ウォリンゲンの戦い | デュッセルドルフ市の誕生

デュッセルドルフ

【ドイツの歴史】ケルン大司教の敗北とデュッセルドルフの台頭

1288年6月5日、戦いはヴォルリンゲンの南にあるフューリンガーハイデの朝に始まる。これは、ラインの左岸にあるケルンと右岸にあるデュッセルドルフの間の最も重要な場所であった。

2つの強力な騎士の一団が向かい合って整列していた。一方はケルン大司教ジークフリート・フォン・ウェスターブルク(Siegfried von Westerburg)とライナルド・フォン・ゲルダーン伯爵が指揮しており、もう一方はブラバント公ヨハン1世、アドルフ・フォン・ベルク伯爵が率いていた。この戦いは、帝国北西部の権力構造を大きく変えたヴォリンゲンの戦いとして歴史に名を残している。

両者の紛争をエスカレートさせる理由は主にふたつあった。ひとつは、ケルン大司教と、1274年の選挙で兄を大司教として通そうとして失敗したアドルフ・フォン・ベルクの対立である。そしてもうひとつは、現在のベルギーで発生したリンブルグをめぐる継承戦争である。この時代、ある王朝で男系の子孫が断絶した場合、継承権を主張する家系が多数名乗り出て、多くの場合、戦争へと発展した。今回、それはゲルダーンとブラバントの両家であった。

ケルン大司教と対立する勢力にはケルン市民も含まれていた。彼らはブラバントとベルクの側に立って戦った。13世紀はすでに経済活動と通じて市民が力を付けていた時代である。ハンザ同盟の一員でもあったケルン市民は自主独立の気概が強く、何世紀にもわたって自治獲得のために領主と争ってきた。しかし、帝国の実力者であるケルン大司教の影響力により、ケルンが他都市(例えばフランドルやイングランドの諸都市など)との貿易において恩恵を受けていた側面もあり、その意味では大司教とケルン市民は相互依存の関係にあった。


戦いの過程についての信頼できる情報はほとんどないが、伝わるところによると、ケルン大司教側には4,200の兵、ブラバント側には4,800の兵がおり、その半分は装甲騎兵であり、残りは歩兵であった。この時代の戦闘の特徴は、互いに同じランクの敵と戦おうとすることだった。 たとえば、ケルン大司教はアドルフ・フォン・ベルク伯爵とエバハルト・フォン・デア・マルコに相対したが、ブラバント伯はルクセンブルク伯と相対した。騎士たちは命を懸けて戦うに値する立派な騎士を選んで戦った。そうすることで、将来の出世の道が開かれる可能性があったからだ。

戦闘のもうひとつの特徴は、敵を壊滅させることではなく、敵の捕獲を目的とした戦いであったということだ。これは、騎士道精神に基づいて敵に情けをかけることではなく、相手を捕獲した暁には身代金を要求することができ、敵対する一族を経済的に弱体化または破滅させることができるという現実的な利点があったためだ。

騎士は中世の軍事エリートである。彼らの戦闘スタイルは、古代末期の騎兵隊をモデルにしており、装甲槍騎兵の大きな強みは、訓練された戦闘技術、馬、そして鎧であった。騎士は平時であっても絶えず訓練を行っており、この一点だけでも、一般の歩兵は騎士と肩を並べることはできなかった。さらに、馬は騎士にスピードと高い位置からの攻撃という利点を与えた。その上、高価な鎧を纏うことで、騎士は高い攻撃力を備えた装甲兵へと変貌する。つまり攻撃の主力は馬に跨り、機動力をもった重装騎兵であったわけだが、効率的に戦場に投入された歩兵にも活躍が見られた。特に、騎士と馬が疲れ果てた時を見計らって投入された農民歩兵は活躍を見せ、敵の死体からは戦利品を奪った。中世の騎士の戦いにおいては多くの死者が出たが、ウォリンゲンの戦いでも多くの戦士がその命を失った。

数時間の間、戦闘は激しさを増し、夕暮れ前には明白な終焉を迎えた。午後5時頃、戦闘は終了。ケルン大司教とライナルド・フォン・ゲルダーンは敗北した。戦場では1,000体をはるかに超える遺体が発見され、遺体の山は集団墓地に埋葬された。その後、さらに約700人の兵士が怪我により死亡している。この敗北により、大司教は戦術的に不利な立場へと追い込まれた。

リンブルフの遺産はブラバントへと移ることになった。敗北したケルン大司教は弱体化し、捕らわれの身となった後、何ヶ月もブルク城に幽閉された。デュッセルドルフは数か月後に都市権を獲得し、最終的にはベルグ伯爵家の拠点となり、ベルグ伯爵は強大な領主となった。ケルンでもこの戦闘以降、大司教に代わり市民自身が発言権を持つようになった。

参考:

welt.de, “Die Schlacht, die Köln und Düsseldorf verfeindete”,  01.06.2013, Florian Stark, https://www.welt.de/geschichte/article116703956/Die-Schlacht-die-Koeln-und-Duesseldorf-verfeindete.html

the-duesseldorfer.de, “5. Juni 1288: Die Schlacht bei Worringen – alle gegen den Erzbischof!”, RAINER BARTEL, 05.06.2018, https://the-duesseldorfer.de/5-juni-1288-die-schlacht-bei-worringen-alle-gegen-den-erzbischof/

the-duesseldorfer.de, “5. Juni 1288: Die Schlacht bei Worringen – es war alles ganz anders…”, RAINER BARTEL, 05.06.2021, https://the-duesseldorfer.de/5-juni-1288-die-schlacht-bei-worringen-es-war-alles-ganz-anders/

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