アウクスブルクが生んだ天才画家 | ハンス・ホルバイン

アウグスブルク

【ドイツの偉人】ヘンリー8世に仕えた希代の画家

アウグスブルク市庁舎の脇にある階段を下っていくと、旧市街へと続く道にでる。フォルダラーレヒ(Vorderer Lech)という小道が続くこの辺りは、アウグスブルクでもっとも美しい地区のひとつだ。この小道を南へ進むと、右手にアウグスブルク芸術協会(Kunstverein Augsburg)の建物が見えてくる。この建物は、現在はアウグスブルク芸術協会に使用されているが、もともとはアウグスブルクを代表する天才画家、 ハンス・ホルバイン(Hans Holbein) の生家があったところだ。残念がら生家は1944年の空襲により破壊され、戦後現在の形に再建された。

再建されたホルバインの生家(Source:wikipedia.de)

16世紀を代表する天才画家、 ハンス・ホルバイン。彼が生まれ故郷のアウグスブルクを離れなければ、我々、後世の人間は彼の名前を知らなかった可能性が高い。ハンス・ホルバインは才能に溢れ、情熱に満ちた画家であり、16世紀の初めに既にヨーロッパ全土を視野に入れた思考をもっていた。彼は南ドイツの町を離れ、イングランドへと渡り、異国の地で宮廷画家としての地位を得たのだ。

ホルバインが最初に向かったのはバーゼルだった。この地で彼は短期間で頭角を現し、当代一流の画家へと成長している。 すでにバーゼルにいた兄のアンブロシウス(Ambrosius)と共に、ホルバインは新しい故郷で読み書きとラテン語のレッスンを受けている。そして彼らの父親であるハンス・ホルバイン(息子と同名)が、アウグスブルクの自宅で息子たちに徹底した絵画の訓練を施し、早い段階から自身の工房に参加させていたことが、後の息子たちの人生に大いに役立つことになる。

この頃、オランダの言語学者で哲学者であるロッテルダムのエラスムス(Erasmus)が、同じくバーゼルで暮らしていた。ホルバインが何度か彼の肖像画を描いた関係から、エラスムスはホルバインの為に推薦状を書いてくれた。ホルバインはバンベルクで修士号と市民権を取得していたが、この町で絵描きとして十分な報酬を得ることはますます困難になっていた。ホルバインは肖像画だけでなく、宗教画や壁の装飾に加えて、本の出版社にイラストを提供したり、ガラス窓や銀細工師の草案を提供して食いつないでいた。

ハンス・ホルバインによるエラスムスの肖像画

1521年、彼はバーゼルの市庁舎にある大きな評議会室の絵画を依頼されている。バーゼルでは、ホルバインは2つの有名な聖母マリアの絵画、《ダルムシュタットのマドンナ》(Darmstädter Madonna)と《ゾロトゥルンのマドンナ》(Solothurner Madonna)を描いている。

《ダルムシュタットのマドンナ》、フランクフルト・アム・マインのシュテーデル美術館蔵
《ゾロトゥルンのマドンナ》、ゾロトゥルン美術館蔵

1526年、ホルバインはアントワープ経由でロンドンに向けて出発。エラスムスに書いてもらった推薦状は、エラスムスの友人であるロンドンのトーマス・モア(Thomas Morus)に宛てられていた。エラスムスはホルバインをロンドンまで連れて行ったあと、2年間の滞在中に大家族の肖像画を作るよう依頼した。

トーマス・モアは、「親愛なるエラスムスよ。あなたが紹介した画家は素晴らしい芸術家だが、彼が望んでいるほどイギリスで実り豊かで有益なものになるとは思えない。でも、時間の浪費にならないように全力を尽くすつもりだ。」と語った。 しかし、ホルバインはトマス・モアのこの予想を裏切ることになる。ロンドンに着いたホルバインは、早速、一時的に建設された王室の祭事用建築のための巨大な装飾画を依頼される。その後も、宮廷メンバーの肖像画を多数任されることとなり、ホルバインのロンドン滞在はトマス・モアの心配した時間の無駄とはならなかったようだ。ホルバインは一旦ドイツへ戻り、バーゼルで家族と4年間過ごした後、もう一度ロンドンへと旅立った。そして、今回は永遠にドイツを離れることになるのだった。

1536年、ホルバインはヘンリー8世の宮廷画家の地位を得た。ホルバインは、ヘンリー8世、アン・オブ・クレーブス(Anna von Kleve)やクリスティーヌ・フォン・デンマーク(Christina von Dänemark)、ヘンリーの妻ジェーン・シーモアなど、英国王とその結婚候補者を描いてきた。 写真のなかったこの時代、国王の伴侶を選ぶ際、直接本人と対目する前に相手の容姿を伺い知る上で、肖像画は唯一の情報源であった。国王にとって子孫を残すことが最重要課題であったことを考えると、ホルバインの与えられた役回りは、イングランドの行く末と直結する重要なポジションであった。

ロンドンにおけるホルバインの最も重要な作品は「大使たち」と名付けられた作品だろう。これは、フランス国王フランソワ1世(François I.)に仕えていたジャン・ド・ディンテヴィル(Jean de Dinteville)とジョルジュ・ド・セルフ(Georges de Selves)を描いた記念碑的な肖像画だ。友人たちは、科学機器や楽器でいっぱいのテーブルに寄りかかっている。静物画は、リベラルアーツに対する彼らの共通の愛を示している。 謎めいた円盤のように手前に浮かんでいるのは、隠されたメメント・モリとしての頭蓋骨だ。「死を忘れるな」そう伝える巨大な頭蓋骨の意匠は、特定の角度からしか見ることができないようにあしらわれている。 この絵のなかでホルバインは、現世を謳歌する大使たちを通し、この世界の素晴らしさや若さを讃える一方で、同時に、その対称として、この世のすべてのもは一過性であることを表現している。

《大使たち》ロンドン・ナショナルギャラリー蔵

ホルバインはもちろんヘンリー8世の肖像画も描いている。ホルバインが描いたヘンリー8世の肖像画には、精神性と決意が微妙に反映されている。ヘンリー8世にその才能を愛されたホルバインについては、次の逸話が残っている。画家に対する不平を言った貴族に対して、ヘンリー8世は「私が望めば、7人の農民から7人の貴族を作ることだってできる。しかし、7人の貴族から1人のホルバインを作ることはできないのだ。」と言ったとされる。しかし、似たようなエピソードは神聖ローマ皇帝とアルブレヒト・デュラーについても語られていることから、話の真偽のほどは定かではないが、ヘンリー8世のホルバインに対する信頼のほどが伝わってくる逸話である。

ヘンリー8世の寵愛を一身に受けたホルバインであったが、ここで取り返しのつかない大きな失敗をしてしまう。ヘンリー8世の結婚相手の候補であったアンナ・フォン・クレーフェを、実物よりもあまりにも美しく描きすぎてしまったのだ。ヘンリー8世は肖像画を見て、アンナに一目惚れしたが、後日、本人と待望の対面を果たした際に、肖像画とはあまりにもかけ離れた花嫁の容姿に落胆し、結婚を取り消したほどであった。この一件によりホルバインは王の寵愛を失うのだった。

1543年11月29日、宮廷を追われたハンス・ホルバインは失意のうちにロンドンで亡くなっている。死因はおそらくペストであったと推測される。南ドイツで生まれた天才画家は、イングランドで世界的な名声を博したが、二度と生まれ故郷のアウグスブルクに戻ることはなかった。

参考:

deutschlandfunkkultur.de, “Renaissance-Maler mit diskreten Todesbotschaften”, Carmela Thiele, 29.11.2018, https://www.deutschlandfunkkultur.de/hans-holbein-der-juengere-renaissance-maler-mit-diskreten-100.html

galerie-cyprian-brenner.de, “HANS HOLBEIN DER JÜNGERE”, http://www.galerie-cyprian-brenner.de/kunstlexikon/kuenstler/holbein-der-juengere-hans#kuenstler

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