ同盟に味方した。追い込まれたデンマーク側の停戦提案により、1370年、シュトラルズントの和議が締結され、ハンザ同盟とデンマークとの争いはハンザ同盟優位に終わった。

しかし、15世紀に入ると、ハンザ同盟にも陰りが見え始める。ネーデルラントとの対立からオランダ商人のバルト海での活動を許すこととなり、さらには力を付けたイングランドとも争いが勃発した。ついには、《カルマル同盟》を結んで北欧諸国を統合したデンマークに敗れて、ハンザ同盟はバルト海の覇権を失う。そして、これ以降、多くの都市がハンザを脱退していくのであった。

16世紀に入ると、欧州全域で宗教改革が広がり、ハンザ同盟もその対立に巻き込まれ、同盟の都市間で対立が生じた。 三十年戦争の勃発とともに、余力のなくなった他の構成都市に比べて、比較的力を保っていたリューベック、ハンブルク、ブレーメンの3都市が強固な軍事同盟を結ぶようになった。 三十年戦争後は、ハンザ同盟都市の大半は領邦国家に組み込まれ、ハンザ同盟の活動にも終止符が打たれた。全盛期には200もの都市が加盟したハンザ同盟は、1669年にその最後の会議を開いたが、参加した都市は6都市だけであった。 それ以降、バルト海の貿易の主役はスウェーデン、オランダへと移っていくのだった。

ハンザ同盟の終焉に伴い、リューベックは東西貿易の中心的ハブとしての機能を失った。これは、穀物などのバルク商品を運ぶ船が、リューベックに停泊することなくバルト海の港から北海の港に直接向かうようになったからだった。こうして、バルト海沿岸のハンザ同盟都市は仲介者としての役割を果たす機会を失った。

このように、貿易活動を中核とするハンザ同盟の活動は終焉を迎えたが、リューベック、ハンブルク、ブレーメンの3都市は、20世紀まで名目的に「ハンザ同盟」の加盟都市としての地位を維持した。これらの加盟都市では、現在でも車のナンバープレートが、HH(Hansestadt Hamburg:ハンザ都市ハンブルク)やHB(Hansestadt Bremen:ハンザ都市ブレーメン)、HL(Hansestadt Lübeck:ハンザ都市リューベック)となっており、ハンザ同盟都市の面影を残している。

参考:

luebeck.de, “Lübeck als Königin der Hanse“, https://www.luebeck.de/de/stadtleben/tourismus/luebeck/geschichte/luebeck-als-koenigin-der-hanse.html

wir-sind-luebeck.de “Die Geschichte der Hansestadt Lübeck”, https://wir-sind-luebeck.de/luebeck-entdecken/hanse-luebeck-hansestadt/

planet-wissen.de, “Hanse”, Gregor Delvaux de Fenffe, 20.04.2020, https://www.planet-wissen.de/geschichte/mittelalter/hanse/index.html

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