【ドイツの歴史】ロルシュの盲目の僧侶 | バイエルン公タッシロ3世

ロルシュ

タッシロ3世の没落

8世紀、バイエルンを領していた公爵、タッシロ 3 世の治世は 788 年に終わりを告げた。この年の夏、タッシロはいとこであるフランク王国の国王カール大帝が開催した帝国議会に出席するためにラインランド=プファルツ州にあるインゲルハイム (Ingelheim) へと赴いた。 この会議では、タッシロ公爵に対する裁判が行われ、公は自身の不貞のために追放され、修道院に投獄された公爵に対する裁判が行われた。 それは見せかけの裁判であり、判決は最初から決まっていた。 この裁判の目的は、バイエルンを治めるタッシロの支配を終わらせることであった。 これにより、カール大帝はバイエルンを自分の帝国に組み込む道を開いたのだ。

カール大帝とタッシロ3世について伝わる伝説

カール大帝は、いとこであるバイエルンの公爵であるタッシロ3世(Thassilo)と口論を行った。タッシロはカール大帝の敵対者を扇動するという大きな過ちを犯したため、カール大帝はその行為に対して復讐を行い、タッシロに厳しい罰を課した。

カールは、炎の中で赤く熱せられた盾をタッシロの目に近づけ、タッシロの目が光を失うまで、その光を凝視させたのだった。盲目となったタッシロの長い髪は玉座の前で切り落とされ、頭髪も剃られた。 その後、皇帝の命令により、タッシロは修道院で僧侶になり、苦行を行い一生を祈りに捧げることを強いられた。

この出来事から何年もの歳月が経ち、カール大帝はたまたまローレスハイム、つまり現在のロルシュ修道院にやって来た。大帝はタッシロのことなどとっくに忘れていたので、夜はここに宿を取ろうと考えた。すると、回廊をふらふらと歩く修道士の姿があった。彼は盲目のようだったが、そばには光を放つ神の使者がいて、盲目の修道士を導いていた。皇帝は老人の顔立ちに見覚えがあるように思えたが、名前を思い出すことはできなかった。僧侶は祭壇で祈りを捧げると、神の使者と共にその場を後にした。翌日、皇帝はロルシュ修道院の修道院長を呼び出し、その夜、神の使いに付き添われた盲目の僧侶の後を付けた。そして昨日と同じように祈りを捧げた盲目の修道士に向かって声をかけた。すると盲目の男は皇帝の足元にひれ伏し、こう言った。

「以前、私はタッシロと呼ばれておりました。私は何度もあなた様を欺くという過ちを犯してしまいましたので、こうして毎日祈りを捧げ、永遠に悔い改めるつもりでおります。」

それを聞いたカール大帝は、跪いいていた老修道士を床から起こし、「おおタッシロよ。あなたはすでに十分にその罪を償いった。あなたが犯した罪は許されるであろう。」と言った。その言葉を聞いた盲目の老人は皇帝の手に口づけをすると地面に倒れ込み、その場で天に召されたのだった。タッシロ公の遺灰はロルシュ修道院に保存されている。

タッシロ3世(Source:de.wikipedia.org)

伝説の時代背景と解説

788 年まで、タッシロ3世はバイエルンで完全な自治権を持って統治を行っていた。この時代、バイエルンは正式にはフランク帝国に属していた。タッシロ3世はバイエルンの教会に対する主権を行使し、新しい修道院を設立してキリスト教を促進し、近隣のカランタン(Karantanen)を征服して伝道させることで信仰の普及に貢献していた。タッシロはまた、近隣勢力との良好な関係を維持した。タッシロの妻であるリウトビルク (Liutbirg) は、ランゴバルド王デジデリウス (Desiderius) とベネベント(Benevent)公爵であったアリキス (Arichis) の娘であった。

タッシロ3世の父方のいとこであるヒルデガルト (Hildegard) は、771 年にカール大帝と結婚していたため、公爵とフランクの国王との関係は良好であった。母親のヒルトルート(Hiltrud)がカールの叔母だったため、タッシロとカールの関係も密接であった。タッシロは、772 年に教皇に息子と将来の相続人テオド (Theodo) に洗礼を授けさせた。これにより、キリスト教世界の最高権威が、タッシロを王位に近い公爵として認めたことになった。

しかし、カール大帝は 774 年からロンバルディア王国の王でもあり、北イタリアと中部イタリアを支配していたため、教皇は政治的にカール大帝に依存していた。カール大帝が 781 年に 2 回目のローマ訪問を行ったとき、カール大帝はもうすでに失われていたといわれるタッシロのフランク王に対する忠誠を再度誓わせるために、教皇ハドリアヌス (Hadrian) にバイエルンに大使として赴くよう促した。しかし、バイエルン公爵は従兄弟であるカール大帝と直接交渉するように要求し、教皇を人質にすることにも成功した。その後、タッシロはヴォルムスへと出向き、カール大帝に忠誠を誓うことで、どうやらバイエルンにおける自治を維持することができた。

ヒルデガルト女王が 783 年に亡くなったことで、従兄弟同士である2人の関係は急速に悪化した。わずか1年後、最初の軍事衝突がアルプス地方で勃発。カール大帝が 787 年に再びローマへと移動した時、タッシロは教皇に仲介を依頼し、アルン・フォン・ザルツブルク司教 (Arn von Salzburg) とアボット ハンリッヒ・フォン・モンゼー (Hunrich von Mondsee) をテヴェレ川へと派遣した。しかし、カールは、おそらくアルン司教とハンリッヒには権限がないことを知っていたうえで、あえて即時の和平協定を要求した。教皇ハドリアヌスは和平協定の拒否をタッシロ側の不誠実さの表れだと非難し、カトリック教会から破門すると脅したうえで、カール大帝に屈服するよう要求した。タッシロが拒否した場合、カール大帝との武力衝突の結果に対する責任は当然タッシロ自身に降りかかってくるのである。

ローマから戻った後、カールは 787 年に軍隊を率いてバイエルンに進軍した。タッシロはアウグスブルク近くのレヒフェルトでカールに服従し、忠誠の誓いを立て、自身の公国をカールに差し出すとともに、人質として12 名の貴族と息子のテオド(Theodo)を差し出したのだった。フランク王国とのこの密接なつながりのしるしとして、タッシロは1年後にインゲルハイムで開催された帝国会議に参加した。

カールがインゲルハイムの王宮で開催した帝国議会では、タッシロも他の家臣同様、王の支持に従っていた。

バイエルン人のなかでも信頼のおける筋は、タッシロがカールとの約束を守らなかったと言い始めた。

787年にタッシロが降伏し、息子を人質として、カールへ忠義の誓いを立てたにも関わらず、妻のリュートビルグ(Liutbirg)に扇動にされ、カールとの約束を違えたと証言したのだ。

タッシロは後に、中央アジアから欧州に渡って活動していたアバール人のもとへ使者を送り、彼らと結託して、カールの家臣を強引に引きずり出し、殺害を試みたことを白状することになった。彼らがカールへの忠誠を捨て、自身に新たに忠誠を誓うよう迫ったのだった。彼は自分が誓ったことを守ったフランク人、バイエルン人、ロンバルド人、ザクセン人などあらゆる地域から集まった人々が、タッシロの過去の悪行を非難し始めたのだ。彼らはかつてタッシロが、カール大帝の父であったピピン王も見捨てたことを思い出したのだ。議会への参加者はタッシロに死刑を求刑した。満場一致でタッシロに死刑判決が下されるところであったが、カール大帝はタッシロが従弟であるという理由で、タッシロに慈悲を与えた。そして、カールがタッシロに彼の望みを訊いたところ、頭を丸め、修道院に入り、自身のこれまでの罪を悔い改めたいと言ったので、カールはその願いを聞き入れたのだった。タッシロの息子のテオドも剃髪されて修道院に入れられ、カール王への抵抗を辞めなかったバイエルン人たちも帝国を追放されることとなった。

しかし、以上の話も、カール大帝側の年代記者が書いた内容であり、その真偽のほどはわからない。ただ、カール大帝自身ではなく、カール大帝に忠誠を誓う「信頼できるバイエルン人たち」が、自身の領主を告発し、死刑まで宣告した。カール大帝はその裁判自体に主体的なアクションは起こさず、判決に対して慈悲を見せ、最後はタッシロの願いに従って修道院に入ることを許した、と寛大な王のイメージを残している。

この時のカール大帝の言動は、「慈悲深い穏やかな君主」、その理想に従って描写されている。

議会に集まったフランク人、バイエルン人、ロンバルド人、ザクセン人が裁判官の役割を引き受け、25 年前の事件を持ち出し、タッシロをして「裏切りの常習犯」としてのレッテルを張ったのである。確かにタッシロは、カール大帝の父、ピピンがフランスのアキテーヌと戦闘中に戦線を離脱したことがあった。ただし、この事件の発生した763年には、ザクセン人もロンバルド人もフランク王国に属しておらず、議会で貴族たちがタッシロを非難する理由にはあたらない。彼らが、「タッシロの悪行を思い出した」というのはおかしな話なのである。仮にタッシロのピピン王に対する裏切りが本当であったとしても、これまではカールもタッシロにこの出来事について非難しておらず、二人の関係性になんの影響も与えていなかったのである。カール大帝はタッシロに忠誠を誓うように迫ったが、ピピン王時代の戦線離脱を批判したことは一度もなかった。つまり、この帝国議会の席で、本当にこの告発が行われたのであれば、最初から結論ありきで、タッシロを裁くための口実として使われたと考えられる。

参考:

sagen.at, “THASSILO IN LORSCH“, https://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/hessen/thassiloinlorsch.html

“Sturz Herzog Tassilos”, https://www.historisches-lexikon-bayerns.de/Lexikon/Sturz_Herzog_Tassilos

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