アデルハイドと3人の皇帝

マイセン
マイセン大聖堂(筆者撮影)

エルベ河畔に建つマイセン大聖堂。この大聖堂は、アルブレヒト城、司教城などと共にこの町の丘に聳える建築アッセンブルのいち役を担っている。このゴシック様式の大聖堂の内部も外観に劣らず見所が多い。ニュルンベルクの彫刻家、ヴィッシャー(Hermann Vischer der Ältere)の工房の手になる諸侯の礼拝堂やクラナッハによる祭壇三連祭壇画などが代表的な作品である。

クラナッハによる作品(筆者撮影)

また、内陣の北壁には、ナウムブルク大聖堂の工房により1260年頃に作成された、マイセン教区を設立した人物の記念碑が飾られている。この色彩豊かな一組の男女の像。これは神聖ローマ皇帝オットー大帝とその2番目の妻、アデルハイトをモデルとしたものだ。

アデルハイドとオットー1世の像(筆者撮影)

アデルハイドはオットー1世が皇帝になるのを助け、夫と帝国権力を共有した最初の女性であったと言われている。「皇后の中の皇后」と呼ばれ、半世紀以上の間、アデルハイドは帝国の運命を背負い続けた。

931年、現在のスイスの南東、フリブール(Fribourg)とヌシャテル湖(Neuchâteler)の中間あたりで生まれたアデルハイドは、帝国の思想に満ちた環境で幼少期を過ごした。彼女の父、ホッホブルグントのルドルフ2世は、彼女が6歳か7歳のときに亡くなっている。しかし、ルドルフ2世の息子、アデルハイドの兄であるコンラートはまだ跡を継ぐには若すぎた。ドイツ王のオットーはブルグントの併合を念頭に、コンラートを人質とした。この権力闘争におけるオットーのライバルであるイタリアのウーゴ(Hugo)は、目標をコンラートからアデルハイドの母親へと変更した。アデルハイドの母親で、イタリアの相続権を握るベルタ・フォン・シュヴァーベン(Berta von Schwaben)に結婚を強いることでブルグント(ブルゴーニュ)の支配を確保しようとした。アデルハイド自身はまだ子供だった頃に、ウーゴの息子ロタール(Lothar)と婚約させられている。


彼女の新しい家となったのは、古の王立都市パヴィアであった。アデルハイドはイタリア・ランゴバルト(italo-langobardisch)の伝統のなかで教育を受け、最高の学識を持った女性に贈られる「リテラティシマ(literatissima)」の称号を得ていることからも大変な才女であったと思われる。947年、継父ウーゴが軍事行動の準備中に命を落とした時、アデルハイドは16歳で婚約者のロタールと結婚し、後に西フランク王国の王女となるエマをもうけている。 こうしてイタリアの王位継承者であったロタールと結婚したことで、3年間、イタリア王妃の地位にあった。しかし、950年11月22日、結婚式からわずか3年後にロタールは死去。イタリアの王冠を狙っていたロタールの敵、ベレンガーリオ2世が毒殺したと考えられている。アデルハイドはわずか19歳で未亡人となり、危険のなかに身を置くこととなったのだった。

アデルハイドは、イブレア家(Ivrea)との再婚を通して、イタリアに対する支配権を確立し、ベレンガーリオの意志に抵抗した。アデルハイドはコモ城へと逃亡するが、951年4月20日、イタリア王に戴冠した ベレンガーリオ2世に捕らえられる。 ベレンガーリオ はアデルハイドを最初はコモ城に、次にガルダ城の地下牢に幽閉したのだった。しかし、アデルハイドはこの程度のことでは絶望しなかった。まるで映画のような話だが、アデルハイドはなんと牢獄の床を掘って脱出路を確保し、951年8月20日、危険を冒しながらも牢獄からの脱出に成功しているのだ。なんとかカノッサ司教のもとに逃げ延びることに成功している。 現在、メルゼブルクの大聖堂図書館に保管されている、羊皮紙でできた貴重なオットー家の聖書である「メルゼブルガー・ネクロログ(Merseburger Nekrolog)」には、アデルハイドが幽閉されていたころの様子が描かれている。

アデルハイドの一族と何世代にも渡って友好関係のあったオットー(後のオットー大帝)は、ブルゴーニュとイタリアの状況に介入するため、軍隊を率いてイタリアへと出発した。アデルハイドが脱出した頃、オットー1世は戦闘を交えることなくパヴィアへと移動し、ベレンガーリオはすでに戦闘をあきらめて逃亡している。後日、オットーはベレンガーリオを自身のイタリアにおける代理人とした。最愛の妻であった前妻のエドギダを失ってから5年間男やもめになっていたオットーは、再婚に相応しい妻を探していた。そしてこの時当然アデルハイドとの結婚を念頭に置いていた。

アデルハイドは、イタリアの王位継承者であった為、オットーはイタリア王であるだけでなく、後期カロリング朝の伝統によると皇帝候補でもあった。アデルハイドはオットーが求愛の印として贈った貴重な贈り物を受け取っている。 951年10月9日、アデルハイドはパヴィアで20歳の年上のザクセン王と結婚したのだった。この結婚は、後の神聖ローマ帝国の中核となる東フランク王国と北イタリアのロンバルト王国のつながりの基礎となった。

954年、アデルハイドは、オットーとの間に、後にクヴェトリンブルク女子修道院長となるマチルデを出産。 その1年後、アデルハイドは後にオットー2世となる男子を出産している。無事、世継ぎを残すことに成功したマチルデは、ザクセン王室から嫁いだオットーの最初の妻、エドギダよりも女性の伝統的な役割を超えて帝国内で重要な発言権を持つよう努めた。アデルハイドは王と同じく執務を行い、90以上に及ぶ文書のなかで、アデルハイドは帝国のあらゆる部分に介入している。古フランス語、イタリア語、ラテン語を操り、外国からの訪問者が宮廷を訪れた時には王の通訳も務めたのだった。そして、何より、彼女はオットーの帝国皇帝への道を開くことができる人物だったので、オットーにとってアデルハイドとのつながりは非常に重要であった。

959年、オットーは教皇ヨハネス12世からの援軍要請を受けた。教皇は、ベレンガーリオの独裁からの保護をオットーに頼み、ローマに来るよう懇願したのだった。その見返りとして、教皇はフランク王にローマ帝国の王冠を提供したのだった。 960年、オットーは自身の軍隊にアルプスを越え、ローマへ出発する命令を発令。この時、アデルハイドもオットーに同行している。

962年2月2日、アデルハイドは皇后として戴冠を行った。アデルハイドが西ローマ帝国の復活において決定的な役割を果たしたことは、戴冠式の直後に発行された証明書によって示されている。オットーは、帝国の共同支配を意味する「コンソーシアム・レグニ(consortium regni)」の称号をアデルハイドに与えている。

973年にオットー1世が亡くなった後、アデルハイトは息子のオットー2世の最も重要な顧問となり、国中を旅し続けた。しかし、ここでアデルハイドに思わぬライバルが現れる。東ローマ帝国からオットー2世に嫁いだテオファヌである。テオファヌも才女で知られ、アデルハイドに負けず劣らず、政治感覚に優れた人物であった。彼女は自身の義務が摂政としてのアデルハイドの職務と同等であることを主張した。以降、テオファヌは義母であるアデルハイドと事あるごとに対立するようになる。テオファヌもアデルハイド同様に夫の遠征には自ら同行し、帝国の統治においても采配を振った。

ドルンブルク・アン・デア・ザーレ(Dornburg an der Saale)では、アデルハイドとテオファヌの間で大きな喧嘩が起こったという。しかし、この事件がきっかけで、アデルハイドは一つの決断をした。以降、アデルハイドはドイツを離れ、パヴィアへと退き、帝国のイタリア部分に関連する事業を主に引き継いだのだった。

983年、オットー2世がマラリアによりわずか28歳で亡くなったとき、アデルハイドは再び帝国政治の中枢へと舞い戻るのだった。アデルハイドとテオファヌは、オットー2世が亡くなる1年前に、ヴェローナで和解する機会を得た。アデルハイドとテオファヌは早速、共同で大事業を行う必要があった。実は、オットー2世が18歳で皇帝位に就いた時、アデルハイドと共に摂政職に就いた人物がいた。オットー2世の従兄であったバイエルン大公のハインリッヒ喧嘩公(der Zänker)だ。しかし、ハインリッヒは皇帝の摂政職には満足せず、突如、オットー2世に対して反乱を起こし、自ら王位を狙ったのだった。

ハインリッヒ喧嘩公(Source:wikipedia.de)

ここから、ハインリッヒに味方する勢力とオットーとの戦闘が度々行われる。結局、ハインリッヒは、オットー2世の軍隊に敗北し、幽閉されることとなった。しかし、オットー2世の突然の死によって、ハインリッヒにもう一度チャンスが巡ってくる。ハインリッヒは幽閉を解かれ、ケルン大司教ヴァリン(Erzbischof Warin)によって、オットー3世にもっとも近い男系親族として、次期皇帝の後見人に任命されたのだった。当時、テオファヌ以外は、オットー3世の祖父アデルハイドも、彼の叔母にあたるマティルデもイタリアにいたため、この決定に異議を唱えることはできなかった。喧嘩公とあだ名されるハインリッヒはこの好機を逃さず、再度王位を狙う。ハインリッヒは支持者を集め、自身を強引に国王に選出させた。しかし、王位簒奪に反対した勢力やテオファヌを支持する勢力による激しい抵抗に合う。結局、皇帝側との戦闘を避けることを選んだハインリッヒは、当時3歳であったオットー3世の身柄をアデルハイドとテオファヌに戻すことにしたのだった。アデルハイドとテオファヌ。一時は意見の対立から仲違いを起こした二人であったが、二人は共同の目的のために共に手を携え、984年6月29日、ついにまだ幼い皇位後継者を救い出すことに見事成功したのであった。

その後、テオファヌは幼いオットー3世の摂政を7年間続ける。しかし、991年6月15日、テオファヌはオランダのナイメーヘン(Nimwegen)の宮廷で突如この世を去ってしまう。病気であったと言われるが、詳しい死因はわかっていない。まだ31歳という若さであった。テオファヌの遺体は、ケルンの聖パンタレオン教会に運ばれ、そこで埋葬された。

テオファヌの他界により、アデルハイドはついに孫の唯一の保護者となる。彼女は固い決意とその外交スキルで、政治的陰謀に身を投じ、孫であるオットー3世の戴冠を実現することに成功した。オットーが成人してからは、アデルハイドは引退し、慈善活動に専念。帝国における修道院の設立を推進した。彼女は自身の生まれ故郷であるブルグント公国にあったクリュニー修道院の改革を積極的に支援した。彼女はすでにパヴィア(Pavia)に修道院を設立し、パイェルヌ(Payerne)に2つ目の修道院を建て、それをクリュニー修道院に委譲していた。そこでは、961年に亡くなった母親のベルタの遺体が納められた。そして、アルザスのセルツに3番目となる修道院を建設した。晩年、彼女は、ブルゴーニュを巡礼した後、アルザスのセルツ修道院(Abtei Seltz)に入り、999年12月にこの世を去った。

アデルハイドが亡くなる26年前、メムレーベン(Memleben)の宮廷でオットー大帝が亡くなった時、大帝はマクデブルク大聖堂に埋葬されていた最初の妻、エドギタの隣に埋葬されることを望んだ。オットーは自身の望みどおり、妻エドギダが眠るマグデブルク大聖堂に埋葬されたのだが、オットーのこの決定が、アデルハイドの遺言に影響を与えた可能性は大きい。アデルハイドは、死後、夫の眠るマグデブルク大聖堂ではなく、自分が設立したセルツ修道院に埋葬してほしい、そう言い残してこの世を去ったのだった。オットーと共にマグデブルク大聖堂に埋葬されることはなかったアデルハイドであるが、現在、同市にある《オットーの道》と呼ばれる場所には、アデルハイドを讃える記念碑が飾られている。

マグデブルクの《オットーの道》にあるアデルハイドの記念敷石(筆者撮影)

詩人のフルムンド・フォン・テーゲルンゼー(Froumund von Tegernsee)は、オットー朝の皇帝の統治者の継承をサポートしてきたアデルハイドを「最も高貴な帝権と王権の贈与者」と呼んでいる。 オットー3世の皇帝戴冠式により、オットー朝による帝国位継承というアデルハイドの使命は達成された。 ほぼ50年続いたその治世において、アデルハイドはオットー朝の政治的、文化的な視野を広げることに貢献した。

アデルハイドの友人であったオディロ・フォン・クリュニュー(Odilo von Cluny)は、「彼女のような人物はそれまでに存在しなかった」という表現で、自身の著書《エピタフィウム・アダレイダエ》(Epitaphium Adaleidae)の冒頭で、アデルハイドを称賛している。アデルハイドは生前、病人を奇跡的に癒したという複数の報告により、その墓が巡礼の対象になっていた。1097年、教皇ウルバヌス2世(Papst Urban II.)は、アデルハイドを列聖。3人の男を皇帝にした才女は、聖人となったのだった。奇跡の真贋はともかく、アデルハイドは信仰心が強く、数多くの修道院を設立したことは確かだ。当時はまだオットー1世に始まる帝国教会政策を推し進めている時代であり、教会、修道会の設立は帝国運営にも関連する事業であった。

アデルハイドの死後わずか2年、オットー3世は21歳で急死する。オットー3世には跡継ぎがなかった為、又従弟にあたるハインリッヒが皇帝位を継いだが(神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世)、ハインリッヒも子供に恵まれず、これをもってオットー朝(ザクセン朝)は断絶するのである。

参考:

mdr.de, “Eine mächtige Frau: Adelheid von Burgund”, 13. September 2010, https://www.mdr.de/geschichte/weitere-epochen/mittelalter/artikel124798.html

blog.nationalmuseum.ch, “Die Frau, die drei Männer zum Kaiser machte”, Justin Favrod, https://blog.nationalmuseum.ch/2020/09/adelheid-von-burgund/

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