マリーアントワネットも立ち寄ったロココの宮殿

アウグスブルク

【シェッツラー宮殿】

アウグスブルクの目抜き通りであるマキシミリアン通りの《ヘラクレス噴水》(Herkulesbrunnen)が立つ、そのすぐそばにシェッツラー宮殿はある。今日のシェッツラー宮殿は、中世後期の古い貴族の家の跡地にあり、オーストリアのフェルディナンド大公の妻《フィリピーネ・ヴェルザー》(Philippine Welser)がここで生まれている。アウクスブルクの銀の取引で富を築いた銀行家の《ベネディクト・アダム・リーベルト》(Benedikt Adam Liebert)がこの建物を1764年に買収し、解体してから、1765年に現在の建物を建設した。

augsburg-city.de

リーベルトはミュンヘンの宮殿建築家カール・アルバート・フォン・レスピリーズ(Karl Albert von Lespilliez)に新しい建造物の建築計画を依頼し、地元の石工であるヨハン・ゴットフリート・スタンプ(Johann Gottfried Stumpe)に建設工事を委託した。他にも、ウィーンで活動していたローマ出身の画家、グレゴリオ・グリエルミ(Gregorio Guglielmi)には《祝祭の間》の天井画を担当させ、当時の最高の職人と芸術家を雇って宮殿を飾った。

【グレゴリオ・グリエルミ】

グリエルミは、ローマでキャリアをスタートさせるが、すぐに活動はヨーロッパ全土へと広がっていく。ドレスデンやウィーンでも仕事をし、オーストリア科学アカデミーやシェーンブルン宮殿のギャラリーで天井画を製作したが、どちらも戦争や火災によって破壊されている。ベルリンやアウグスブルクで働いた後、ロシアのサンクト・ペテルブルグで亡くなっている。

写真:useum.org/artist/Gregorio-Guglielmi

1770年の4月には、結婚によりウィーンからヴェルサイユ宮殿へと向かう途中であった14歳のマリー・アントワネットがここを訪れている。ウイーンでまだマリア・アントニアと呼ばれていた少女にとっては、母親である皇后マリア・テレジアとの別れが辛かったという。マリア・テレジアは、泣きじゃくる娘に向かって、「私はフランスに天使を送ったと、フランス人たちが言うように、みなにやさしくしなさい。」と言って、励ましたという。

14歳の少女は、1770年4月21日に母親と兄弟に別れを告げ、午前9時頃にフランスへ向けて長い旅をスタートさせている。フランスへ向かう道中は、オーストリアのフランス宮廷大使であるゲオルク・アダム・スターヘンバーグ(Georg Adam Starhemberg)が同行している。また、マリーアントワネットに同行する一団は、宮廷長や侍女、使用人など、総勢235人の随員が付き添い、350頭の馬、57台の馬車で移動する一大行列だった。約1,500キロの道程を24日間かけて移動する旅路であった。

マリー・アントワネットの結婚式の一行は、ウィーンを出発し、ケールとストラスブールの中間にある緩衝地帯、ラインインゼルまでプリンセスを送り届ける。ここまでがオーストリアの責任区分であり、そこからベルサイユ宮殿への行程はフランス側が責任を負った。

一行はまずドナウ川に沿って移動し、ミュンヘン、アウグスブルク、ギュンツブルク、ウルム、フライブルク、イムブライスガウなどの町に途中停車した。宿泊する町は全部で16カ所。移動行程は細心の注意を払って作成された。 マリー・アントワネットが従者の一団を引き連れて到来した町にはセンセーショナルが起こったという。

一行はまずオーストリアのランバッハ(Lambach)に到着、ベネディクト修道院に投宿している。修道院長のマウルス・リンデマイヤー(Maurus Lindemayr)は、この日の為に、上オーストリアの方言を用いた喜劇を用意し、一行の前で上演している。

ランバッハのベネディクト修道院 
Source:traunsee-almtal.salzkammergut.at

さらに一行は歩を進め、ミュンヘンに到着。一行は、ニンフェンブルク城(Schloss Nymphenburg)に宿をとっている。ニンフェンブルク庭園内にあるロココ様式の宮殿、アマリエンブルクは、マリー・アントワネットの個人的な休憩場所として提供された。

1770年4月28日、花嫁行列の一行はアウグスブルク市に到着し、そこで宿をとった。宿泊先として選ばれていたのは、アウグスブルクが誇るロココ建築、シェッツラー宮殿であった。この宮殿のダンスホール開園式の為に、マリー・アントワネットはダンスを披露したという。まばゆいろうそくの光が祝祭の間に飾られた銀色に輝く鏡に反射し、天井に描かれたフレスコ画を照らしたのだった。

宮殿の主、銀行家のベネディクト・アダム・リーベルトは、あらゆる外交的なコネクションを使い、皇帝の娘であり、未来のフランス王女であるマリー・アントワネットを自身の邸宅に招待することに成功したのである。この日の為に、リーベルトは一流の芸術家や建築家を集め、訪問に向けて準備したという。リーベルトにとって夢のような一日は終わり、翌朝、マリー・アントワネット一行は次の目的地ギュンツブルク(Günzburg)へと旅立っている。

フランスへと向かうこの行程の中で、マリーアントワネットがダンスを踊る機会は、このアウグスブルクだけであった。彼女の目には、アウグスブルクはどう映ったのだろうか。後の所有者の名前からシェッツラー宮殿と名付けられたこのロココ様式の宮殿は、今もマキシミリアン通りに残っている。

1769年、結婚式の直前と思われるマリー・アントワネット

ベルトの死後、宮殿はアンスバッハの企業家であった義理の息子ヨハン・ローレンツ・フォン・シェッツラー(Johann Lorenz Baron von Schaezler)の所有となり、その後、子孫がアウグスブルク市に寄付することとなった。決して売却せず、文化目的の為に使用するということが寄付の条件であったという。

グレゴリオ・グリエルミ(Gregorio Guglielmi)による《祝祭の間》の天井画

シェッツラー宮殿は幸いにも第二次世界大戦でも大きな損傷を受けなかった為、今でもほぼオリジナルの状態が保たれており、その為、バイエルン地方のロココ芸術に関する重要な資料ともなっている。《祝祭の間》以外にも、宮殿内には、パウロ・ベロネーゼ、ジョバンニ・バティスタ・ティエポロ、アントニウス・ファン・ダイク、ジェイコブ・ルイスダール、ルーカス・クラナッハ、ヨハン・ゲオルク・ベルクミュラーなどの作品を含む約40点の絵画が納められている。

また、非常に興味深いのは、ジョセフ・クライスト(Joseph Christ)による33点の作品だ。この作品は、ギリシア・ローマ神話の登場人物たちが動物や植物など様々なものに変身する《変身物語》(Metamorphoses)をテーマにしたものであり、それぞれの絵画は単一の色調で描かれている。

《アポロとダフネ》(Apollo und Daphne)
《ナルシスとエコー》(Narziss und Echo)
《アラクネとミネルバ》(Arachne und Minerva)

ジョセフ・クライストは、ウィーンのアカデミーに入学し、キャリアをスタートさせている。ロシア、主にサンクト・ペーターズブルクでも仕事をし画家としての成功を収めている。アウグスブルクでも多くの作品を残したが、シェッツラー宮殿の天井画の一部が残っているだけで、他のものは現存していない。

マリー・アントワネットの訪問に合わせて建てられたこの宮殿も、今では博物館となっている。2020年、シェッツラー宮殿はオープン250年を迎えた。今でも「アウグスブルクの中心にあるロココの真珠」として、250年前に訪れた悲劇のプリンセスの記憶を伝えている。

参考:

J. Schreiber, La dernière Reine de France, “Der Brautzug nach Frankreich”, https://marieantoinette.hpage.com/1-3-brautzug.html

Br.de, “Augsburger Schaezlerpalais wird 250 Jahre alt”, 28.04.2020, https://www.br.de/nachrichten/kultur/augsburger-schaezlerpalais-wird-250-jahre-alt,RxSsWoE

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