鉄腕ゲッツ

ハイルブロン

【ホルンベルク城】

ハイルブロンからネッカー川沿いに北へ30キロ進んだところに、ネッカーツィメルン(Neckarzimmern)という小さな町がある。その町のはずれには、12世紀頃に建てられたと見られるホルンベルクという城がネッカー川沿いに聳えている。この城を根城としていたのが、鉄製の義手を身につけた伝説の騎士、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン(本名、ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲン)である。

ボルンベルク城 (Source:de.wikipedia.org)

1480年頃、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは、現在のバーデン・ヴュルテンベルク州、ハイルブロン(Heilbronn)とバート・メルゲントハイム(Bad Mergentheim)の中間あたりにあるベルリヒンゲンという小さな町に生まれている。ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯フリードリヒ2世の元で騎士修行を積んだ。ゲッツは、貴族間の争いは自分たちで解決するという古い価値観を支持しており、1495年のヴォルムス帝国議会でマキシミリアン1世が永久ラント平和令を出して、帝国内の私闘を禁じたことを不当だと感じていた。

ゲッツの生まれたベルリヒンゲン(Source:de.wikipedia.org)

若かりし頃から、ゲッツの人生は波乱に満ちたものだった。1497年、17歳のゲッツは、アンスバッハ侯爵の従者として初めて戦争に参加している。その後は皇帝に仕えることで、ブルゴーニュ、ロレーヌ、ブラバントを通り、1499年にスイスに至った。しかし、ゲッツは次第に主君に仕える生活にも飽きてきており、このときすでに十分な兵力を持っていた。若き帝国騎士は主君にも反抗的になり、1500年、ゲッツは兄のフィリップと共に、タラッカー・フォン・マッセンバッハ(Thalacker von Massenbach)という悪名高い男に出会っている。タラッカーは、襲撃、略奪、人質をとって生計を立てていた典型的な強盗騎士だった。

この劣悪な環境で、20歳の青年は自由でワイルドなタラッカーの生活に憧れを感じていたが、シュヴァーベン同盟の武装した男たちに捕まりそうになった後、親戚がゲッツを呼び戻している。1501年の冬、最後の瞬間に親戚が所有していたゾデンベルク城(Burg Sodenberg)への逃亡に成功した。1502年、ブランデンブルク辺境伯のもとに戻って仕えていたゲッツは、はじめて自ら主導となって、ニュルンベルク市にフェーデ(私闘)を挑んだのだった。 1504年にゲッツはバイエルンのアルブレヒト公爵の旗の下で奉仕し、ランツフートの包囲に参加した。

ここでゲッツ・フォン・ベルヒンゲンはドイツ全土で「鉄の手を持つ騎士」として知られるようになる事件が起こったのだった。野戦砲からの射撃がゲッツの右腕に命中し、粉砕。右腕は切断する以外になかった。病床で数週間過ごした後、1505年にゲッツは村の鍛冶屋が作った鉄製の義手を手に入れた。これは開閉可能な指関節も再現した傑作であった。バネと歯車のシステムによって、着用者がもう一方の手でボタンを押すだけで操作できるものだった。当時の一般的な義手は、物体をつかむための単純な金属製のフックで構成されていたが、ゲッツのものは、指を個別に曲げることができた。この特殊な義手により、ゲッツは再び剣を手に取り、戦闘に参加することができたのだ。

ゲッツは、若かりし日に自分があこがれた強盗騎士タラッカーのように、強盗、誘拐、略奪、私闘を生業とする生活を選んだ。ゲッツは、ケルン、バンベルク、ニュルンベルク、そして国の平和を守ることを目的として結成された諸侯連合であるシュヴァーベン同盟(Schwäbischer Bund)に対して30にも及ぶ私闘を行った。ゲッツの「事業」は順調に進んでいた。

その後の7年間、ゲッツは15の決闘・私闘を行い、戦利品や身代金と引き換えに「友人と善良な仲間」を助けた。 1512年5月、ゲッツがフォルヒハイム(Forchheim)近郊で95人の商人を襲撃したときは、さすがに神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世も黙って見過ごすことはできず、ゲッツを帝国追放処分を下したのだった。しかし、ゲッツは従わず、相変わらず悪行を続けた。1516年には身代金強要目的で、フィリップ・フォン・ヴァルデック伯爵(Philipp von Waldeck)を捕らえたことで、再び追放刑を受けている。

それでも、ゲッツは無鉄砲にも、1519年までハイルブロン市からの軍隊によって制圧を受けるまで、私闘・襲撃を続けたのだった。このとき、ゲッツは捕らえられ、ハイルブロンの牢獄に収監されている。友人の騎士フランツ・フォン・シッキンゲン(Franz von Sickingen)が2000ギルダーを支払い、ゲッツを釈放するまで、刑務所で3年間過ごした。釈放に際しては、今後はいかなる私闘にもかかわらないと近い、祖先の地、ネッカー川沿いのホルンベルク(Hornberg am Neckar)に引退することが条件であった。

ホルンベルクに展示されているゲッツの鎧(Source:de.wikipedia.org)

1525年の春、ドイツ農民戦争が勃発。 4月24日、最も重要な農民軍の1つである「オーデンヴェルダー・ハウフェン」(Odenwälder Haufen)がゲッツの居城へとやって来て、ゲッツを農民軍の隊長として迎え入れたのだった。しかし、ゲッツは農民にはまったく規律がなく、ただただ走り回っては、何でも略奪することに気づいた。農民たちは捕らえたフォン・レーヴェンシュタイン伯爵(Grafen von Löwenstein)たちを麻袋に入れ、羊飼いの杖で叩いてはその状態で行軍させり、好き放題行った。

「オーデンヴェルダー・ハウフェン」を指揮し、ゲッツはシュヴァーベン同盟の騎士団にいくつかの小競り合いを挑んだ。そして4週間の混沌とし​​た戦闘を演じた後、ゲッツは一旦は自身の城に戻っている。しかし、城での生活が退屈になった頃、ゲッツは再び城を出て、1528年、アウグスブルク近郊での戦闘に加わり、そこで捕虜になっている。2年間を牢獄で過ごした後、罰金の支払いとともに、二度と自身の城を離れないという約束のもとでゲッツは釈放された。10人の子供の親であるゲッツも50歳となり、少し落ち着いてきたのか、このときは約束を守ったのだった。

1542年、皇帝カール5世がトルコ軍に対抗するためハンガリーへと進軍したとき、鉄の手を持つ騎士はもはや自分の居城でじっとしていることはできなかった。 彼は亡命して東へと進軍、1544年にはフランスに対する戦闘にも参加した。 戦闘、逮捕、釈放の繰り返しという波乱の人生を送ったゲッツは、1562年に82歳でその生涯を終えた。

ゲッツ・フォン・ベルリシンゲンは死後、一旦はその存在を忘れ去られるのだった。彼の存在を目覚めさせたのはゲーテであった。 1773年、当時まだ無名であった詩人のヨハン・ヴォルフガング・ゲーテは、自身の作品の中で、ゲッツを「高貴でありながら勇敢であり、不遇のときも落ち着きと忠誠を失わなかった騎士の鏡」と称賛した。実際のゲッツはこの描写とはかけ離れた人物だったが、このゲーテの作品により、世にその存在を知られることになったのだった。

ヤクストハウゼン(Jaxthausen)の博物館に収められたガラスに描かれたゲッツ(Source:de.wikipedia.org)

参考:

welt.de, “Der rauflustige Ritter mit der eisernen Hand”, Jan von Flocken, 28.06.2007, https://www.welt.de/kultur/history/article982050/Der-rauflustige-Ritter-mit-der-eisernen-Hand.html

g-geschichite.de, “Für jede Fehde zu haben”, Frauke Scholl, 24.03.2016, https://www.g-geschichte.de/plus/berlichingen/

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