最後の騎士 |マキシミリアン1世

アウグスブルク

【ドイツの歴史】アウグスブルクとハプスブルク家のマキシミリアン

アウグスブルクの市庁舎前の通りは、北の大聖堂(Augsburger Dom)と南のウルリッヒ・アフラ教会を結んでいる市の目抜き通りだ。この通り沿いには、レストランやバーが立ち並び、夏には大勢のアウグスブルク市民がテラス席に座り、夜遅くまで飲食を楽しんでいる。この通りは、町にゆかりの深い、神聖ローマ帝国皇帝の名前から、マキシミリアン通り(Maximillian straße)と名付けられた。

マキシミリアン通りのカフェ (Source:projekt-augsburg-city.de)

帝位在位中、マキシミリアンは、ボヘミアとハンガリー王位も手に入れており、広大な支配地域をまとめる為の資金を得るため、多額の借入金があった。そういった事情から、マクシミリアンの最も重要な同盟相手は、アウグスブルクの富豪フッガー家をはじめとする豪商であった。そのため、マキシミリアンは帝国都市アウグスブルクに17回も滞在し、合計滞在期間は2年211日にも上った。マキシミリアンのライバルであったフランスのフランソワ1世は、マキシミリアンを「アウグスブルク市長」と呼んで嘲笑したのだった。

アウグスブルクで制作されたマキシミリアンの甲冑(Source:welt.de)

1459年、ハプスブルク家マクシミリアンがウィーナーノイシュタット(Wiener Neustadt)の城で生まれたとき、ローマ=ドイツ帝国はその歴史の中でどん底にあえいでいたような状況であった。マキシミリアンの父フリードリヒ3世は、「神聖ローマ帝国の大愚図」(Heiligen Römischen Reiches Erzschlafmütze)と嘲笑され、彼が帝国位に就いている間、自家の領土内で身を固めていた。彼は自身の王権と帝国を軍事的に防衛・拡張する十分な手段を持っていなかった。しかしフリードリヒは息子に、戦わずして強力な帝国を築く方法を示したのだった。

貧困の時代と、それに続く、故郷から遠く離れた城での逃避生活は、生涯を通じてマクシミリアンの人間性を形作った。彼が3歳のとき、マキシミリアンはウィーンノイシュタットの城で叔父のアルブレヒトによる屈辱的な包囲に耐えなければならなかった。当時、マクシミリアンの父親は兄アルブレヒトにニーダーエスターライヒ州の支配権を何年にもわたり握られており、ウィーナーノイシュタットでの生活は奪われたのだった。

この苦境を忘れないために、マクシミリアンは常に自身の棺を持ち歩いた言われている。死はいつでも彼に子供の頃の苦境の時代を思い起こさせるのだった。1486年に彼はローマ王とドイツ王に選出され、1508年には神聖ローマ皇帝の称号を受け入れ、ブルゴーニュ、ミラノ、スペイン、ハンガリーとボヘミアへとハプスブルク家の権力を拡大していった。マクシミリアン1世はこうしてハプスブルク家の大国としての基礎を築いていったのだった。

しかし、皇帝もまた死から逃れることはできなかった。 かつては、あらゆる騎士の中で最も偉大な存在と称賛を受けたマキシミリアンも、1518年12月にオーバーエスターライヒ州ヴェルスの城に到着したときには、もはや馬に乗ることができず、輿に乗って移動せざるを得なかった。頬は沈ずみ、淡黄色の顔、歯のない口がわずかに開いている様子だったという。マキシミリアンは、 「人生に記憶がない人は死後も記憶がなく、同じ人にとっては鐘の音で忘れられてしまう」というのがモットーのひとつだった。 マキシミリアンは、自身の祖先をノアとトロイの木馬の英雄ヘクトールにまでさかのぼると考えていた。

1519年に描かれた死後のマキシミリアン (Source:welt.de)

また、マキシミリアは文学・芸術の分野にも明るく、ヒューマニストのウィリバルド・ピルクハイマー(Willibald Pirckheimer)とコンラート・ポイティンガー(Konrad Peutinger)を顧問に従え、ハインリヒ・イサク(Heinrich Isaac)やルートヴィヒ・ゼンフル(Ludwig Senfl)などの音楽家を取り込み、天才芸術家アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)、アルブレヒト・アルトドルファー(Albrecht Altdorfer)、ベルンハルト・ストリゲル(Bernhard Strigel)、ハンス・ブルクマイアー(Hans Burgkmair)へも支援を惜しまなかった。

無能で重要な決定を先延ばしにするイメージの父親とは異なり、マクシミリアンは戦場でも政治の場でも、果敢にリスクを取っていった。 1477年、急逝したシャルル突進公(Karl des Kühnen)の相続人である、18歳のマリー・ド・ブルゴーニュ(Maria von Burgund)と結婚の申し出を受けたとき、この結婚がフランスと致命的な敵対関係に陥ることも十分に理解していた。

マリー・ド・ブルゴーニュ(Source:welt.de)

ヨーロッパで最も裕福な国の跡取りとの結婚で、マクシミリアン自身は自身の才覚と政治的地位のみしか持ちえなかったが、男系が途絶えたブルゴーニュ公国のマリアにとってはそれで十分だった。1482年の狩猟事故でマリアが早すぎる死を迎えるまで、ふたりは当時ではまだ珍しい恋愛結婚の関係にあった。 1479年のギネガテの戦い(Schlacht bei Guinegate)で、マクシミリアンは強力なフランス軍と対峙したが、結果、ブルゴーニュ継承戦争によってオランダの公爵を引き継いだ(ブルゴーニュ自体はフランスによって占領されていた)。

この文化的、経済的に恵まれた都市で、マクシミリアンはヨーロッパの権力闘争に参加していくのである。戦場では、勝利を収めることもあれば、敗北を経験することもあった。しかし、マキシミリアンも父親の例に習い、結婚政策でますます自家を発展させていった。マキシミリアンはあまたの愛人と少なくとも14人の非嫡出子をもうけた(一説には30人とも)。

常に財政的な不安を抱えていたマクシミリアンは、1494年にミラノの悪名高い傭兵隊長ガレアッツォ・マリアス・フォルツァ公爵(Galeazzo Maria Sforza)の娘と結婚することに躊躇することはなかった。なぜなら、この結婚は40万ゴールド・ドゥカートもの持参金をマキシミリアンにもたらしたからだった。しかし、スフォルツァ家からの花嫁は夫に完全に無視され、インスブルックでひとり寂しくこの世を去ったという。

ビアンカ・マリア・スフォルツァ
(Source:welt.de)

マキシミリアンとブルターニュの跡取りであった14歳のアンとの結婚は成功しなかった。フランスのシャルル8世は、この結婚をフランスに対する挑発と見なしたのだった。 これは1491年の武力闘争へと発展し、シャルル8世ははアンにマキシミリアンとの結婚を思いとどまらせ、自身と結婚させることに成功したのだった。煮え湯を飲まされたマクシミリアンは、この屈辱を忘れなかったという。

それでマキシミリアンは自家のお家芸でもある結婚政策に一層注力した。 1495年、フランス王がナポリ王国を征服したとき、マクシミリアンは息子のフアンと娘のマルガレーテを、苦境に立たされていたアラゴン王国のフェルナンド2世と二重結婚させることに成功した。莫大な遺産相続の可能性を高めるため、マクシミリアンは息子のフィリップをフェルディナンドの娘、ファナと結婚させた。フィリップは数か月の結婚生活を送った後に早世したのだが、彼らの息子であるカール5世は、後に太陽が沈まぬ帝国を継承することになるのだった。その後も同様の結婚政策で、マクシミリアンはボヘミアとハンガリー王位も手中に収めることになるのだった。

マクシミリアンは家来や味方に対して、自身を騎士として投影させることを好んだ。マキシミリアンは、自身でも冒険叙事詩、《トイアーダンク》(Theuerdank)を著述しており、本書では、騎士同士の馬上試合のトーナメントを行う戦士に自身を投影している。これは、ブルゴーニュの騎士道精神の様式化であり、マキシミリアンによる自己プロデュースであったといえる。マキシミリアンの愛称として定着している「最後の騎士」は、彼が自分自身で名付けたものだったという。この呼称が今日まで呼ばれているのは、この時代の最も近代的なメディアである活版印刷、木版画をプロパガンダの為に使用した最初の支配者であったからだ。騎士という自己イメージを持つ一方、軍事面での技術的革新や、政治的な駆け引きについては、柔軟で鋭い感覚を持ち合わせていた。マキシミリアンは、最新の大砲によって援護された、ランツクネヒトと呼ばれる軽装備の傭兵部隊を軍隊の中核に据え、これまでの主力であった騎士団に終止符を打ったのだった。

マキシミリアンが創設し、重用したランツクネヒト(Source:welt.de)

彼は帝国制度の改革にも多大なエネルギーを費やした。マクシミリアンは一般税「ゲマイナー・プフェニヒ」(Gemeiner Pfennig)という帝国税を導入。また当時頻発していた私闘を制限するため、裁判機能を強化する目的で帝国最高法院を創設させたのだった。また、マキシミリアンがローマで皇帝から戴冠を受ける際には、ヴェネツィアがその進路を妨害したことから、道中であるトレントで1508年に「ローマ皇帝」の称号を受け入たのだった。それ以来、マキシミリアンの後継者のほぼ全員が、ローマ教皇による戴冠儀式を放棄している。

マクシミリアンによる最大の功績は、1806年まで神聖ローマ帝国位がハプスブルク家によってほぼ独占的に継承されたことであろう。もう1つは、彼の信条でもある結婚政策をハプスブルク家の領土拡大政策の中心に据えたことであろう。「戦争は強国にさせておけ、汝、幸あるオーストリアよ、結婚せよ。 戦争が他家に与えるものを、愛が汝に与えるであろう。」

マキシミリアン帝が眠る聖ゲオルク教会のあるウィーナーノイシュタットの城(Source:Wikipedia.de)

若き日の苦境を忘れないため、戦場にも常に運ばせたといわれる自身の棺。実際、マキシミリアンは死後、この棺に納められ、ウィーナーノイシュタットの聖ゲオルク教会に埋葬されたのだった。

参考:

welt.de, “Der Frauenheld, der Habsburg zur Weltmacht führte”, Ulrich Weinzierl, 23.09.2012, https://www.welt.de/kultur/history/article109380035/Der-Frauenheld-der-Habsburg-zur-Weltmacht-fuehrte.html

welt.de, “Man schnitt ihm die Haare ab, riss die Zähne heraus”, Florian Stark, 12.01.2019, https://www.welt.de/geschichte/article186929264/Maximilian-I-Mit-Sex-begruendete-er-die-Habsburger-Weltmacht.html

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