レヒフェルトの戦い

アウグスブルク

アウグスブルクを流れる川に、 レヒ川(Lech)とヴェルタハ川(Wertach)がある。両方ともアルプスを水源とする小さな川だ。 この川の間、アウグスブルクの南には、レヒフェルトと呼ばれる、砂利が敷き詰められた平原がある。氷河期の川の堆積物により形成されたと言われている。 今から1000年以上前、この平原でその後のヨーロッパ世界の趨勢を決定する壮絶な戦いが行われたのだ。

マジャール騎兵隊の人々は、西暦899年以来、ハンガリーの低地から東フランケン帝国に32回にわたり侵攻を繰り返していた。ユーラシアの草原からの、まるで嵐のように、フン族とモンゴル族が現れては姿を消したのとは異なり、マジャール人は土地を切り取り、規則的に西方面に進出してきていた。東フランケンの諸侯たちは軍隊を編成したが、迅速なマジャール騎兵隊の大群は再び姿を消したのだった。しかし、955年、マジャール人たちは西への道を永遠に阻まれることとなる宿敵と出会うのであった。ザクセン公オットー1世。936年以降、東フランク王となった人物だ。

当初、オットー側にとって、状況は絶望的に見えた。歴史家のゲブハルト・フォン・アウグスブルク(Gebhard von Augsburg)は次のように書いている。彼らはバイエルンをドナウ川から黒い森まで荒廃させた。レヒ川を渡ってアレマニアを占領したとき…彼らはドナウ川から森まで周辺地域全体を略奪し、イラー川(Iller)までの土地の大部分を焼き払った。」それからマジャール人たちはアウグスブルクへと向かったのだった。

町は恐怖に支配されていた。65歳のウダルリッヒ・フォン・アウクスブルク司教(Udalrich von Augsburg)は、剣だけで武装した格好で、町の東門でハンガリー人と戦ったばかりであった。今、彼は大聖堂の中に横たわって、聖母マリアに町の保護を祈っていた。敵は4日間にわたり市壁を取り巻き、攻撃を繰り返していた。ハンガリーの主力軍は、突如、レヒ川の方向へ撤退しはじめたので、ウダルリッヒの祈りは聖母に聞き入れられたように見えた。

ウダルリッヒ司教にとってまるで奇跡のように思えたものは、実際には大胆な戦略の結果であった。オットー1世は、父親のハインリッヒ1世の後継者として、反抗的な貴族たちには権力を行使することができた。ハンガリーからの危険な敵との戦いが中心的な役割を果たしました。オットーと帝国貴族が一丸となったことで、敵を完膚なきまでに打ち負かすことに成功した。こうして、アウグスブルクの南に位置するレヒフェルトにおける戦いは、ドイツ史上、非常に重要な出来事となった。

955年7月、ハンガリー軍は指揮官であるホルカ・ブルチュ(Horka Bulcsu)とレール(Lehel)のもと、再びバイエルンに侵攻を開始した。ハンガリー軍は、戦いに疲れて勢いのなくなっている敵との戦闘を想定していた。しかし、「大帝」と呼ばれるオットー1世はすぐに反応した。とりわけ、彼はマジャール人を神とキリスト教にとっての宿敵であるとし、「キリストに反旗を翻す敵」と呼ぶことによって、戦闘の宗教的正当性を強調したのだった。ハンガリー人がアウグスブルクを包囲していた4週間の間に、オットーはウルム近郊に帝国軍を集結させたのだ。

19世紀に描かれた想像画 (Source: wikipedia.org)

オットー1世は、当時としては珍しく、敵を壊滅させることを計画し、敵の退路を断つため、北側から敵に向かって攻め入った。しかし、同時に自分たちに残された時間が少ないことをオットーはよく理解していた。ロートリンゲンとザクセンの軍が、援軍として加わるのを待っていれば、アウグスブルクはマジャール人の攻勢に耐え切れず、陥落していたであろう。そこでオットーは8000人に満たない騎士を率いて、ウルムを出発したのだった。

オットーの軍隊は8つの部隊で構成されていた。最初の3つはカウント・エーベルハルトの指導のもと、バイエルン人で構成され、4つ目の部隊はフランケン地方から参加していた。5つ目は兵力の面では最強部隊であったので、オットー自身が指揮を執った。オットーは、大天使ミカエルがドラゴンと戦っている意匠の帝国軍旗を持って騎乗した。公爵ブルクハルト3世(Herzog Burkhard III)率いるシュヴァーベンの2つの部隊がオットーの部隊に続いた。そしてボヘミア兵がしんがりを務めた。

聖ローレンスのネームズデーである8月10日の朝、戦いの前にオットーは部下に一致団結を求めた。当時の年代記者ヴィドゥキント・フォン・コルヴェイ(Widukind von Corvey)は、この時のオットーの演説を装飾しつつ再現している。

「諸君、遠方からでなく、間近で敵に相対した今、どれほど大きなプレッシャーの中で、自分の勇気を示さなければならないかよくわかっているであろう。諸君らの力強い腕、負けを知らない武器のおかげで、私は今日まで、自分の王国、領土の外であっても常勝を誇ってきた。敵に服従するなど恥ずべき行為だ。我々戦士は、敵に捕らわれて生きながらえ、動物のように扱われるよりも、戦闘のなかで栄光のうちに死んでいくことを望んでいるはずだ。」

オットーの言葉には抜群の効果があった。 「これまで敵対し合っていた戦士たちは和解し、各々がまず自らの指揮官に、そして隣の兵士たちに最後まで自分の役目を果たすことを誓った。」 ヴィドゥキント はこう報告している。

こういった誓いは、騎士道における義務であった。オットーの軍隊は、主に鎖帷子に身を包んだ騎士で構成されており、行進速度ではハンガリー軍と大差がなかったが、兵力の面では優っていた。しかし、マジャールの軍隊は兵力で優っており、「マジャール軍の馬で湖の水を飲み尽くすのではと思うほどであった」と目撃者は語っている。

オットーは賢明にもそのような誇張を鵜吞みにしなかった。 955年8月10日、オットーは、ハンガリー人にアウグスブルクの東に位置するグンツェンレ(Gunzenle)の丘のふもとにあるキャンプをあえて襲撃させた。ボヘミアンの警備隊が逃亡する。勝利を手中に収めたハンガリーの騎兵隊は、シュヴァーベンの別動隊の後方を取った。オットーはそれを待っていたのだった。

レヒ川に向かって進軍したオットーの軍隊は、敵軍と戦闘に入る。バイエルン軍は北から乗り込み、オットー自身は右手に剣、左手に槍を持ち、南方向から進軍し、その後ろにはフランケン軍ののエリート部隊が続いた。それは「赤(der Rote)」という異名で呼ばれる、コンラート・フォン・フランケン公爵(Herzog Konrad von Franken)の指揮する部隊だった。公爵はこれまでに自身の人生を戦いに捧げ、圧倒的な勝利を築いていた。しかし、耐え難い夏の暑さが、コンラート・フォン・フランケン にほんのわずかな時間、かぶとを外させたのだった。短時間の換気を意図しただけだったが、その間に矢が命中し、命を落とした。

ヴォルムス大聖堂にあるコンラートの墓 (Source:org.wiki.)

オットーと コンラート による波状攻撃により、マジャール人は反撃できずに押し込まれ、その多くは降伏した。レヒ川を渡って逃げようとした者は、そこに配置された騎士の槍の犠牲となった。戦闘で捕らわれた者のなかには、敵軍指揮官の ホルカ・ブルチュとレール もいた。何十年にもわたってマジャール軍による襲撃の犠牲となり、憤慨していたバイエルン軍は、レーゲンスブルクで彼らと相まみえたのだった。 ホルカ・ブルチュとレール を含む司令官は、ここで処刑されている。

レヒフェルトでのハンガリー軍の大敗により、マジャール人は二度とドイツに侵入することがなかっただけでなく、キリスト教への改宗も行った。

955年、アウグスブルクにおいて、マインツ大司教は、この戦いに勝利したオットーを祝福した。 同じ年、オットーはエルベ河畔でスラブ人をも打ち破り、圧倒的な勝利を収めた。オットーは強力な軍隊とマジャール人に対する勝者という名声に支えられ、北イタリアの大部分を含む新帝国を創設した。 962年、オットーは教皇ヨハネス12世により、西ローマ皇帝としての戴冠を受けた。 これにより、オットーは神聖ローマ皇帝として、後世へと続く礎を築いたのだった。帝国はその後1806年まで続くのであった。

welt.de, “Die große Schlacht, die Deutschland entstehen ließ”, Jan von Flocken, 04.07.2017, https://www.welt.de/geschichte/article170060252/Die-grosse-Schlacht-die-Deutschland-entstehen-liess.html?icid=search.product.onsitesearch

geschichte-zu-fuss.de, “DIE SCHLACHT AUF DEM LECHFELD”, https://www.geschichte-zu-fuss.de/schlacht-auf-dem-lechfeld/

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