聖アフラ教区博物館

アウグスブルク

アウグスブルク大聖堂裏にある聖アフラ教区博物館は一見の価値がある。市庁舎の前を通る目抜き通りであるマキシミリアン通り。その端に位置する為に、アウグスブルク大聖堂の裏手に位置する宝物庫は訪問客もあまり多くはない。しかし、この宝物庫には15世紀、16世紀のアウグスブルク黄金時代の貴重な作品が数多く収められている。

大聖堂宝物庫(筆者撮影)

展示品の中には、アウグスブルク教区の守護聖人である聖ウルリッヒと聖アフラに因んだものが多い。金細工、銀細工で名をはせたアウグスブルクの職人たち、またシュヴァーベン地方で制作された作品が見どころである。中世に、それ自体が高額で取引されていた聖遺物、そしてそれを容れる為に作られた豪華な聖遺物収納具は当時の最高傑作である。この時代のアウグスブルクの金細工師の仕事ぶりは帝国中に鳴り響いていた。フッガー家やヴェルザー家に代表される豪商とともに、裕福な商人が住んでいたアウグスブルクの当時の繁栄ぶりをこういった作品に垣間見ることができる。

宝物庫内部(筆者撮影)

16世紀以降、宗教改革を受け入れ、プロテスタントの町となったアウグスブルクではカトリック教会の聖像破壊なども行われ、当時の貴重な宗教作品が多数失われたが、それでもこれほどの数のカトリック関連の作品が残っているのは非常に稀なことである。

要するに、注目するポイントとしては、1.) アウグスブルクが宗教改革以前にまだカトリックであったころの大聖堂所有の宝物、2.) 金細工で名を馳せたこの町の職人たちによる華麗な装飾品の数々、3.) 大聖堂の立地自体がローマ時代の「アウグスタ・ヴィンデリクム」の遺跡発見の場所であり、考古学的発見の数々。この3つにポイントを絞って、展示品を鑑賞すると一層、アウグスブルクや展示品に対する理解が深まる。

マリアの生涯が描かれた「マリア・ニコラウス祭壇」の絵。シュヴァーベン地方、1490年頃。木材へのテンペラ技法。両側に絵が描かれたこの板は、かつては祭壇画の一部であった。この折り畳み式の祭壇画は、日曜日と祝日に開かれたのだった。黄金に塗られた背景の上に、「マリアの登場」、「マリアの訪問」、「キリストの誕生」、「マリアの死」といった場面が、この祝祭日に開かれる部分に描かれている。

聖歌隊席の側面の板。これらの板は、1431年に奉献されたアウグスブルク大聖堂の新しい東側の聖歌隊席の為の椅子に取り付けられていたものである。このように様々な装飾がなされた聖歌台の椅子としては、南ドイツではもっとも古いものとされる。これらのレリーフは、受胎告知、キリストの誕生、東方三博士の訪問などが描かれている。

聖ウルリッヒ、アウグスブルク教区の聖人像。

(上)アウグスブルク大聖堂の南門の取っ手。シュヴァーベン地方、12世紀後半か13世紀前半の作品。このライオンの頭を模った作品は、ふたつ一組として大聖堂南門の取っ手として取り付けられていた。現存していないロマネスク様式のドアに取り付けられていた。この様式から判断するに、シュヴァーベン地方の工房で制作されたと考えられる。この一種グロテスクな顔をしたライオンは、聖なる場所に邪悪なものを寄せ付けないと考えられていた。

(下)アウグスブルク大聖堂の北門の取っ手。シュヴァーベン地方、15世紀後半の作品。南門と同様、これもライオンの頭を表している。制作された工房は、シュヴァーベン地方であったと考えられる。ライオンの頭を模したようなドアノブは、通常は大聖堂のメインの入り口のドアにだけ取り付けられるものなので、アウグスブルク大聖堂は通常のケースより多くのドアノブを所有していたことになる。この南北のドアノブ以外にも、東西の聖歌壇近くのブロンズの門にも別のドアノブが取り付けられていた。

ヘルリン=ウルズラ奉納パネル。アウグスブルク、1480/90年頃の作。この板絵は、教区の守護聖人である聖ウルリッヒと聖アフラが、聖体を共有している。この絵は、1480年頃に結婚したと考えられているバルトロメウス・ヘルリン(Bartholomäus Hörlin)とウルズラ・ヴィッテル(Urusula Vittel)夫婦によって寄贈された。この横長のフォーマットから推測するに、この板絵はアンティペンディウム(祭壇の前を飾るもの)として使用されたと考えられる。

持ち運び用の祭壇画。シュヴァーベン地方、1180年頃の作(1371年に追加加工)。金箔を貼った銅板に図柄を刻印。エッティンゲン家(Oettinger)の持ち運びができる祭壇画。通常は見える位置にないが、下の部分に茶色のニスで描かれたキリストの磔刑像が存在する。刻印は「キリストがその犠牲によって美徳への道を与えた」と記している。それに関連して、ここには「強さ(FORTITVDO)」「公平さ(IVSTICIA)」「節度(TEMPERANCIA)」「賢明さ(PRVDENCIA)」が描かれている。伝道者たちのシンボルは、1371年に祭壇が再度奉納されたときに追加されたと考えられる。

ホストの聖体顕示台(Host Monstrance)。アウグスブルク、ハンス・ミュラ―(Hans Müller)による1470年の作。この聖体顕示台は塔の形を模したデザインで、アウグスブルク教区のもので、現代まで生き残ったゴシック様式の珍しい作品である。刻印によると、この作品はハンス・ミュラ―がアウグスブルクの聖モーリッツ教会(St.Moritz)の設立の為に作られた。中央の顕示スペースの隣にある2体の像は、モーリスの指揮下にあるテーベ軍の騎士であり、教区の聖人であるウルリッヒとアフラ、そしてキリストの武器を手にした2体の天使、旧約聖書の神官王メルキゼデク(Melchisedek)、マリア、ヨハネ、悲しみの人が表現されている。

ホストの聖体顕示台(Host Monstrance)。アウグスブルク、ヨハン・ヨアキム・ルッツ(Johann Joachim Lutz)による1717-1721年の作。バロックの聖顕示台は、典型的にキリストのシンボルとして太陽の形で制作されることが多い。そこに配置された像も、父なる神と、子であるキリスト、精霊を表す鳩で構成されており、三位一体を表現している。追加のレリーフとして、アウグスブルクの守護聖人であるウルリッヒとアフラと共に、マリアが戴冠している様子が描かれている。

聖遺物容器。12/13世紀、シチリアの作。象牙製。この象牙でできた聖遺物容れは、聖シルベスターと聖マルセリウス、殉教者テオドールの聖遺物が、1552年より大聖堂の宝物として収められている。それ以前に、この箱はどのような用途に用いられたかはわかっていない。

聖体祭(Fronleichnam)。アウグスブルク、1615/1620頃の作品。精巧に作られ、何度も使用されたこの本は、聖体祭で使用された。おそらく、1610年に決定し、1612年から実行された儀式の新たな規則に関連していると思われる。本は、「旧約聖書の司祭メルキゼデク」、「マナ人」、「最後の晩餐」、「エマオの弟子」を表している。

11世紀中頃から祭壇に十字架が置かれるようになった。祭壇の十字架と共に、キリストの磔刑像が飾られ、主にマリアと伝道者ヨハネによって付き添われている。十字架の4つの端には、伝道者のシンボルが取り付けられた。「神の手」、「羊」、「アダムの頭蓋骨」、「十字架の木を生命の樹として表す為の葉」である。13世紀まではほとんどの十字架は、金、銀、青銅、水晶で出来ていた。その後、真鍮、銅、青銅で作られ、金とエナメルを塗られた十字架が一般的となった。ルネサンス期には、銀、真鍮や象牙でできた救世主を伴った木製の十字架が作られるようになった。銀の十字架の使用は、バロック時代から再び増加した。

これはウルリッヒ礼拝堂で発見された古代ローマの遺跡である。

アウグスブルクは、皇帝アウグストゥスからその名前を得ているわけだが、この町で最も古いローマの足跡は、紀元前8世紀から5世紀そして紀元6世紀から9世紀にかけて、レヒ川とヴェルタッハ川の合流地点に作られた軍事施設であった。紀元20年頃、ローマ人の要塞が現在大聖堂のある北東にあった。その要塞は、紀元69年、70年頃に起こった市民戦争で破壊された。その要塞の外側の集落から、非軍事組織であり、ラエティア(Raetia)州の州都である「アウグスタ・ヴィンデリクム(Augusta Vindelicum)」が発展した。おそらく紀元122年頃、ローマ皇帝ハドリアヌスにより都市特権が与えられたと考えられる。こおnコミュニティーは、2,3世紀の間発展を続け、フォーラム、神殿、浴場、市壁が築かれた。「3世紀の危機」、それに続く4世紀の混乱の時代も、これら施設の大きさは縮小しなかった。「アエリア・アウグスタ(Aelia Augusta)」は、紀元400年までラエティア州の行政の中心であり続けた。ここに初期キリスト教の跡があったことを示す考古学的証拠は、大聖堂の聖ガルスと聖ウルリッヒ・アフラの辺りにみられる。

(左上)シボリアルアーチの断片。石灰石。カロリング朝の大聖堂もしくはヨハネス教会の室内装飾用。大聖堂の南東、8/9世紀の作品。

(中央)ワインブドウを模した室内装飾。カロリング朝大聖堂の装飾。西の地下埋葬室、9世紀。

(下)聖歌台棚の一部分。カロリング朝大聖堂のもの。西の地下埋葬室、9世紀。

神聖ローマ皇帝カール5世の葬儀用武具。1558年9月21日、カール5世が逝去した後、ブリュッセル、リスボン、ローマ、ロンドン、メキシコ、そしてアウグスブルクでも、死者の安息を願う追悼ミサが始まった。アウグスブルクはカール5世の最も好んだ滞在場所の一つであった。

カール5世の弟であるフェルディナント1世は、アウグスブルクのおける追悼ミサを皇帝権力再建のシンボルと位置付けた。これら武具の一式は、かぶと、剣、円形の盾、鎖帷子、帝国杖、王冠、宝珠(Reichsapfel:ライヒスアップェルといい、十字架が上に付いた球体のことを指す)、そしてカール5世が統治した国々の紋章を描いた12本の旗から成っていた。

追悼の儀式は、1559年2月24日、フッガーハウスから大聖堂までの行進が行われた。大聖堂の内部は、黒い布で覆われ、紋章、十字架の意匠、ろうそくなどで飾られていた。旗、紋章、紀章などは行列にも携帯され、追悼ミサの間、大聖堂にも飾られた。東の聖歌隊席の前には、木造の墓が建てられ、その中に装備の一部が取り付けられ、紀章が飾られた。式典の後、皇帝フェルディナントは、アウグスブルク大聖堂に、かぶと、剣、盾からなる葬儀用の武具を与えた。

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