アウクスブルクとハプスブルク家のマキシミリアン
アルプスを源流とするレヒ川が、この町の東側をゆったりと流れてゆく。市内にはレヒ川から引かれた運河網が張り巡らされており、水の都のような景観を形づくっている。町の西側にはヴェルタハ川(Wertach)が流れ、これら二つの川が合流して、やがてドナウ川へと注いでいく。
「水の都」アウクスブルク — 朝の柔らかな光の中、目抜き通りを町の中心部に向かって歩いていくと、やがて真っ白に輝く、壮麗な市庁舎が姿を現す。
アウクスブルクの旧市街は、かつて帝国都市として栄えた記憶をそのまま留めるように、静かな威厳を湛えている。噴水の水音、行き交う人々のざわめき、そして遠くから聞こえてくる鐘の音――それらが重なり合い、この街が単なるロマンチック街道の観光地ではなく、重厚な歴史の層の上に築かれていることを感じさせる。
市庁舎前からまっすぐに延びる通りは、北の大聖堂(Augsburger Dom)と南のウルリッヒ・アフラ教会を結ぶ、街の背骨とも言える存在だ。レストランやバーが軒を連ね、夏になればテラス席は市民たちで埋まり、夜遅くまで賑わいが続く。この通りの名は、かつてこの都市と深く結びついていた一人の皇帝に由来する――マキシミリアン通り(Maximillian straße)である。

その名の主、マクシミリアン1世は、神聖ローマ帝国皇帝として君臨しながら、ボヘミアやハンガリーの王位をも手中に収めた人物であった。だが広大な領土を維持するには莫大な資金が必要であり、彼は常に財政難に悩まされていた。そのため、アウクスブルクの富豪フッガー家をはじめとする豪商たちは、彼にとって欠かせない同盟相手となる。結果として、彼はこの都市に17回も滞在し、合計で2年以上を過ごしたという。ライバルであったフランス王フランソワ1世が、彼を「アウグスブルク市長」と揶揄したのも無理はなかった。

1459年、ウィーナーノイシュタット(Wiener Neustadt)の城で生まれたマクシミリアンは、決して恵まれた時代に育ったわけではなかった。父であるフリードリヒ3世は「神聖ローマ帝国の大愚図」と嘲られ、帝国の権威は大きく揺らいでいた。幼いマクシミリアン自身も、叔父アルブレヒトによる包囲を経験するなど、困難な環境の中で成長していく。
こうした経験は、彼の性格に深い影を落とした。若き日の苦境を忘れぬため、彼は自らの棺を常に持ち歩いたとも伝えられている。死の影とともに生きるその姿勢は、彼の生涯を象徴するものだった。
やがて彼は1486年にローマ王・ドイツ王に選出され、1508年には神聖ローマ皇帝の称号を受け入れる。そしてブルゴーニュ、ミラノ、スペイン、さらにはハンガリーやボヘミアへと、ハプスブルク家の勢力を拡大していった。
その躍進の大きな転機となったのが、1477年の結婚である。ブルゴーニュ公国の相続人であるマリー・ド・ブルゴーニュ(Maria von Burgund)との結婚は、フランスとの対立を招く危険な賭けでもあった。しかしこの結婚によって、彼はヨーロッパでも屈指の富と領土を手に入れることになる。二人の関係は当時としては珍しい恋愛結婚であったが、1482年、マリーは狩猟事故によって早逝してしまう。
その後もマクシミリアンは戦争と結婚を巧みに使い分けながら、家の勢力拡大を図っていく。とりわけ結婚政策は彼の代名詞ともなり、「戦争は強国にさせておけ、汝、幸あるオーストリアよ、結婚せよ」という言葉に象徴されるように、ハプスブルク家の未来を決定づける戦略となった。

文化の面でも彼は特筆すべき存在であった。ウィリバルド・ピルクハイマー(Willibald Pirckheimer)やコンラート・ポイティンガー(Konrad Peutinger)といった人文主義者を顧問とし、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)ら芸術家を支援した。
さらに自らも《トイアーダンク(Theuerdank)》を著し、その中で騎士としての理想像を自らに重ねている。これはブルゴーニュ的騎士道精神を洗練させたものであり、同時に巧妙な自己プロデュースでもあった。
「最後の騎士」という呼び名も、実は彼自身によるものだとされる。そしてこの呼称が後世まで定着した背景には、活版印刷や木版画といった当時最先端のメディアを用いて、自らのイメージを広めた点があった。
だがその一方で、彼は決して時代遅れの騎士ではなかった。軍事面では、火砲を重視し、ランツクネヒトと呼ばれる軽装の傭兵部隊を軍の中核に据えた。これは従来の騎士団中心の戦い方に終止符を打つものであり、彼がいかに現実的な軍事感覚を持っていたかを示している。騎士道の象徴でありながら、同時に近代的な統治者でもあったのだ。

しかし、強力な軍隊の編成には金がかかる。常に財政的な不安に悩まされていたマクシミリアン1世にとって、結婚はしばしば政治だけでなく、現実的な資金調達の手段でもあった。
1494年、彼はミラノの名門スフォルツァ家の娘、ビアンカ・マリア・スフォルツァ(Bianca Maria Sforza)と結婚する。貴賤結婚と言われながらも、この縁談にためらいはなかった。もたらされる持参金は、実に40万ゴールド・ドゥカートという莫大な額にのぼったからである。

(Source:welt.de)
しかし、その結婚生活は幸福とは程遠いものだった。スフォルツァ家から迎えられた花嫁は夫に顧みられることなく、インスブルックで孤独のうちに生涯を終えたと伝えられている。
一方で、政略結婚が必ずしも成功するわけではなかった。ブルターニュの若き継承者アンとの婚姻は、フランス王シャルル8世の強い反発を招く。彼はこれを挑発とみなし、1491年には武力を背景にアンを説得し、自らの妃として迎え入れることに成功した。この一件は、マクシミリアンにとって大きな屈辱となり、彼の心に深く刻まれることとなる。
それでも彼は、自らの家の伝統ともいえる結婚政策をさらに推し進めていった。1495年、フランスがナポリ王国へ侵攻すると、彼は情勢を見極め、アラゴン王フェルナンド2世との間に二重結婚を成立させる。さらに息子フィリップをフェルディナンドの娘ファナと結婚させ、将来の巨大な遺産相続への布石を打った。
フィリップは短い結婚生活ののちに早世するが、その子であるカール5世は、後に「太陽の沈まぬ帝国」を継承することになる。こうしてマクシミリアンの結婚政策は、単なる外交手段を超え、ヨーロッパの勢力図そのものを塗り替える力を持つに至ったのである。
さらに彼は、帝国そのものの改革にも力を注いだ。一般税「ゲマイナー・プフェニヒ」(Gemeiner Pfennig)の導入や、私闘を抑制するための帝国最高法院の設置など、制度の整備にも積極的であった。
また、ローマでの戴冠を目指した際、ヴェネツィアによって進路を阻まれた彼は、1508年にトレントで「ローマ皇帝」の称号を受け入れるという決断を下す。これ以降、彼の後継者の多くはローマ教皇による正式な戴冠を受けることなく、皇帝を名乗るようになった。
マクシミリアンによる最大の功績は、1806年まで神聖ローマ帝国位がハプスブルク家によってほぼ独占的に継承されたこと。もう1つは、彼の信条でもある結婚政策をハプスブルク家の領土拡大政策の中心に据えたことであろう。
晩年、彼はオーバーエスターライヒ州ヴェルスの城で衰弱した姿を見せる。かつて「最も偉大な騎士」と称えられた男も、もはや馬に乗ることはできず、輿に乗って移動するしかなかったという。

それでも彼が残したものは大きい。神聖ローマ帝国の皇帝位はその後長くハプスブルク家に継承され、彼の築いた結婚政策はヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えた。
そして死後、彼は生前持ち歩いていた棺に納められ、出生の地であるウィーナーノイシュタットの聖ゲオルク教会に葬られた。生涯を通じて死を見つめ続けた皇帝は、最後にはその象徴の中で静かに眠りについたのである。

参考:
welt.de, “Der Frauenheld, der Habsburg zur Weltmacht führte”, Ulrich Weinzierl, 23.09.2012, https://www.welt.de/kultur/history/article109380035/Der-Frauenheld-der-Habsburg-zur-Weltmacht-fuehrte.html
welt.de, “Man schnitt ihm die Haare ab, riss die Zähne heraus”, Florian Stark, 12.01.2019, https://www.welt.de/geschichte/article186929264/Maximilian-I-Mit-Sex-begruendete-er-die-Habsburger-Weltmacht.html




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