オクトーバーフェストの起源|ミュンヘンのビール祭り

ミュンヘン

【ドイツの歴史】ミュンヘンのテレジエンヴィーゼで行われるビール祭


ナポレオン時代、バイエルンは同盟政策のおかげで王国になり、1806年までにその規模を2倍にした。今では、最も多様な歴史的、文化的、宗教的、経済的特徴の新旧の地域を統一された国家構造に統合することが問題だった。修道院と騎士団は解散させられた。精神的な財産が世俗化され、国有財産に移ったとき、住民の多くにはこの急速な変化を乗り越えることは困難であった。

バイエルン軍は、1806年、フランス皇帝がプロイセンとロシアと戦った戦争に参加し、シレジアとポーランドでは戦いが激化した。 1809年のオーストリアとの戦争中、チロル人がアンドレアス・ホーファー(Andreas Hofer)のもとで立ち上がり、占領者を2回国外へと追い返した後、11月にイーゼル山(Isel)で敗北したため、バイエルンは大きな損失を被った。

1810年、マクシミリアン1世ヨーゼフ(Max I. Joseph)の領民の多くは不安を感じていた。多くの市民は愛国心の感覚を欠いていた。宮廷では、君主制を強化する必要性は認識されていたが、どのようにして領民に愛国心を与えればいいのかわからなかった。そしてコミュニティ精神を強化するため、大きなお祭りが開催されることになった。

ルートヴィヒ皇太子とテレーズ・フォン・ザクセン・ヒルトブルクハウゼン(Therese von Sachsen-Hildburghausen)の結婚式があった週は、「マキシミリアンウィーク」(1810年10月12〜17日)と銘打たれ、数日間の祝祭が催されることとなった。結婚の日は、王のネームズデーでもあった。ミュンヘンは、領主が存在感を示しつつも、楽しいお祭りを計画して実行に移した。王は人々の間を行き、陽気で慈悲深い国父としてのイメージを与えた。

結婚式は10月12日に行われ、翌日、ミュンヘン市内の様々な場所で食事が振舞われた。 アルゲマイネ新聞(Allgemeiner Zeitung)によると、32,000リットルのビール、8,000リットルのワイン、32,000個のパン、16,000食のロースト、4,000食のチーズ、8,000本のセルヴェラソーセージ(Zervelatwurst)、16,000食のスモークソーセージが人々に配布された。

ミュンヘン市民が王子夫婦にふさわしいプレゼントを探していたとき、州兵で騎兵隊の軍曹を務めていたフランツ・バウムガルトナー(Franz Baumgartner)は、いいアイデアを思いつき、上司からも賛同をうけ、彼のアイデアは承認された。それは、上流階級のためではなく、一般市民のための競馬を開催することだった。ミュンヘンとゼンドリングという村の間にあるオープンエリアは、競馬のレーストラックとして適していた。

この場所は、スペイン継承戦争中に、《ゼンドリング殺人クリスマス》(Sendlinger Mordweihnacht)と呼ばれる事件が起こった場所であった。ミュンヘンを解放したいと思っていたオーバーラント出身の何百人もの農民や職人が、オーストリアの占領軍に残酷に虐殺されたのだった。この虐殺は長い間、ほぼ神話のように語り草になっていたので、この地域はバイエルンの支配者への忠誠を表す象徴として理想的な場所であった。

バイエルン王室は、1680年代のトルコとの戦争時の戦利品である豪華なテントを建て、そのテントの中で、レースを楽しんだ。この競馬レースには、40,000人以上の訪問者が訪れ、バイエルンの愛国心の強化にも一定の効果があったようだった。この場所は、花嫁にちなんで後に「テレジエンヴィーゼ」(Theresienwiese)と名付けられた。

1810年代には、飲み物を提供する常設の飲み屋がなく、ゼンドリング近郊で営業していた居酒屋はほんのわずかだったが、イベントは大成功し、数々の催し物とビールを楽しむオクトーバーフェストとして恒久的なイベントとなった。翌年、バイエルン農業協会は、競馬や地域の展示会を開催する収穫感謝祭としてオクトーバーフェストを開催した。

1818年、ミュンヘンは自治権を取得し、それ以降、ミュンヘン市がオクトーバーフェストの開催を担当した。市はテレジエンヴィーゼの土地を取得し、醸造業者、メリーゴーランド、バーの運営者にスタンドを貸し出した。人々は野外で飲み、悪天候の時には訪問者は木製のブース内で飲食を楽しんだ。 多くの人が食べ物を持ち寄り、スタンドで焼かれた大量のソーセージが彩を添えた。

ルートヴィヒ1世(Ludwig I.)は、1826年のオクトーバーフェストで新しい王としてその就任を祝われた。 銀婚式の記念日に、王は山車の伝統を確立しました。山車を使った精巧な行列が町を練り歩くこととなった。

1842年10月12日、マリー・フォン・プロイセン王女(Marie von Preußen)と結婚したばかりの王位継承者、マクシミリアン(Maximilian)は、両親の結婚記念日にテレジエンヴィーゼへと移った。マキシミリアンII(Max II.)は、バイエルンの共同体意識を深めるために、伝統的な衣装、習慣、民俗音楽を促進した。ギャザースカート(Dirndl:ドリンドル)と革のズボン(Lederhose:レーダーホーゼン)の着用は、バイエルンの民族衣装が見直される機会となった。今日、こういった民族衣装はオクトーバーフェストの不可欠な要素となっている。

「メルヒェンの王」と呼ばれたルートヴィヒ2世(Ludwig II.)は、オクトーバーフェストとは距離をとっていたが、オクトーバーフェストの開催時期を10月から9月に早めることについては容認したのだった。ドイツの10月の悪天候は、お祭りの雰囲気まで曇らせるため、それに対する措置であった。こうして、1872年以降、オクトーバーフェストはその名前に反して、9月に開催されるようになったのだ。

参考:

br.de, “Brotzeit, Bier, Belustigung”, Volker Eklkofer, 14.04.2016, https://www.br.de/radio/bayern2/sendungen/radiowissen/geschichte/muenchener-oktoberfest-100.html

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