王を破滅させた踊り子

ミュンヘン

ミュンヘンの西、ノイハウゼン-ニンフェンブルク地区には、何世紀にもわたってヴィッテルスバッハ家の夏の離宮であったニンフェンブルク城(Schloss Nymphenburg)がある。 このバロックの宮殿は、180ヘクタールにも及ぶ公園も備えている。 全長はベルサイユ宮殿よりも632メートル長く、ミュンヘンっ子の自尊心をくすぐっている。

このニンフェンブルク城の一番のアトラクションは、南パビリオンにあるルートヴィヒ1世の絵画ギャラリーだ。『美人画ギャラリー(Schönheitengalerie)』と呼ばれる、女性の肖像画のみが飾られたギャラリーには、高貴な身分の女性や中産階級の女性など、階級を問わず描かれた38点の作品がある。これら作品のほとんどは、1820年に宮廷画家に就任したヨーゼフ・カール・シュティーラー(Joseph Karl Stieler)によって描かれたものだ。 シュティーラーは1827年から1850年にかけて、ルートヴィヒ1世のためにこの美人画ギャラリーを制作したのだ。

ここに飾られている美人画は、宮殿のスーベニア・ショップで絵葉書として売られている。お土産にお気に入りの女性の絵葉書を買っていく人も多い。38点ある美人画のなかで、黒いドレスを纏った、吸い込まれるような眼をした黒髪の女性こそ、バイエルン国王ルートヴィッヒ1世が愛した、「スペイン人」の踊り子、ローラ・モンテス(Lola Montez)だ。

今から150年以上前、ミュンヘンでは一大センセーションが巻き起こった。ミュンヘンの宮廷と国立劇場に集まった聴衆は、これまでこのようなパフォーマンスを見たことがなかった。 1846年10月、あるスペイン人の女性ダンサーがここでショーを行った。そのショーにとりわけ男性の聴衆は息を呑んだのだ。12枚もの鮮やかなスカートを身に着けたローラ・モンテスは、「スパイダーダンス(Spinnentanz)」と呼ばれる踊りを披露したのだった。

モンテスはファンダンゴの音に合わせてスカートを次々と持ち上げ、表層を次々とはぎ取られて最後は息絶えるクモを表現したのだった。パフォーマンスが終わると、モンテスは肌色のレオタードだけを着た状態でステージに腰を下ろしたのだった。モンテスのパフォーマンスは、さしずめビーダーマイヤー時代のエロティシズムの集大成のようであったという。

批評家に「美女がまるでカンガルーが飛び回っているような」と酷評されても、ショーを見た後の男性たちは、モンテスの足元にひれ伏さんばかりに感動したのだった。齢60歳を迎えたバイエルンの君主も、他の男性聴衆の例に漏れず、ローラ・モンテスに激しく恋をしたのだった。そして、二人の愛の巣として、ミュンヘンに壮大な宮殿を購入したのだった。

バイエルン国王ルートヴィヒ王も、 ローラ・モンテス の過去を知っていたら、もう少し注意を払っていただろう。 1821年、エリザベス・ロザンナ・ギルバート(Elizabeth Rosanna Gilbert)としてアイルランドに生まれたモンテスは、ヨーロッパ各地を彷徨い、まるで切手でも集めるかのように男たちを自分のものにしてきた。作曲家のフランツ・リスト、小説家のアレクサンドル・デュマ、さらにはチューリンゲン候ハインリッヒ・フォン・ロイス-エーベルスドルフ(Heinrich von Reuß-Ebersdorf)も、モンテスと親しい間柄だったという。

マドリッドとセビリアでダンスを学んだ後、1843年になって、彼女はアイデンティティを変え、マリア・デ・ロス・ドロレス・ポリス・イ・モンテス、略称ローラ・モンテスと名乗り始めたのだった。モンテスは、追放されたスペインの貴族の娘であり、反逆者として処刑された夫を持つ未亡人というアイデンティティーを偽造したのだった。

現在では、『オペラ座の怪人』が上演されることで有名な、ロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスター、ヘイマーケットにあるハー・マジェスティーズ劇場(Her Majesty’s Theatre)で、1843年6月、スペインのダンサーとしてデビューした。モンテスは当時のバレエの規範に沿って控えめに踊っていたが、彼女の美貌、醸し出すエロティックな雰囲気、生まれ持ったカリスマ性が、観衆を魅了し、センセーションを巻き起こしたのだった。

黒い巻き髪、野性味のある力強い目、ザクロのつぼみのような口。そんな外観からは、モンテスはスペイン人に見られたという。

ローラ・モンテスをテーマにした映画「LolaMontez」(1955年)では、マックス・オフュルス(Max Ophüls)が現在のセックスの女神マルティーヌ・キャロル(Martine Carol)と一緒にタイトルロールを演じている。

ロンドンでのダンスデビューは成功に終わった。しかし、モンテスを巡る争いで、恋人の1人が決闘で殺害されるに至ったことでモンテスはロンドンを飛び出し、ヨーロッパ中でショーの成功を祝いながら、次々とスキャンダルを引き起こしたのだった。ポツダムでは、モンテスを中に入れようとしなかった新宮殿の憲兵を、乗馬用の馬で攻撃した。 1845年の夏、バーデンバーデンでは、自分の体の柔軟性を見せるために、紳士の肩に足を置いたことが問題となり、モンテスは警察によってこの保養地から追放されている。

運命を狂わせるような魔性の女をファム・ファタールと呼ぶが、モンテスはまさしくファム・ファタールだった。1846年10月5日、モンテスはミュンヘンに到着し、わずか3日後にルートヴィヒ1世を観客として迎えている。 ルートヴィッヒ1世は、魅力的な女性に目がなく、自身の城にお気に入りの女性の肖像画を集めた「美人画ギャラリー」まで作っていた。ルートヴィヒ1世は、完全にモンテスの虜となり、彼女に繰り返しプレゼントを贈った。

1846年の終わり、モンテスに夢中となったルートヴィッヒ1世は、バーレル通りにモンテスの為の宮殿を購入、2万ギルダーの改修費用も負担したという。これは、現在の価格に換算すると約30万ユーロにもおよぶ。 その見返りとして、モンテスは、彫刻家ヨハン・レープ(Johannes Leeb)がアラバスターで作った、彼女の右足のレプリカをルートヴィッヒ1世に与えたのだった。モンテスへの感情を抑えられないルートヴィヒ1世は、感極まって足の彫刻に口づけしたという。

バイエルン国王まで虜にしたモンテスの成功はまだ終わらない。モンテスは政治的な役割を演じ始めるのだった。1847年2月、バイエルン州首相カール・フォン・アベル(Karl von Abel)がモンテスへの市民権の付与を拒否すると、モンテスにそそのかされたルートヴィッヒ1世はアベル首相を解任したのだった。それだけにとどまらず、ルートヴィヒ1世は自身の61歳の誕生日に、モンテスをマリー・フォン・ランズフェルド伯爵夫人(Marie Gräfin von Landsfeld)として貴族に叙したのだ。  

伯爵夫人となったモンテスは、新しく組閣されたバイエルン政府に対し、ローマ・カトリック教会、そして教皇の権威を否定する政策を採るよう促した。バイエルン新政府がその政策を拒否すると、1847年11月、バイエルン州首相は再び解任され、モンテスの親友であった ルートヴィヒ・フォン・エッティンゲン=ヴァレルシュタイン 公爵(Ludwig von Öttingen-Wallerstein)が新首相に任命された。

ミュンヘン大学の学生と卒業生で組織されたパラティア(Corps Palatia München)という団体のメンバーに護衛されたモンテスは、葉巻を燻らせながらミュンヘン市内を闊歩し、行く先々で市民とケンカを始めた。モンテスの意に沿わないことを誰かが口にすると、彼女は容赦なく平手打ちを加え、時には乗馬用の鞭で打擲した。

1848年2月、モンテスが初めて大学を訪れたとき、パラティアに属していない学生との間で口論が発生。大規模な騒動に発展したが、モンテスは馬車に乗り込むとその場を走り去り、難を逃れた。しかし、その間に約3,000人の見物人がオデオン広場に集まり、モンテスを娼婦と罵りながら、周囲に威嚇的な態度をとったのだった。

その場を逃れたモンテスは劇場教会に逃げ込んだのだが、群​​衆は「雌犬を殴り殺せ!」と叫びながら、モンテスを追って教会に迫っていた。 警護についていた警官はわずかに10人ほどであったが、モンテスを教会から無事に脱出させ、安全な場所まで誘導することに成功した。

この出来事を聞き及んで激怒したルートヴィヒ1世は、1848/49年の冬学期まで大学を閉鎖するよう命じ、すべての学生に対し、3日以内にミュンヘンを離れるように命じた。 しかし、この命令によって荒れ狂う川を堰き止めていた堤防が決壊してしまう。あらゆる階級の市民が、ルートヴィッヒの決定に激しく抗議した。 怒れる群衆は、王宮を襲撃すると脅した。 ルートヴィヒ1世は自身の命令を取り消し、最愛のモンテスを国外追放にすることを余儀なくされた。 1848年2月24日、モンテスは汽船「ルートヴィヒ」に乗り込み、ボーデン湖を渡り、その後、馬車でチューリッヒまで向かった。

事ここに至り、ルートヴィッヒ1世はもはや王位に留まることはできなかった。 1848年3月6日、デモ隊はミュンヘンの兵器庫を襲撃し、そこで強奪した武器を手にして、宮廷へと向かった。彼らの要求は、民主的な憲法と、モンテスが再びバイエルンに入った際の即時逮捕だった。3月19日、ルートヴィヒ1世は息子のマクシミリアンを後継者に指名し、王位を退いた。

バイエルンを追放されて以降も、モンテスは波乱万丈の人生を送った。1851年にアメリカに行き、ニューヨークのブロードウェイで、「スパイダーダンス」を含む彼女自身の人生を公演として発表し、大成功を収めたのだった。モンテス一向はツアーでオーストラリアへも行った。恋多きモンテスであったが、恋人のうちの2人は自殺し、1人は狩猟事故で亡くなったという。アレクサンドル・デュマは1845年に早くもこう予言していた。『もう一度彼女の知らせを聞くとしたら、それは彼女の愛人の一人に降りかかった恐ろしい災難に関連してのことだろう。」

1861年1月17日、財産もなく、人々からも忘れられたモンテスはニューヨークで亡くなった。 モンテスの元愛人、ルートヴィッヒ1世はというと、モンテスよりも7年長く生きた。 「私は美しいスペイン人の女性をいつも愛していた。」と彼はフランス后妃ウジェニーへ(Eugenie)との夕食会で発言した。 「私は自分の話していることをよくわかっているつもりだ。なにせ、私はそのために王位を犠牲にしたのだから。」

welt.de, “Laszive Stripperin kostete Bayerns König den Thron”, Jan von Flocken, 19.05.2016, https://www.welt.de/geschichte/article155476315/Laszive-Stripperin-kostete-Bayerns-Koenig-den-Thron.html

deutschlandfunk.de, “Das wilde Leben der Lola Montez”, Ulrike Rückert, 17.02.2021, https://www.deutschlandfunk.de/vor-200-jahren-geboren-das-wilde-leben-der-lola-montez.871.de.html?dram:article_id=492635

spiegel.de, “Das tollkühnste Weib, das je den irdischen Boden betreten”, Katja Iken, 17.02.2021,https://www.spiegel.de/geschichte/lola-montez-das-tollkuehnste-weib-das-je-den-irdischen-boden-betreten-a-14969b74-503d-4d0a-8446-e6d083ef2bd8

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