【ドイツの歴史】ライオンと呼ばれた司教 |クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン

ミュンスター

ナチスに屈しなかったミュンスターの司教

ミュンスター大聖堂の司教にクレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン(Clemens August Graf von Galen)という人物がいた。かつてミュンスターを統治したガ-レン家の末裔であったという。スイスで哲学を学ぶ中で聖職者を志すようになり、インスブルックとミュンスターで神学を学んだ後、司祭となった。

フォン・ガ-レンがミュンスター大聖堂の司教になった1933年、ナチスドイツは優生学思想に基づいた安楽死政策を進めようとしていた。今日、《T4計画》として知られる障害者安楽死計画である。ナチスによるホロコーストはユダヤ人に対してだけではなく、障害者もその対象とされたことは周知の事実であるが、国内に設けられた6か所の施設において計画的に虐殺が行われた。

バスで移送される障害者 (Source: evangelisch.de)

公式記録に残っているだけでも7万人、実際にはその2倍から3倍もの人々が毒ガスによって殺害されたと見られている。このT4作戦に従事していたナチス職員が、毒ガスによる殺害や遺体の焼却などのノウハウをホロコーストに応用したと言われている。

ナチ党指導者官房長フィリップ・ボウラー
親衛隊軍医 カール・ブラント

安楽死政策の中心人物となったナチ党指導者官房長のフィリップ・ボウラーと親衛隊軍医のカール・ブラント

この障害者安楽死計画に対して真っ向から反対を唱えたのが、ミュンスター大聖堂の司教、フォン・ガ-レンだった。1937年、フォン・ガ-レンは4万人の信徒を前にナチスの文化政策を批判する説教を行っている。誰もがナチスの暴力の前に口をつぐんでいた時代、その剛直な性格ゆえに「ミュンスターのライオン」と呼ばれたフォン・ガ-レンはナチスに対して公然と批判の声をあげたのだ。ナチス党内では強硬派がフォン・ガ-レンを死刑にするべきだと主張したが、ミュンスター市民への影響を考慮したゲッベルスは慎重論を唱え、ヒトラーもそれに従ったという。

フォン・ガ-レン司教

フォン・ガ-レンには秘密警察から逮捕予告や脅迫が続いたが、最後まで自分の主張を曲げることはなかった。戦争が終わった1946年、その活動はローマカトリック教会に認められ、フォン・ガ-レンはローマにて枢機卿に叙任された。ナチスによる度重なる脅迫にも屈せず、自身の信念を貫いたフォン・ガ-レンは、叙任後に病に倒れ、73年の生涯に幕を閉じている。

死後、フォン・ガ-レンの功績を讃え、ミュンスター大聖堂内には司教の墓碑が、大聖堂前の広場には、司教の銅像が建てられた。1987年、教皇ヨハネ・パウロ2世はミュンスター大聖堂を訪れた。教皇は「私が今日ミュンスターヘ来たのは、この墓に詣で、ここで祈るためである」と述べたとされる。

大聖堂広場に立つフォン・ガ-レン記念碑
大聖堂内にあるフォン・ガ-レンの墓碑

フォン・ガ-レンが、ミュンスターの司教に就任した頃、自らの信条として選んだ言葉が伝えられている。

– Nec laudibus nec timore –                                                                                                                                             「称賛を求めず、恐怖にたじろがず」                                                                                    

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