バレンタインのポグロム | シュトラスブールのユダヤ人大量殺戮

ドイツ周辺地域

ユダヤ人への憎悪とペストへの恐怖が巻き起こした悲劇

1348年、シュトラスブール市当局に気がかりなニュースが届く。その後すぐ、未知の病気がシュトラスブールの町全体を襲い、わずかな期間に市民を激減させたのだった。この時に発生した混乱は、町の秩序をあっという間に破壊してしまったが、この町で起こった大量殺戮は、天から降ってきた疫病によってではなく、人間の手によって行われたものであった。

未知の疫病が発生した時、その原因はユダヤ人のせいにされた。その後に町で発生した出来事に関して、シュトラスブールの年代記作家であるヤコブ・トゥインガー・フォン・ケーニヒスホーフェン(Jakob Twinger von Königshofen)は、「これまでにない最大の死」という言葉で要約している。

1349年の2月14日、聖バレンタインの日に、アルザスの大都市でこの出来事は起こった。ユダヤ人は住む場所を追われ、時に拷問にかけられ、最後に特設の小屋に押し込められ火をかけられた。因果関係を疑われた黒死病はまだ町に到達してさえいなかった。しかし、市民の政治的対立、社会の激変、そして特に貴族による経済的利益の追求により、ユダヤ人コミュニティはキリスト教徒の隣人によって標的とされたのだ。では、一体何がこの暴動の導火線となったのか?

14世紀のシュトラスブール。貿易によって繁栄した中世の多くの都市と同様、進取の気性のある商人は自治体の重要な地位を占めていった。司教は権力を奪われ、商人と職人の影響力が増した。貴族は評議会に8議席しかなかったが、商人は14議席、ギルド職人は25議席を占めていた。 Stettmeister(市長)とAmmeister(評議会のスポークスマン)に代表される、生涯任命された幹部たちは貴族にとどまることに成功した。こうして表立って躍進した商人や職人の陰で、富を形成していったグループがユダヤ人たちである。

ユダヤ人の保護。これはシュタウフェン朝時代の終焉まで、神聖ローマ帝国皇帝と王の責任であった。 「皇室の召使」として、ユダヤ人はこれにかなりの税金を払う必要があった。 1241年頃、フリードリヒ2世は、シュトラスブールのコミュニティだけで200シルバーマルクを集めているが、これはおよそ50㎏の銀に相当する。こうして多くの追加「税収」を期待できたユダヤ人の保護は、皇帝不在の大空位時代に、都市へと委譲されることとなった。大空位時代が終わり、徴税の権利は再び皇帝に戻る。自身の皇帝選挙にさらなる選挙資金が必要となったカール4世は、シュトラスブールのユダヤ人から500シルバーマルクを集めている。

では、ユダヤ人たちはいかにしてこの膨大な財産を手に入れたのか?ユダヤ人は、貿易や手工芸産業への参加を許されていなかった。つまりユダヤ人は、キリスト教の教義が禁止していた金貸し業に携わる以外道はなく、キリスト教徒に代わり、銀行家の役割を担ったのだ。こうしてユダヤ人は金融業で、富を形成していく。

実は、市当局もこういった取引の利益の一部を吸い取ることで恩恵を受けており、シュトラスブールの市議会は、1ポンドあたり1週間で2ペニッヒの金利を許可した。これは年間金利で約43パーセントに相当する。こういった経緯から、ペストの蔓延に関する報告に、ユダヤ人が拷問を受けたという事実も記載されたいたことに対し、当局は警戒を示した。ユダヤ人と協力していた自分たちも標的にされる可能性があったからだ。そしてこの事実は、ペスト蔓延時に、すでにポグロムが発生していたことを示している。

ケルン市議会からシュトラスブール当局に届いた手紙は、これがどのような危険な結果をもたらすかについて言及していた。 当局がユダヤ人コミュニティを保護した場合、当局に対する反乱がおこりうる可能性について示唆していた。 この手紙の内容を考慮し、シュトラスブールの市当局は迅速に行動に移した。 ユダヤ人を強制逮捕しだしたのだ。ユダヤ人のなかには、井戸に毒を投げ込んだ罪で立証もされていないのに、市当局に逮捕され、厳しい尋問を受けた者さえいた。しかし、こういった過激な対処方法でさえ、市民の不安をかき消すことはできなかった。

この間、シュトラスブールの南にあるベンフェルドでは、司教と貴族がこの事態への対応を協議した悔過、ユダヤ人の保護を断念する決定を下している。ユダヤ商人による支配を打ち破るには、ギルドとの連帯こそが重要であり、ユダヤ人はもはや保護するべき対象ではないと結論づけたのだ。ユダヤ人から借りた巨額の借金があったことも、この決定の大きな理由の一つであった。

そして、1349年2月9日、ついに暴動が発生。肉屋に率いられた怒れるギルド職人が評議会の建物へと行進を開始した。ユダヤ人たちは暴徒の圧倒的な数に降伏し、評議会における地位を辞任し、自分たちの財産が没収される間になんとかこの暴動から逃れようと試みた。この騒動の後、ギルドは新しい評議会員を任命。評議会の新メンバーにはユダヤ人に代わり、多くの貴族が含まれていた。それでも市民の怒りは収まらず、翌日、ポグロムが始まる。 「ユダヤ人たちは金曜日に捕らえられ、土曜日には焼かれた」と記した年代記者のフリッチェ・クローザーによると、人口の約10分の1にあたる2,000人が犠牲となった。

とりわけユダヤ人たちが所有していた貴族に対する約束手形は燃やされ、殺害されたユダヤ人の財産は職人たちが仲間内で分配した。この事実はユダヤ人に対する暴力を組織したのが貴族、職人によるものであったとする説に説得力を与えている。結局、この虐殺から数ヶ月後まで疫病はシュトラスブールに到達しなかったのであるから、疫病の発生原因がユダヤ人が井戸に投げ入れた毒であったはずがない。そもそもユダヤ人たちはとっくに殺されたか、町を追われた後だったである。では、貴族や市民をユダヤ人惨殺に向かわせた本当の理由は何だったのか?

ユダヤ人は、よそ者、異端者、ハンセン病患者、つまり一見キリスト教社会に適合しなかった人々に毒についての知識を伝えたとの流言が流れた。シュトラスブールにおけるポグロムは、ペストに対する恐怖心とユダヤ人への憎しみが政治的および経済的利益と結びつき、それが具現化されたものであると理解できる。シュトラスブールのユダヤ人コミュニティーから保護目的で税金を搾り取ったカール4世は皇帝選挙において対立王を抑え勝利した。皇帝についたカールは、自身の領地で発生したポグロムに対する制裁を行う上で、加害者に厳罰を与えるのではなく、町の秩序を維持する為に一定程度の免責を与える選択を取った。ユダヤ人たちが皇帝や市に対して支払った莫大な税金に見合った保護が与えられることはついになかったのだ。

参考:

welt.de, “Wenn ihnen der Adel nichts geschuldet hätte, wären sie nicht verbrannt worden”, 14.02.2021, Berthold Seewald, https://www.welt.de/geschichte/article226284749/Valentinstags-Pogrom-1349-Wenn-ihnen-der-Adel-nichts-geschuldet-haette-waeren-sie-nicht-verbrannt-worden.html

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