バルト海の海賊 | フィタリエンブリューダー

ハンブルク

国際海洋博物館(Internationales Maritimes Museum)の近くに、とある男の像が建てられている。 この像のモデルは、クラウス・シュテルテベカー(Klaus Störtebeker)。15世紀、ハンザ同盟を敵に回し、北海、バルト海を荒らしまわった海賊だ。 シュテルテベーカー(Störtebeker)は低地ドイツ語で「ビーカー一杯を飲み干す者」を意味する。この名は、彼がビーカー(壺)を口から離さず4リットルものビールを飲みほしたという逸話に由来しているあだ名だとされている。ただ、この名は単にヴィスマール出身の生まれ持った姓である可能性もある。

1402年、ハンブルク。この年、ハンザ同盟の敵、 クラウス・シュテルテベーカー はこの地で処刑されたのだった。彼が属した《フィタリエンブリューダー》(Vitalienbrüder)は、14世紀の北海・バルト海で活躍した海賊集団であり、密輸業者であり、ギルドのような商人の一団であった。また時には傭兵としても活動した、武力に長けた集団であった。

1440年4月22日、ハンザ同盟の11隻の「Friedenskoggen」(Fredekoggen)が、950人の武装した男たちを乗せてエムスラントに向けて出航した。彼らの目標は、フィタリエンブリューダーの破壊であった。彼らは海戦で80人を殺害し、残りの25人を陸上で捕らえ、1400年5月11日にエムデン(Emden)で処刑された。

14世紀の海賊の中では、VitalienbrüderまたはLikedeeler(低地ドイツ語:等しい部分)と海賊自らが呼んだ一団が最も有名だ。ハンザ同盟が1400/1401年の2つの主要な作戦でその指導者クラウス・シュテルテベカーとゴデケ・ミシェル(Gödeke Michels)を破り、処刑する前、この一団は10年にわたって悪行を働いていた。


フィタリエンブリューダーは、ヴァルデマー4世(Waldemars IV)の相続をめぐるメックレンブルクとデンマークの王位争いから発生した。現在のスウェーデン南部の土地の返還と引き換えに、男系子孫に恵まれなかったデンマーク王は、メックレンブルクのアルバート4世(Albrecht IV.)に王冠を約束していた。

デンマークの貴族アルブレヒト4世(Albrecht IV.)が忠誠を拒否したため、ノルウェー王ホーコン6世(Håkon VI.)の妻であるヴァルデマール(Waldemar)の娘マルガレーテ(Margarethe)は、1376年に息子のマグナソン(Magnusson)をデンマーク王オラフ2世として戴冠させた。戴冠した息子はわずか5歳だったので、マルガレーテは自分で摂政を引き継いだ。

1380年に夫が亡くなった後、マルガレーテは息子にノルウェー王位を就かせた。彼女の政策の目的は、デンマークの主導の下でスカンジナビア王国を統一することであり、1397年に彼女はその目的をカルマル同盟(Kalmar Union)と最終的に達成するのだった。

しかし、そこに至るまでに、まず彼女は人気のないメックレンブルクのアルブレヒト3世(Albrecht III. von Mecklenburg)をスウェーデン王位から追い落とさねばならなかった。1388年、スウェーデン帝国評議会は彼女を対抗王妃として選出した。アルブレヒト3世は、自発的に王位を手放さなかった為、王位継承戦争が始まった。デンマークとの戦いで息子を支援する為、メックレンブルクのアルブレヒト2世公爵は、デンマークの商船に対して海戦を開始したのだった。

貧しい貴族や亡命者から、彼は強力な海賊の一団を募集したのだった。この一団には、捕獲したデンマーク船の積み荷をハンザ同盟の都市であるロストックとウィスマールの市場で自由に販売することが許可された。ファールヒェーピングの戦い(Schlacht von Falköping)でアルブレヒト3世はついに敗北。1389年に捕虜となったのだった。


最後の砦として、ストックホルムは数年間デンマーク軍に抵抗をつづけた。街には「フィタリエン・ブリューダー」によって、海から食料が供給された。その名前はフランス語の「vitailleurs」に由来し、戦場の兵士のために食料を調達した一団を指した。メックレンブルクの船長アルブレヒト・フォン・ペカテル(Albrecht von Pecatel)指揮の下、ヴィタリエンブリューダーは1394年にゴットランド(Gotland)の一部を征服し、島の首都ヴィスビー(Visby)を基地として拡大した。


スカノールとファルスターボの間の和平締結(Frieden von Skanör und Falsterbo)で、メックレンブルクとデンマーク、そしてハンザ同盟とドイツ騎士団は、自分たちの経済的利益を守るために紛争に介入し、1395年に紛争を解決へと導いた。 フィタリエンブリューダーの「合法的」な商船強奪の権利は失われてしまい、彼らは収入を絶たれたのだった。

1398年、ドイツ騎士団の艦隊がヴィスビーを包囲し、海賊をそこから追い出した。それ以来、海賊は自分たちで船への攻撃を開始した。狙いは、特にバルト海を航海するハンザ同盟のコッゲ船だった。海賊行為がその後の数年間でほとんどすべての海上貿易を麻痺させたので、ハンザ都市であるリューベックとドイツ騎士団は彼らの戦争艦隊でフィタリエンブリューダーのせん滅を開始した。 1398年、騎士団の軍隊は80隻以上もの艦隊でゴットランド島に上陸し、海賊を追い払ったのだった。

コッゲ船(Source:planet-wissen.de)

その後、フィタリエンブリューダーは襲撃の場を北海へと移し、イギリスとの海上貿易に目を向けた。豊かな戦利品を期待し、海賊はエルベ川とヴェーザー川の河口の前で、 ハンブルクとブレーメンからの船を狙っていた。

フィタリエンブリューダーの指導者クラウス・シュテルテベカーが武器の援助を行う見返りに、東フリジアの首長は、彼らに、諸侯の権力が及ばない地域に避難所を提供した。さらに、フィタリエンブリューダーは盗品の新しい販売市場として東フリースラントを開拓した。

ハンザ同盟は軍隊と船をまとめ、1400年、軍事作戦を敢行。フィタリエンブリューダーを匿っていた首長たちは、今後、海賊を保護しない旨を誓う必要があった。さらなる征伐活動を行う為、ハンザ同盟軍はエムデン城(Emden)を含むいくつかの城を占領した。しかし、この軍事行動でも、東フリジアの首長たちは、フィタリエンブリューダーによる軍事・傭兵勢力の提供を諦めたわけではなかった。その為、ハンザ同盟は海賊問題を完全に解決することはできなかったが、戦闘で多くのフィタリエンブリューダーが殺害または処刑された。

海賊のなかには再び活動領域を変更したものもいた。オランダの公爵アルブレヒトは海賊の何人かを連れて行き、彼らに商船拿捕の許可を出したのだった。それ以来、ヘルゴラント沖で部下と共に海賊活動を行うのだった。

伝説によると、北海島沖の激しい海戦の後、スパイが液体鉛でシュトルテベカー船の操舵システムを破壊した。1401年4月22日、ハンブルク軍艦の乗組員はついに海賊船を捕らえたのだった。

ハンザ同盟の艦隊指揮官であるサイモン・フォン・ユトレヒト(Simon von Utrecht)は、海賊との戦いにおける彼の功績により、1433年にハンブルクの名誉市長に任命された。 1402年、ゴデケ・ミッシェルも逮捕され、処刑されたのだった。

クラウス・シュテルテベカー

参考:

ndr.de, “Schlag gegen die Nordsee-Piraten”, 10.05.2010, https://www.ndr.de/geschichte/chronologie/Die-Vitalienbrueder-Piraten-der-Nord-und-Ostsee,likedeeler100.html

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