【ドイツの歴史】聖夜の大殺戮 | 《ゼンドリングの殺戮の聖夜》

ミュンヘン

ミュンヘン、ゼンドリングにある鍛冶屋像

ミュンヘンの中心地、マリエン広場。ここから南西に3キロほどのところにある男の銅像が建てられている。この銅像は18世紀にミュンヘンで起こったある大虐殺事件で英雄的な行動をとったとされ、記念碑を建立された人物だ。この銅像は《コッヘルの鍛冶屋の記念碑》(Schmied-von-Kochel-Denkmal)と呼ばれる。

コッヘルの鍛冶屋の記念碑 (Source:wikipedia.de)

18世紀、フランスのルイ14世と同盟を結ぶことは、バイエルン選帝侯マックス・エマヌエル( Max Emanuel )ことマキシミリアン2世の最悪の考えだった。 スペインの王位継承者の座を巡り、1701年、スペイン継承戦争が勃発すると、マックス・エマヌエルはフランス王ルイ14世の孫で自身の甥であるフェリペ5世の王位継承を支持し、フランスと同盟を結んだ。1703年にヴィラール率いるライン川のフランス軍とも合流してドナウ川流域を制圧、ウィーンを脅かした。しかし、その後、フランスと衝突したこともあり、バイエルン軍はオーストリア・イギリス連合軍に敗れたのだった。1704年、マックス・エマヌエルの軍隊は帝国軍に対して2回の露骨な敗北を喫し、選帝侯はオランダへ逃亡を余儀なくされた。バイエルンはオーストリア軍に占領された。

バイエルン選帝侯マックス・エマヌエル(Source:wikipedia.de)

一年後、バイエルンの人々の忍耐にもついに限界が来た。 1704年11月、彼らの土地はオーストリアの管理下に置かれ、それ以来、市民は自分たちの土地が住めないようにされるのではないかと考えた。税金は以前の4倍、場所によっては7倍へと跳ね上がった。市民は正当な理由もなく投獄されることがあった。オーストリア軍の徴兵隊は地域を歩き回り、若い男性を見つけては強引に徴兵を行っていた。

1705年の秋、最初の抵抗が発生した。 シェーナウ(Schönau)とゲルン(Gern)の村では、オーストリア軍の徴兵隊が農村の子供たちを徴収しようとしたが、村人たちの激しい抵抗に合い、その場から逃亡した。オーバーバイエルンとニーダーバイエルンでは大騒動に発展していた。 11月末、武装勢力がブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)の町を占領したことで、農民たちは「皇帝のように滅びるくらいならバイエルン人として死のう」というスローガンの下で立ち上がった。彼らの目的は、ミュンヘンの制圧とマクシミリアン2世の復帰であった。


同盟軍は首都ミュンヘンにいた。宿屋の主人であるヨハン・イェーガー(Johann Jäger)とゲオルク・キュトラー(Georg Küttler)は、フランシスコ会修道院とホフブロイハウスに市民を集め、農民に門を開き、守備隊を追い出したいと考えていた。 1705年12月21日、オーバーバイエルンから約3,000人の農民がミュンヘン南部のシェーフトラルン修道院(Kloster Schäftlarn)に到着した。彼らは装備が不十分であった。

シェーフトラルン修道院 (Source:wikipedia.de)

しかし、悪いニュースは日に日に増えていった。帝国軍は、ニーダーバイエルンからの反乱軍のあらゆる進路を封鎖した。ヨハン・イェーガーは裏切られ、ミュンヘンから逃亡を余儀なくされた。兵士が通りをパトロールした。それにもかかわらず、オーバーバイエルンの市民は12月24日に行進を開始した。彼らは午後11時頃にゼンドリンガ―門に到着した。そこではほとんどの市民が凍てついた夜を屋外で過ごす必要があった。


12月25日の朝、約700人の軽兵または非武装の兵士がゼンドリングに残り、残りは2列でローター塔(Roter Turm)とアンガー門(Angertor)に向かって行進した。ローター塔は兵士ヨハン・ゲオルグ・アベール(Johann Georg Aberle)の指導の下で襲撃され、オーストリア軍はその後背にある要塞化されたイザール門に撤退した。(この時、指揮をとったアベールに因んで、ミュンヘンーゼンドリング地域には、彼の名を冠した通りがある。)しかし今度は、日の出とともに帝国軍が東から近づき、農民を襲撃した。

ヨハン・ゲオルグ・アベールの名を冠した通り(Source:wikipedia.de)

何とかゼンドリングへと向かい、ここの古い教区教会に籠った市民もいた。その後の戦いでは、コッヘル村(Kochel)の鍛冶屋であるバルタザール(Balthasar)またはハンス・マイヤー(Hans Mayer)という名の大柄な男の活躍が際立っていた。彼は、50キロもの重さのある釘打ちのこん棒を作り上げ、数十人の敵を倒したとされる。 1883年に詩人ハンス・ホプフェン(Hans Hopfen)は詩を詠った:

そして、早風が鐘を鳴らしたとき、

そこにはたった一人の農民しかいなかった。

それはこの国で最も強い男だった

コッヘルの鍛冶屋、マイヤー・ハンス。

鋳鉄で出来たこん棒で

彼は馬と足を使ってやつらを打ち負かした。

Und als an die Glocken der Frühwind fuhr,

Da stand von den Bauern ein einziger nur,

Das war der stärkste Mann des Lands

Der Schmied von Kochel, der Maier Hans;

Mit einer Keule von Eisenguß

Drosch er sie nieder zu Pferd und Fuß.

しかし残念ながら、コッヘルの鍛冶屋は実在の人物ではない。それは農民たちが自らの敗北へのわずかな慰めとして創作したお話であった。実際、ゼンドリングで行われたものは戦闘と呼べるものではなく、一方的な殺戮であった。帝国の将校が降伏するものには攻撃を加えないと約束した後、農民たちは武装を解除し降伏したのだ。その後、無防備な農民は帝国兵によって容赦なく虐殺され、ゼンドリングの町は略奪されたのだった。

約500人の負傷者がミュンヘンに運ばれ、見せしめとして路上に投げ出された。蜂起の指導者たちは、1706年1月にシュラネン広場(Schrannenplatz)で処刑された。今日のマリエン広場(Marienplatz)である。 この殺戮劇は、《ゼンドリングの殺戮の聖夜》(Sendlinger Mordweihnacht)と呼ばれ、合計で1,000人以上の農民が命を落とした。

記念式典の様子(Source:welt.de)

コッヘルの鍛冶屋は今でもバイエルンのカリスマと見なされている。先にも述べたとおり、この鍛冶屋は実在していない。しかし、鍛冶屋が戦争の英雄に祭り上げられるケースは、ドイツの他の地域でもたびたび見受けられ、鍛冶屋という手工業者が市民の代表として名誉な役割を与えられる一例である。ミュンヘンでは毎年12月に彼を称えて記念行事が開催される。

参考:

welt.de, “Die Sendlinger Mordweihnacht”, 25.06.2007, Jan von Flocken, https://www.welt.de/kultur/history/article973458/Die-Sendlinger-Mordweihnacht.html

deutschlandfunk.de, “Die Sendlinger Mordweihnacht”, 25.12.2005, Wolf-Sören Treusch, https://www.deutschlandfunk.de/die-sendlinger-mordweihnacht-100.html

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