《皇帝の島》と呼ばれる理由は?

カイザースヴェルト

デュッセルドルフ空港の北側、旧市街に出るのとは反対の方角に、カイザースヴェルトという町がある。デュッセルドルフ市に属するライン川沿いの小さな町で、日本人駐在員も多く住む閑静な住宅街だ。デュッセルドルフの旧市街からも地下鉄一本で行くことができる。町の規模こそ小さいが、デュッセルドルフよりはるかに長い歴史を誇っている。

カイザースヴェルト、その名前は、カイザーが《皇帝》を、ヴェルトが中高ドイツ語で《島》を意味し、《皇帝の島》という意味合いを持つ。

695年から700年にかけて、アングロサクソン人の修道僧ズーベルトス(Suitbert)は、このライン川に浮かぶ島ににベネディクト会修道院を設立したことが、町の始まりとなっている。カロリング朝の始祖であるピピン1世(大ピピン)の息子、ピピン2世(中ピピン)が、ズーベルトスに、この島を与えたと言われている。その為、もともとこの土地はズーベルトスヴェルトと言われていた。(この修道僧の名前は、カイザースヴェルト南の湖の名前としても残っている。)その後、ベネディクト会修道院が破壊され、877年に《カイザースヴェルト修道院》が設立されている。

1500年頃の聖ズーベルトスの伝記によると、聖ズーベルトスの誕生と彼の修道僧としての生涯は、あらかじめ星の出現によって預言されていたとう。その為、アトリビュートとして星を持っている姿で描かれることが多い。

8世紀初めに建てられていた聖ペテロ修道院教会の替わりに1050年頃に凝灰岩から建てられた教会。聖ズーベルトスの遺骨が納められている。

1062年、ここカイザースベルトで大事件が起こる。《カイザースベルトの皇帝強奪事件》(Kaiserswerther Königsraubs)の舞台となったのだ。ケルン大司教であったアンノは、当時12歳だったヘンリー4世を船に誘い込み、そのまま誘拐してしまったのだ。そして、以降、母親の影響から彼を引き離し、自分自身で養育する。それ以来、ハインリッヒと教会との関係は分裂し、その後のカノッサへの屈辱へとつながるのだった。

1145年、カイザースベルトはコンラート3世から帝国都市の特権を与えられ、さらなる発展を遂げることになる。

1174年、フリードリヒバルバロッサ皇帝はラインの通行料をオランダのティールからカイザースヴェルトに移し、当時、ライン川の真ん中にあった島に税関要塞として新しい居城を建設する。その頃、このカイザースヴェルトは全盛期を迎える。カイザースヴェルトの建設にあたって、ドイツの叙事詩《ニーベルンゲンの歌》でも有名なドラヘンフェルス城から船で石材を運んだと言われている。石積みは50メートル以上あり、現在、我々が目にする廃墟は、かつて存在していた巨大なカイザープファルツの一部でしかない。壁の厚さは4.5メートルに達するといい、皇帝バルバロッサは、難攻不落といえる要塞を手に入れたのだった。中世の統治者は、ひとところに留まって生活をするのではなく、移動しながらの生活が主だったため、バルバロッサ帝もこの居城に常時滞在したわけではなかったが、近くに来るたびに立ち寄ったという。

カイザープファルツは、15世紀半ばからケルン大司教の所有となり、 1689年と1702年のスペイン継承戦争の間、城は2度フランス軍の手に落ちた。城は占領の過程でひどい損傷を受け、選帝侯であったヨハン・ヴィルヘルムは、再び敵に占領されることを恐れて、城を爆破している。

度重なる戦争で廃墟と化した城は、ほぼ2世紀の間、石材の採石場として扱われたのだった。20世紀初頭になってようやく、カイザープファルツの保護が始まった。このように、バルバロッサが税関をカイザースヴェルトに移管して以来、町は発展を遂げたが、ライン川の交通の要所にあった為、その豊富な税収を巡って町は戦争に巻き込まれ、包囲され、破壊されるといった苦難にも巻き込まれたのであった。

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