シュパイヤーに響く鐘

シュパイヤー

シュパイヤー大聖堂は、別名カイザースドーム(皇帝大聖堂)と呼ばれる。現在、世界遺産にも登録されているこの大聖堂には、多くの皇帝、皇族が埋葬されていることに由来する。この地に埋葬されている皇帝のなかで、ハインリッヒ4世とその息子、ハインリッヒ5世には次のような伝説が伝わっている。

神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世は、教皇の権力下で耐えるのに苦労していた。彼の王位は不運続きであったが、彼の一族にもこの不幸が忍び寄っているようだった。教皇による破門に続いて、諸侯たちの反乱が起こり、続けて我が子による陰謀さえも起ったのだった。

ハインリッヒの長男であるコンラート(Conrad)は公然と父親に反旗を翻し、父親を軽蔑し不遜に扱った。このコンラートが突然亡くなったとき、次男ハインリッヒは父親を退位させるよう試み、彼に対して陰謀を企てたのだった。ハインリッヒは皇帝位を放棄することを余儀なくされ、絶望した皇帝は一人の忠実な僕、クルト(Kurt)を伴ってリエージュ(Liège)へと逃亡し、そしてそこで人生の幕を閉じた。

ハインリッヒ4世の遺体は、国外の異教徒の地に5年間も放置された。クルトは忠実であり続け、主君の埋葬地で絶え間なく祈りを捧げた。ハインリッヒ5世の要請により、教皇は破門を取り消すことに同意した。ハインリヒは父親の遺体をシュパイアーへと運び、厳粛に埋葬するよう命じた。

クルトはシュパイアーへの行列に従うことを許されたが、老人が死ぬのをじっと見守ったことに疲れ果てていた。ハインリッヒ4世が逝去した瞬間、過去の帝国の皇帝が亡くなったときにもそうであったように、シュパイアーの大聖堂の鐘は誰も手を触れていないのに鳴り響いたという。

それから何年も経過した。ドイツ皇帝ハインリヒ5世は、シュパイアーの豪華なソファに横たわり、死を待っていた。肉体的な苦痛は耐えがたいものだったが、精神的な苦痛はそれを上回っていた。ハインリッヒ5世は、彼の頭上に輝いている王冠を恥ずべき手段によって手を入れたことで、良心の呵責に苦しんでいた。ハインリッヒ5世の病床に、悲惨な状況で亡くなった父親の姿が現れ、彼の良心はさらに痛んだ。ハインリッヒ5世が息絶えたとき、ようやくすべての苦痛から解放され、同時にシュパイヤーの町に鐘の音が鳴り響いた。

伝説が伝えるように、ハインリッヒ4世は、実の息子であるハインリッヒ5世の裏切りにあっている。時のローマ教皇グレゴリウス7世から破門を受け、《カノッサの屈辱》として知られる叙任権闘争の真っただ中にあった。ハインリッヒ4世は教皇に涙の謝罪を行うという屈辱を一時的に受け入れたが、ドイツに戻ると反対勢力を抑え、反撃に打って出た。そして、最終的に教皇グレゴリウス7世をローマから追放し、教皇は逃亡先のサレルノで憤死したと言われる。しかし、皇帝と教皇の権力闘争は収束せず、ハインリッヒ4世は、グレゴリウス7世の後を継いだウィクトル3世とウルバヌス2世とも対立を続けることになる。

ハインリッヒ4世の長男、コンラートはハインリッヒ4世の共治王であったが、父親の決定に反して離反してしまう。そのコンラートは、1101年に急死してしまったが、なんと今度は、次男のハインリヒ5世までも父親であるハインリッヒ4世に反逆を起こすのだった。1105年、息子であるハインリヒ5世に廃位されたハインリッヒ4世は、翌1106年にリエージュで失意のまま55年の生涯に幕を閉じている。ついに破門の身のままでこの世を去ったのであった。

ハインリッヒ4世はリエージュ大聖堂で埋葬されたのだったが、ローマ教会の破門が解けていなかった皇帝の埋葬に対して諸侯が反対した。その為、皇帝の遺体は墓から掘り出され、リエージュ郊外のまだ奉献されていない礼拝堂にひっそりと埋葬された。それからしばらくして、ハインリッヒ5世は諸侯の反対を押し切り、ハインリッヒ4世の遺体を再びリエージュに移し、そしてシュパイアーに移してから、1111年にハインリッヒ4世の破門が解かれた後、マリエンドーム(シュパイヤー大聖堂)に埋葬し直している。

皇帝位を手にしたハインリッヒ5世であったが、1125年5月23日、ユトレヒトで癌により39歳で亡くなり、父親と同じくシュパイヤー大聖堂に埋葬されている。ハインリッヒ5世は、1114年に結婚したマティルダ・オブ・イングランドとの間に嫡子がいなかったため、ここでザーリアー朝は断絶を迎えるのであった。

参考:

ww.lexikus.de/bibliothek/Legends-of-the-Rhine-(Sagen-vom-Rhein)/Speyer-The-Bells-of-Speyer”

コメント

タイトルとURLをコピーしました