テューリンゲンの森の北縁、ゆるやかな丘陵が続くあたりに足を踏み入れると、風景は次第に静けさを帯びていく。
ゴータ(Gotha)から南へ少し進んだフリードリヒローダ(Friedrichroda)は、いまでは保養地として知られる穏やかな町だが、その奥にひっそりと佇むラインハルツブルン城(Reinhardsbrunn)に近づくにつれ、空気はどこか張り詰めたものへと変わる。

整えられた庭園や修復された建物は一見すると平穏そのものだが、この場所がかつて、血縁と裏切り、そして執念が交錯した舞台であったことを思うと、その静けさはむしろ不自然にさえ感じられる。
城に付随する教会の内部は、外の風景とは対照的に簡素で重々しい。その中に、マイセン辺境伯ならびにテューリンゲン伯フリードリッヒ1世(Friedrich I.)の墓石が静かに置かれている。

説明がなければ見過ごしてしまいそうなこの石の下に眠る人物は、《噛跡公(der Gebissene)》という異様な異名で知られている。
だが、その名は単なる逸話ではなく、一族の崩壊と再生、そして個人の苛烈な運命を象徴するものでもあった。
フリードリッヒ1世は、シュタウフェン朝の崩壊後という混乱の時代に登場する。1268年、バルバロッサの曾孫であるコンラディン(Konradin)がナポリで処刑されたことで、北海からシチリアに至る広大な帝国を築いたシュタウフェン家の支配は完全に終焉を迎えた。
しかしその余燼は完全には消えていなかった。テューリンゲンには、ホーエンシュタウフェン家の血を引く後継者が存在していた――それがフリードリッヒ1世である。

彼はしばしば「最後のシュタウフェンの王」とも呼ばれる存在であった。
彼の生涯は、祖先の遺産を取り戻すための終わりなき闘争であった。キフホイザー山に伝わる「山で眠る皇帝」の伝説も、もともとはこのフリードリッヒに結びついていたとされる。後世になって、より名高い祖先であるフリードリヒ・バルバロッサへと物語の主役が置き換えられたに過ぎない。
フリードリッヒは幾度も運命に打ちのめされながらも、決して屈しなかった。父アルブレヒト堕落伯(Albrecht des Entarteten)の裏切り、さらにはハプスブルク家の政治的圧力にも抗い続けたその姿勢から、彼は《勇敢伯(der Freidige)》という異名でも呼ばれている。
その父、アルブレヒト2世は、もともとヴェッティン家の有力な領主であった。父ハインリヒ3世貴顕伯からテューリンゲンとザクセン宮中伯領を継承し、1254年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の娘マルガレータ・フォン・シュタウフェン(Margaretha von Staufen)と結婚している。

二人の間にはハインリヒ、フリードリッヒ、ディーツマン、アグネスの四人の子供が生まれた。
しかしこの結婚は、やがて破綻する。アルブレヒトは妻を捨て、彼女の侍女であったクニグンデ・フォン・アイゼンベルク(Kunigunde von Eisenberg)と関係を持つようになる。皇帝の娘としての誇りを持つマルガレータにとって、これは耐えがたい裏切りであった。
だが事態はそれにとどまらない。アルブレヒトは愛人との結婚を望むあまり、ついにはマルガレータの殺害を企てるに至る。
この計画は失敗に終わったが、マルガレータはもはや宮廷に留まることができなかった。1270年6月24日、彼女はヴァルトブルクを去る。その際、愛する子供たちと十分に別れを告げることすら許されなかった。
とりわけフリードリッヒには、別れの悲しみのあまり激しく抱き寄せ、そしてその頬を噛んだと伝えられている。そのとき残された傷跡が、後に彼を《噛跡公》と呼ばせる由来となった。
マルガレータはクライエンブルク(Krayenburg)、クロイツベルク修道院(Kloster Kreuzberg)を経てフルダ(Fulda)へと向かい、最終的にフランクフルト・アム・マインに辿り着く。しかしその年のうちに、悲しみの中で命を落とした。
彼女の死後、アルブレヒトはクニグンデと再婚する。そしてその愛情は完全に後妻とその子アピッツ(Apitz)へと傾いた。彼は実の子供たちを排除し、アピッツにテューリンゲンを継がせようとする。この露骨な偏愛は、ついにフリードリッヒとの決裂を招いた。
フリードリッヒは父に対して反旗を翻し、戦争が始まる。当初は劣勢に立たされたものの、やがて戦局を巻き返し、ついには父アルブレヒトを捕縛するに至る。
神聖ローマ皇帝ルドルフ(Rudolf von Habsburg)の仲裁によってアルブレヒトは解放されるが、彼はなおも息子への敵意を捨てなかった。
ついには、自らの領土を売却するという暴挙に出る。1294年、テューリンゲン全土を94,000グルデンでアドルフ・フォン・ナッサウ(Adolf von Nassau)に売り渡したのである。だが1298年、アドルフが戦死したことで、この取引は結果的に無効化される。
その後、アルブレヒトはさらにエリザベス・フォン・アルンシャウク(Elisabeth von Arnshaugk)と三度目の結婚をするが、溺愛していたアピッツは彼より先に死亡する。
最終的にフリードリッヒとアルブレヒトは和解し、フリードリッヒがテューリンゲンを継承することとなった。
なお、母によって刻まれたとされる頬の傷跡は、生涯にわたり彼の顔に残り続けたという。
一方、後妻の子を偏愛し、実子との内戦を招いたアルブレヒトは、「堕落伯」という不名誉な異名を背負い、死後も《ヴェッティン家の黒い羊》と呼ばれることとなった。
ラインハルツブルンの教会を出ると、外の光がやけに柔らかく感じられる。森の向こうから吹き抜けてくる風は穏やかで、ここで語られる激しい歴史とはまるで無関係のように思える。
しかし、墓石の下に眠る人物の人生を思い起こすと、この静けさは単なる偶然ではなく、すべてが過ぎ去った後にだけ訪れる種類のものなのだと気づく。
血縁は本来、人を結びつけるものであるはずだった。だがこの一族においては、それが最も激しい対立の原因となった。裏切り、憎悪、そして執念の連鎖の中で、それでもなお生き残り、領土を取り戻したフリードリッヒ。
その頬に刻まれた傷は、単なる逸話ではなく、彼が背負った時代そのものの痕跡だったのかもしれない。
参考:
mdr.de, “Friedrich der Gebissene – Der letzte Staufer”, 13. September 2010, https://www.mdr.de/geschichte/weitere-epochen/mittelalter/artikel124932.html
saechsische.de, “Friedrich der Gebissene”, 24.12.2005, Kerstin Klauer-Hartmann, https://www.saechsische.de/plus/friedrich-der-gebissene-1264717.html
zeno.org, “Friedrich der Gebissene”, http://www.zeno.org/Brockhaus-1809/B/Friedrich+der+Gebissene




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