カール大帝と無欲な司教 | 初代ケルン大司教ヒルデボルト

ケルン

ライン川のゆったりとした川面に、夕刻の光が金色の筋を引く。大聖堂の巨大なシルエットが街を圧するようにそびえるケルンだが、その華やかな中心部から一歩足を踏み出せば、そこには幾重にも重なった時間の断層が口を開けている。

入り組んだ石畳の路地の先に、ひっそりと、しかし確固たる威容を湛えて佇むロマネスク様式の古教会群。なかでも、ローマ時代の円形遺構を抱く聖ジェレオン教会の静謐な堂内には、豪華絢爛なゴシック建築とは異なる、帝国黎明期の荒々しくも敬虔な空気が今なお漂っている。

この重厚な石の壁の向こう側には、千二百年以上も昔、一晩中馬を走らせてこの街に駆けつけたカール大帝と、ある無欲な司祭が交わした運命的な約束の物語が秘められているのである。

物語は、ケルンのリコルフス司教が没し、後継を巡る醜い権力争いに街が揺れていた時代に遡る。狩猟の最中にこの急報を受けたカール大帝は、即座に馬を駆り、一晩中野を越えてケルンへと向かった。

街の入り口に差し掛かった頃、明け方の静寂を切り裂くミサの鐘の音が聞こえてくる。カールは入城を前に、その小さな教会で祈りを捧げることにした。馬を繋ぎ、堂内へと足を踏み入れた皇帝の目に飛び込んできたのは、汚れなき信仰を体現する一人の司祭の姿であった。

ミサを終えたカールは、猟師の旅装そのままに、司祭へ銀貨を差し出した。しかし、目の前の男が「西方の皇帝」であるとは夢にも思わぬ司祭は、穏やかにこう言った。 「兄弟よ、この銀貨はお返ししましょう。このような高価な布施を受けるわけにはいかない」

カールは重ねて受け取りを請うたが、司祭は首を振る。

「あなたが猟師であることは見ればわかります。私のミサ典書は古び、表紙の皮が剥がれてしまいました。もし私に贈り物をとお考えなら、次に狩った鹿の皮を一枚恵んでくださいませんか。それでこの典書を装丁し直せば、私は十分なのです。銀貨はどうぞ、あなたがお持ち帰りください」

このあまりに敬虔で私欲のない言葉に、皇帝は静かに胸を打たれた。周囲の人々も異口同音に、この司祭の正直さと高潔さを称えたのである。

その後、ケルンの司教選出会議に現れたカールは、紛糾を続ける聖職者たちを前に一喝した。

「汝らが決められぬというのなら、私が選ぼう」

皇帝が呼び寄せたのは、銀貨を拒み、鹿の皮を求めたあの一介の司祭であった。彼こそが、後にケルンの初代大司教として歴史に名を刻むヒルデボルトである。

この伝説の背景にあるヒルデボルトの存在は、紛れもない歴史的事実である。787年、カールの要請により司教に就任した彼は、宮廷内で最も重要な皇帝顧問の一人となった。

教皇ハドリアヌス1世が、宮廷務めに専念できるよう彼のケルン居住義務を特別に免除したことからも、その重用ぶりが窺い知れる。

794年には、カールの強い働きかけによりケルンは「大司教区」へと昇格を果たす。ブレーメン、ユトレヒト、リエージュ、ミュンスターといった北方の重要拠点を従える帝国屈指の権威を、ヒルデボルトはその双肩に担うこととなった。

彼が拡張を命じた聖堂は、現在のゴシック建築の先駆となる《ヒルデボルト大聖堂》として、中世ケルンの象徴となったのである。

皇帝の最期に際しても、ヒルデボルトは811年の遺言状に最初の証人として署名し、その揺るぎない信頼を証明した。

カール大帝没後もその地位は揺るがず、新王ルートヴィヒ1世の戴冠式を執り行うなど、帝国の重鎮として生涯を捧げた。818年9月3日、ケルンの繁栄の基礎を築いた偉大な知者は、自身が愛した聖ジェレオン教会の地で眠りについた。

現在の聖ジェレオン教会を訪れると、その重厚なドームが放つ神秘的な静寂に包まれる。教会の傍らに広がる石畳の広場は、今も《ヒルデボルト広場》の名を冠し、かつてこの地で鹿の皮を求めた謙虚な司祭の面影を伝えている。

夕暮れ時、広場に長く伸びる教会の影を見上げれば、一晩中馬を走らせてきたカール大帝の荒い息遣いと、無欲な司祭との間に交わされた静かな約束が、千年の時を超えて今も街の鼓動の中に生きていることを感じずにはいられない。

参考:

thema.erzbistum-koeln.de, “Hildebold -Oberhirte mit Macht in Kirche und Welt”, https://thema.erzbistum-koeln.de/grosse-geschichte/bischoefe/hildebold/

sagen.at, “Bischof Hildebold von Köln”, https://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/nordrhein_westfalen/Bischof_Hildebold.html

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