ベルリンのシンボル

ベルリン

ベルリンのブランデンブルク門はちょうど10316日間閉鎖されていた。 1961年8月13日午前1時5分、世界的に有名なランドマークを毎晩照らしていたスポットライトが消えたのだった。そして、人々が「門」を取り戻したのは、28年後の1989年11月10日の真夜中過ぎだった。

ベルリンの壁は崩壊した。この後、ブランデンブルク門はドイツの最も重要なシンボルとなった。同じく人気観光名所となっているアレクサンダー広場のテレビ塔のはるか前から存在し、保存する価値のある唯一の東ドイツ建築とも言われている。ブランデンブルク門は他の建物とは異なり、引き裂かれたドイツの歴史を象徴している。

現在の門は、225年前の1791年8月6日に初めて一般公開された。まだ未完成であったが、彫刻家ヨハン・ゴットフリート・シャドー(Johann Gottfried Schadow)が、4頭の馬に引かれた戦車に乗っている平和の女神のブロンズ彫刻を作成し、1793年に門の上に飾られた。

当時、ブランデンブルク門は実際にはまだ城門の機能を持っていた。ただし、防御構造の一部としてではない。バロック様式の要塞は半世紀前に取り壊されている。兵器開発の進歩に直面し、すでにその目的を失っていた。

門の目的は、物品税・関税徴収の為の場所へと置き換えられた。プロイセン王国内に商品を持ち込みたいと思った者は、関税を払わなければならなかった。ウンターデンリンデン大通りの端にある、ブランデンブルク市の方角にある門や、新しいベルリンの壁を通る18の通路すべてに、衛兵所と税関が設置された。この複合施設は1738年に完成している。これは、砂岩で出来た2つの柱、歩行者用通路の2つの門、砂が敷かれた小道で構成されていた。そして、警備員、門番、消防署、関税徴収人用に1つずつ、合計4つの門があった。

しかしすぐに、このブランデンブルク門は、プロイセンを代表するものとは見なされなくなった。1769年には早くも、芸術アカデミー(Akademie der Künste)の会議で、西にあるQuarré(現在のPariser Platz)と呼ばれる角張った広場に、新しい市門を建設することが決定した。

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm II.)はこの提案を取り上げ、建築家カール・ゴットハルト・ランガンス(Carl Gotthard Langhans)に現代的で威厳のある新しい門の作成を依頼した。1788年、工事は、わずか50年前に建てられた門の解体から始まり、初期古典主義の新門は3年後に完成した。

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世

ランガンスは、アテネのアクロポリスにあるパルテノン神殿とプロピュライアの2つの建物から着想を得たという。そこから彼は、幅65.5メートル、高さ26メートル、深さ11メートルの5つの通路を持つ門を制作した。真ん中の広い通路は、1918年にドイツの君主制が終わるまで、王族とその近親者の為の専用通路だった。

カール・ゴットハルト・ランガンス

1791年の夏、歩行者や馬、馬車を対象とした別の通路が正式に開通したが、王は夏の休暇から戻ってすぐにベルリンの開通式に出席したくなかった為、開通式は静かに行われた。翌年、門にはブロンズで作られた碑文が取り付けられた。:平和門。しかし、その名前のとおりにはならなかった。

文化史学者のバーバラ・デマンド(Barbara Demandt)が書いているように、1793年の初秋に組み立てられるとすぐに、門の上に備えられたシャドーの彫刻に対して、ベルリン市民が「その上で馬車に乗っている裸の御者」と呼びはじめた。その上品とは言えない呼称が定着する前に、シャドーの彫刻には《クアドリガ》(Quadriga)という名前が付けられた。彫刻家のシャドーは改良を加え、以前は質素だった平和の女神に、地面に届くローブを着せた。

それ以来、門とクアドリガは「プロイセンのシンボル」となり、19世紀後半からは「ドイツの象徴」であり続けた。ベルリンを占拠したナポレオンは、1806年にシャドーの彫刻をパリへと持ち帰っている。 1814年にプロイセン軍がパリに進軍した後、それはすぐにベルリンへと持ち帰られ、同じ年の8月9日にベルリンへの帰還セレモニーが行われた。ベルリン市民は今ではそれを「帰ってきた馬車」と呼んでいる。

シャドーが作成した平和の女神から、カール・フリードリッヒ・シンケル(Karl Friedrich Schinkel)は月桂樹の代わりに鉄十字とオークの葉で勝利の女神ビクトリアを作った。ブランデンブルク門は、1864年、1866年、1871年の戦争後に、プロイセンの軍隊が帰国した際に通った凱旋門となった。

カール・フリードリッヒ・シンケル

平和の門は凱旋門となり、今では国民の追悼の象徴となっている。 20世紀に入ってからも、門はその性格を何度か変えることとなった。ナチスはそれを松明や行進、車列の背景として使用したのだった。

1945年4月の終わりから5月の初めにベルリンの戦いが行われた後、ベルリン・ミッテ地区でひどい損害が出た。1953年6月17日、東ベルリンの労働者は自由選挙とSED独裁政権の終結を求めた。こういった状況にもかかわらず、この砂岩の門は奇跡的に破壊を免れている。

1961年8月13日、門がドイツ分割のシンボルとなったのはわずか1時間だった。この時以来、通ることが出来なくなったゲートは、ベルリンを訪れる訪問者の目標であった。 そして、その10316日後、この門は新しい統一ドイツの象徴へと変わった。

新しい市庁舎の前に、自由と統一の記念碑を建てようという話が持ち上がったが、失敗している。統一のための新しい記念碑など必要としないことに、ベルリン市民は気づいたのだ。カール・ゴットハルト・ランガンスによるブランデンブルク門に優る歴史の証人はおらず、現代アーティストによる作品に置き換えることなど到底不可能であった。


参考:

welt.de, “Seit 225 Jahren ist „das Tor“ Berlins Wahrzeichen”, Sven Felix Kellerhoff, 06.08.2016,https://www.welt.de/geschichte/article157518142/Seit-225-Jahren-ist-das-Tor-Berlins-Wahrzeichen.html

berlin-wilhelmstrasse.de, “Brandenburger Tor: Ein erstes „Tor“ für die Dorotheenstadt”, https://www.berlin-wilhelmstrasse.de/brandenburger-tor/

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