悪魔に連れ去らわれたガイラナ夫人

ヴュルツブルク

ヴュルツブルクの中央駅を降りると、ひとつの彫像が出迎えてくれる。噴水の上に取り付けられたその像は、この町の守護聖人、聖キリアン(St.Kilian)だ。この噴水は《キリアン噴水》(Kiliansbrunnen)と呼ばれ、1895年に摂政ルイトポルト(Luitpold)によって町に寄贈されたものだ。噴水は、カララ大理石でできており、キリアンの銅像は重さが400キロあるという。皇帝とも縁が深く、司教都市として発展してきたヴュルツブルクだが、この町を語るうえで欠かせないのが、町の守護聖人として祀られているこの聖人の存在だ。

7世紀、北ヨーロッパの肥沃な緑の島、アイルランドは、中世には、ケルト人とヴァイキングによる争いの舞台となっていた。アイルランドの人々は勤勉で信仰深かった。キリスト教の信仰は多くの修道院を通して広まった。 島の中心部、現在のダブリン近くの小さな村で、アイルランドとスコットランドの著名な家族に男の子が生まれた。男の子は、「戦争」を意味するケルト語から「ケラ」(Ceallach)と名付けられた。幼い頃から敬虔に育ち、農村で作物の世話や牛の飼育を助けたが、聖書の勉強にも熱心であった。彼のその後の宗教生活において、「教会の人または僧侶」を意味する「キルヒマン」(Kirchmann)からキリアン(Kilian)という名前が付けられる。

アイルランドを出たキリアンは、従者であるコロナト(Kolonat)とトトナン(Totnan)を連れて、キリスト教を広めるためにフランケン地方へとやって来た。ヴュルツブルクに到着したキリアンと彼の同志は、農業、木材産業、畜産に関する実践的な知識で、地元の人から重宝され、信頼を勝ち取っていった。アイルランドから発した宣教師運動は、農業後進地域であった中央ヨーロッパの耕作の改善など、様々な知識の伝播と深く関係している。農地の開拓が進み、町の繁栄が進むにつれ、ドイツ人のキリスト教への関心が高まることとなった。その結果、多くの人がキリスト教に改宗することとなった。キリアンは、東フランク王国の公爵であり、町の領主であったゴツベルト公爵(Gozbert)にもキリストの教えを熱心に説いたのだった。そして、聖キリアンの努力は実り、公爵はキリスト教へと改宗するのだった。

しかし、そこで問題が起こる。このゴツベルト公爵は、兄の急死により、その未亡人であるガイラナ夫人(Gailana)と結婚していたのだった。これは、旧約聖書で許可されていないレビラト婚(義兄弟間の結婚)にあたり、当時の教会法に反していたのだ。

聖キリアンは公爵に結婚をあきらめるよう諭した。しかし、そのことを聞いて激怒したのが、公爵のガイラナ夫人だ。怒りに駆られたガイラナ夫人はキリアン暗殺を企てる。殉教の時が近いと悟ったキリアンは、二人の従者に語りかける。「恐れることはない。肉体を害することはできるが、魂を傷つけることはできない。」ガイラナ夫人が雇った暗殺者は、公爵が留守にしている間を狙って、まずキリアンを、続いてコロナト、トトナンを殺害。689年、この地にキリストを布教にやってきた3人は殉教した。その後、彼らの遺体は、現在、大聖堂とノイミュンスター教会が建っているあたりに埋められたのだった。

しばらく経って町では不思議なことが起こり始める。キリアンらを殺した暗殺者は突如正気を失い、気が狂ってしまったのだ。そして殺害を依頼したガイラナ夫人もある日突如として失踪してしまう。町の伝説では、夫人は悪魔によって連れ去らわれたと伝えられている。

悪魔に連れ去らわれるガイラナ夫人(フランケン博物館蔵)

3人の殉教から50年後の743年、ヴュルツブルク教区の最初の司教であるブルカルト司教(Burkard)は、大聖堂近くに埋もれていた骨を見つけ、マリエンベルクの司教教会へと移した。 752年7月8日、アイルランドの3人の僧侶、キリアン、コロナト、トトナンは、教区の聖人に昇格した。今日まで、3人の聖人のものとされる頭蓋骨は、ヴュルツブルク大聖堂の最も重要な聖遺物とされている。

ゴツベルト公爵の息子ヘタン2世(Heden II.)は706年頃に要塞の丘に最初の教会を建設した。聖キリアンは街の守護聖人として祭られることとなり、聖キリアンがブドウの栽培を奨励したため、毎年7月にはワイン祭りとして「聖キリアン(キリアニ)祭」が開催されるようになった。当時の民族衣装を身にまとった子供たちが、楽隊とともに町を練り歩くのだ。ワイン祭りは毎年7月の第1土曜に始まり、17日間続けられる。

ゴツベルト公爵の息子であり、ヴュルツブルクに最初の教会を建設したヘタン2世は、フランケンの歴史においても重要人物であり、彼の統治下で、742年にエアフルト教区を創設したウィリブロルド(Willibrord)と《ドイツ人の使徒》と呼ばれるボニファティウス(Bonifatius)がテューリンゲン族を改宗させ始めた。このことは、フランケン地方は、ボニファティウスによって司教区が設立される前に、キリアンなどによってキリスト教化の過程を経ていたことを示唆し、この地域のキリスト教史において、非常に重要な事実である。

現在のフランケン地方におけるキリスト教の起源は、6世紀初頭から8世紀半ばまでのメロヴィング朝による植民地化の過程に基づいている。このメロヴィング朝時代、つまり早くも6世紀には、フランケンの人々は、キリスト教に接していたと考えられる。

当時のキリスト教徒の生活についてはわかっていないことが多い。フランク王国の王に代わってテューリンゲン南部と本土を統治したゴツベルト公爵は、名目上のキリスト教徒というに過ぎなかった。人々はゲルマン神話、ローマ神話、そしてキリスト教の要素を混ぜ合わせたような環境で暮らしていた。この意味において、当時の人々の生活は、キリスト教に基づいた価値観と聖書の理解からまだかけ離れており、この地域のキリスト教化を図ったキリアンと公爵夫人との対立は、半ば避けられない運命だったと考えられる。

参考:

heilige.bistum-wuerzburg.de, “Heilige Kilian, Kolonat und Totnan”, Anja Legge and Jerzy Staus, https://heilige.bistum-wuerzburg.de/heilige/hl-kilian-kolonat-totnan/

osthessen-news.de, “Die Legende des Heiligen Kilian – große Begeisterung beim Publikum”, 06.07.2016, https://osthessen-news.de/n11534371/die-legende-des-heiligen-kilian-grosse-begeisterung-beim-publikum.html

heiligenlexikon.de, “Kilian von Würzburg”, Joachim Schäfer, 13.05.2021, https://www.heiligenlexikon.de/BiographienK/Kilian.htm

    

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