ヴュルテンベルクのあご髯の伯爵 | エバ―ハルト2世

シュトゥットガルト

【ドイツの歴史】シュトゥットガルトのシュティフト教会にある彫像

シュトゥットガルトのシュティフト教会(参事会教会)は、ヴュルテンベルク地域のプロテスタント教会である。この教会の聖歌壇の北壁には、11体の像が立っている。これは、1574年、ルートヴィヒ・セム・シュレル公爵が作成依頼をしたもので、11人の歴代ヴュルテンベルク伯爵を描いている。それぞれが歴史的に正しい鎧を纏った姿で表されており、頭上に設置された黒い大理石のプレートには、各自の名前、生年月日、死亡日、紋章などが刻まれている。この11体の中央に位置するのが、ヴュルテンベルクの領土を拡大したエバ―ハルト2世である。

エバーハルト2世

彼が1362年に権力を握って以来、エバーハルト伯爵(Eberhard)には1つの大きな目標があった。それは、領土が分割されていたヴュルテンベルクを統一することだった。それは個人的な野心だけでなく、略奪を行う騎士や都市の悪徳高利貸しによって被害を受けた農民に、統一された法律による最低限の法的安全を保証することに関心を持っていたのだった。そのため、エバーハルトは庶民に非常に人気があり、その外見から「ラウシェバールト(Rauschebart:ふさふさしたあご髯)」として尊敬され、 エバーハルト を憎む者は彼のことを「喧嘩屋」という意味で「グライナー」と呼んだ。

エバ―ハルトが ヴュルテンベルク の領土を拡大することに反対するシュヴァーベンの騎士団は、伯爵を憎み、「シュレーゲルブルダーシャフト(Schlegelbruderschaft)」としても知られる同盟「マルティンスフォーゲルン(Martinsvögeln)」を結成した。彼らは暗殺をも厭わない一団であった。エバーハルトは、毎年春になると休暇のためにシュヴァルツヴァルト北部に滞在することが皆に知られていたため、1367年に、騎士たちは、ヴィルトバート・アン・デア・エンツ(Wildbad an der Enz)で伯爵を捕獲し、騎士に特権を保障するまで地下牢に監禁することにした。しかし、羊飼いが伯爵に警告し、闇夜に紛れてザベルシュタイン城(Zavelstein)への逃げ道へと伯爵を導いたので、騎士たちの攻撃は失敗に終わった。

エバ―ハルトが逃げ込んだ ザベルシュタイン城

1年後、 ヴィルトバート での襲撃に反撃する為、長いあご髯の伯爵はハイムスハイム(Heimsheim)を出発した。そこに集まっていた「王たち」は伯爵によって一掃されたが、はるかに危険な敵、ヴュルテンベルクの都市が残っていた。彼らは、莫大な富を有しており、その資産により強大な傭兵軍を擁していた。 1376年7月、ウルムの指導の下、14の帝国都市が団結してシュヴァーベン都市同盟を結成し、エバーハルトは宣戦布告を行った。当時、戦争は主に民間人による相互略奪の形で行われていた。

1377年5月、市軍が再びヴュルテンベルク地方を荒廃させた。エバーハルトの一人息子であるウルリッヒ伯爵(Graf Ulrich)は、その戦利品を盗むためにロイトリンゲン(Reutlingen)近郊でこの軍隊の邪魔をした。しかし、彼の一団は待ち伏せされ、大敗を喫したのだった。 60人以上の騎士が倒れ、ウルリッヒ自身は重傷を負ったが、土壇場で逃げることに成功した。回復を待って、ウルリッヒはシュトゥットガルトへと戻った。シュヴァーベンの詩人ルートヴィヒ・ウーラント(Ludwig Uhland)は、その時、宮殿で何が起こったのかを次のように説明している。

ルートヴィヒ・ウーラント (welt.de)

「それから老人はナイフを握って一言も発さず、テーブルクロスを真っ二つに切り裂いた。」

人間関係を終焉させる比喩表現としての「das Tischtuch zerschneiden:テーブルクロスを切る」ということわざは、ここにその起源がある。


エーバーハルト の計画にとって、ロイトリンゲンでの敗北は軍事的な意味だけでなく、政治的後退も意味した。 1379年まで、アウグスブルク、ニュルンベルク、フランクフルト・アム・マイン、レーゲンスブルクからシュヴァーベン都市協会へ顕著な流入があった。決定的な戦いが起こったのは1388年に入ってからだった。ウルムの野戦指揮官であるコンラッド・ベッセラー(Konrad Besserer)の指揮下にある都市同盟の軍隊が、ヴュルテンベルクの領土で略奪と放火を繰り返した。 デフィンゲン(Döffingen)の近くで、所持品をもった農民たちは墓地の壁の後ろに隠れていた。中世の慣行によると、墓地は戦闘が許可されていない聖域と見なされていたからであるが、都市同盟の連中は、そんなことは気にもかけなず、墓地で農民を虐殺したのだった。

1388年8月23日、エバーハルト伯爵は騎士、歩兵、武装した農民の軍隊を率いてレオンベルク(Leonberg)に接近した。先頭は、ロイトリンゲンでの不名誉を雪ぎたい、息子のウルリッヒが指揮官を務め、50騎にも満たない騎馬兵を率いて前進した。しかし、彼の歩兵は騎兵と足並みをそろえることが出来ず、遅れがでたので、ウルリッヒ軍は敵に打ち負かされてしまった。エバーハルト軍にパニックが発生する前に、73歳のあごひげの伯爵は堂々と叫んだ。「息子が戦死したことなどかまうな!敵はあちらのほうへ逃げていったぞ。男らしく戦え!」

この言葉が敵方の都市連盟を混乱に陥れたという伝説が真実かどうかはさておき、エバ―ハルト伯爵が巧妙な策略で南から敵を攻撃し、完全な勝利を収めたという事実は残っている。翌月、都市同盟は崩壊した。ヴュルテンベルクの統一に向けた最初の決定的な一歩が踏み出されたといえる。

デフィンゲンの戦いの直後、 エバーハルト は息子が亡くなった日に曾孫が生まれたという知らせを受けた。 エバーハルト は1392年3月15日に76歳でこの世を去った。伯爵の子孫は1806年に王国と宣言されるヴュルテンベルクを次の500年間統治したのだった。エバ―ハルトの一人息子であったウルリッヒが亡くなった場所には、その死後500年目に、デフィンゲン近くに彼を称えて記念碑が建てられた。

デフィンゲン にあるウルリッヒの記念碑

エバ―ハルトは、上記の ルートヴィヒ・ウーラント 以外にもシラーの作品に登場している。エバ―ハルトはその治世に、カルフ(Calw)やべービンゲン(Böblingen)をヴュルテンベルクの領土に組み込むなど、自身の領土を拡大した。また時の神聖ローマ皇帝カール4世とも同盟を結んだかと思えば、時には事を構えるなど、彼のライバルが「喧嘩屋」と呼んだ理由となるエピソードにも事欠かない。ヴュルテンベルクの統一・拡大という自身の計画を邪魔するものには容赦なく挑み、一人息子を失ったときでさえ、冷静を保ち、部下を鼓舞したというエピソードは、この中世騎士の生き方をよく表している。

エバ―ハルトは平和的な方法で問題を解決しようとしたという記録も残っている。エバ―ハルトの48年の治世では、平和な時期をほとんど経験しなかったが、これは戦争に対する欲求が強かったわけではなく、この時代には自己主張を行う必要があった為ともいえる。

参考:

welt.de, “Ein Rauschebart macht Württemberg groß”, 23.06.2007, Jan von Flocken, https://www.welt.de/kultur/history/article966448/Ein-Rauschebart-macht-Wuerttemberg-gross.html

deutsche-biographie.de, “Eberhard der Greiner (Zänker), der Rauschebart“, https://www.deutsche-biographie.de/sfz39160.html

コメント

タイトルとURLをコピーしました