ブランデンブルクの「もうひとつの奇跡」

トルガウ

トルガウは、ライプツィヒの北東へ50キロ、エルベ川の西岸にある小さな町だ。973年の文書で言及されている古い町である。1485年、エルンスト(Ernst)とアルブレヒト(Albrecht)兄弟の間で《ライプツィヒ分割》が起こった時には、エルンストがこの町を自身の勢力圏に組み入れた。トルガウはマルティン・ルターとも縁が深く、長らくプロテスタントの重要な町であった。1546年から1547年までのシュマルカルデン戦争では、プロテスタント側が皇帝カール5世に敗北し、ヴィッテンベルクが降伏した結果、トルガウはヨハン・フリードリヒ(Johann Friedrich)支配下のエルネスティンーザクセンから、彼の従弟にあたるドレスデンのモーリッツ(Moritz)支配下のアルバーティーンーザクセンへと編入されている。

また、マルティン・ルターの妻、カタリナ・フォン・ボラ(Katharina von Bora)が、未亡人となってから、ヴィッテンベルクで発生した疫病から逃れるため、この町にやってきている。しかし、1552年12月20日、馬車による事故のため、カタリナはトルガウで亡くなっている。彼女の墓は、聖マリエン教会(St. Marien)に安置されている。

小さいながらも歴史の深い町だが、トルガウは、7年戦争においてオーストリア軍とプロイセン軍が熾烈な戦いを繰り広げたことでも知られている。この戦いは、敗北目前であったプロイセン軍が、局地戦ながらもオーストリア・ロシアの連合軍に肉薄したという点で、7年戦争において最も重要な戦いの一つと数えられている。

1760年10月9日、ロシア、オーストリア、ザクセン連合軍はベルリンに入った。彼らは侵略した土地を荒廃させて進んだ。プロイセンの首都、ベルリンだけでも、周辺地域が破壊されたことは言うまでもなく、被害総額は200万ターラーに上ったと推定される。

連合国のベルリンへ侵攻は、七年戦争の第2段階におけるフリードリヒ2世の弱さの表れと捉えることができる。 1759年8月にクーネルスドルフ(Kunersdorf)近郊でロシア軍とオーストリア軍に壊滅的な敗北を喫した後、その悲惨な結果から、よく言われる「ブランデンブルク家の奇跡」が、防衛に徹していたフリードリッヒを救ったのだった。

1760年、これは、同盟国の圧倒的な優位性に対して、フリードリッヒが戦争が継続する際に最重要であるザクセンとシレジアを結ぶラインをなんとしても維持しなければならないことを意味していた。フリードリヒは、オーストリアの主力軍がブレスラウ(Breslau)北部にあるリーグニッツ(Liegnitz)近郊で集結するのを阻止したが、同時に自軍も大きな損失を被った為、ザクセンへと撤退しなければならなかった。


三十年戦争により、ブランデンブルクは廃墟となった。しかし、わずか数世代でブランデンブルク選帝侯はそれを神聖ローマ帝国で2番目の大国へと発展させた。

王に部隊を分割させるため、トットレーベン将軍(Tottleben)とツェルニショウ将軍(Tschernyschow)率いるロシア軍がブランデンブルクに進軍した。オーストリア軍とザクセン騎兵隊がそれを支援した。

強化されたベルリン駐屯軍が連合国の前進を止めることに成功した。しかし、14,000人のプロイセンに対して35,000人の同盟国軍という、圧倒的な軍事力の差を考慮して、プロイセンの野戦軍は西に撤退することを余儀なくされた。ロシア軍が都市を占領している間、オーストリア軍とザクセン軍は約12万人の住民がいる首都郊外へと広がった。占領地の平等な割譲をめぐる論争は、同盟国間に深刻な対立を引き起こし、アンシャン・レジーム下での連合国側の問題点を改めて浮き彫りにした。

占領軍はすぐに公共の建物を略奪し破壊し始めた。造幣局から貴金属と鋳造機が持ち出されたように、火薬・武器工場からは材料、兵器庫からは軍事品が運び去られたのだった。コサック(Kosaken)、パンデュール(Panduren)、ハサール(Husaren)などの軽騎兵部隊は周辺地域を襲撃し、シャルロッテンブルク(Charlottenburg)、フリードヒスフェルデ(Friedrichsfelde)、シェーンハウゼン(Schönhausen)の王宮を奪った。しかし、将軍はサンスーシ(Sanssoucis)宮殿の破壊は阻止した。ベルリンの知事は、50万ターラーの寄付を支払うように命じられた。

10月11日、フリードリヒは自身の居城を防衛する為、北への強行軍を開始したことが明らかとなった。 それに対し、オーストリア軍とザクセン軍はすぐにトルガウ(Torgau)近くのエルベ川に撤退した。 ロシア人は13日までそれに続いたが、その後オーデル川へと戻っていった。 11月3日、フリードリヒはトルガウでオーストリア軍を捉え、長時間の戦いの後、敵軍を打ち負かすことに成功した。 しかし、その過程で、フリードリッヒは自軍の3分の1以上にあたる約2万人の兵士を失った。

1762年初めにロシアのエカチェリーナ皇后が亡くなるまで、プロイセンの奮闘は、自国の政治的存続を確保するうえでのもうひとつの「奇跡」となった。 そしてこの後、エカチェリーナの後を継いだピョートル3世は、フリードリヒ側へと寝返ったのだった。

参考:

welt.de, “Russen, Österreicher und Sachsen plündern Berlin”, 22.09.2021, Florian Stark, https://www.welt.de/geschichte/article169392601/Russen-Oesterreicher-und-Sachsen-pluendern-Berlin.html

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