ヴェルフェン家唯一の皇帝

ブラウンシュヴァイク 

ブラウンシュヴァイクの中心に足を踏み入れると、まず視界が大きく開ける。建物が密集するのではなく、広場を軸に空間が構成され、その中央に重厚な建築が据えられているのがこの街の特徴だ。

とりわけブルク広場では、視線は自然と向かい合う二つの建物に導かれる。一方にはハインリッヒ獅子公が築いた城館ダンクヴァルデローデ、そしてその正面に、堂々としたロマネスク様式の聖ブラジイ大聖堂が立つ。大聖堂は1173年に建立された重厚なバシリカで、低く広がる外観と厚い石壁が、北ドイツ特有の質実さをそのまま形にしたような姿を見せている。

装飾で圧倒するのではなく、量感と構造で存在を主張するその姿は、遠くから眺めるよりも、むしろ広場に立ったときにこそ迫ってくる。建物は後退せず、ほとんど広場の縁に直接せり出すように配置されているため、塔や壁面がそのまま視界に立ち上がるのだ。

広場を離れて歩けば、街の表情はまた変わる。マグニ地区に入ると、木組みの家々が不規則に連なり、壁の傾きや窓の位置にわずかなズレが見える。そこには計画された都市というより、何世代にもわたって積み重ねられてきた生活の痕跡がある。商人の町として発展したこの街は、もともとオーカー川沿いの交易路に形成された集落から始まっており、その名残が路地の曲がり方や広場の配置に今も残っている。

こうした空間の重なりの中に立つと、この街が単なる歴史の舞台ではなく、「権力」と「商業」と「信仰」がせめぎ合いながら形作られてきた場所であることが、自然と感じられてくる。

この街に眠るのは、かつて神聖ローマ皇帝となったオットー4世の物語である。

ブラウンシュヴァイク大聖堂に立つ像は、ハインリッヒ獅子公の息子、神聖ローマ皇帝オットー4世を象徴している。ヴェルフェン家は長らくシュタウフェン家の影に隠れていたが、オットー4世は一族の夢を現実にした唯一の皇帝であった。

父ハインリッヒ3世とイングランドから来たマティルダの間に生まれたオットーは、イングランドの叔父リチャード獅子心王の宮廷で育ち、寵愛と騎士教育を受けた。

プランタジネット朝の宮廷は当時のヨーロッパで最も文化的に洗練された場の一つで、オットーはそこで武勇だけでなく、ミンネザングや宮廷詩も学んだ。

公爵家の三男として、オットーの将来は当初ほとんど期待されていなかった。父の遺産は長男ハインリッヒに集中し、オットーにはわずかハルデンスレーベンの小領地しか残されなかった。

しかし、運命は大きく彼を変える。

父ハインリッヒ3世が皇帝フリードリヒ・バルバロッサの寵愛を失い、領土を剥奪されてイングランドに亡命したのだ。オットーは叔父リチャードの庇護のもとで、英国王位継承の一角としてヨーク伯領を与えられ、フランスのポワトウ伯領でも戦功を重ね、経験と名声を積んでいった。

ローマ王、そして皇帝へ

1198年、オットーの運命の転換点が訪れる。ケルン大司教アドルフや少数の諸侯たちが彼を支持し、予期せずローマ王(ドイツ王)に選出されたのだ。しかし、同時期にはシュタウフェン家のフィリップ・フォン・シュヴァーベンも王に選出され、対立王の存在によって帝国は二分される。

オットーとシュタウフェン家の10年にわたる権力争いは、まさに中世ドイツの政治ドラマの頂点であった。

シュタウフェン家のフィリップ・フォン・シュヴァーベンが、大多数の諸侯の支持を受けて王に選出された瞬間、帝国の権力は一気にシュタウフェン家の手に渡り、オットー4世の勝利の望みはかすんだかに見えた。

しかし、帝国の舞台裏でうごめく陰謀の影の中、ほぼ手中に皇帝位を収めたフィリップは、冷酷な計略によって命を奪われる。バイエルン宮中伯オットー8世・フォン・ヴィッテルスバッハの手で、壮絶な最期を遂げることとなったのである。

フィリップの暗殺は、帝国全土を震撼させ、オットー4世に再び運命の扉を開かせることとなった。

フィリップが暗殺されたことでオットーは事実上皇帝として認められ、1209年には教皇インノケンティウス3世から正式に戴冠。ついに神聖ローマ皇帝の地位を手に入れる。

教皇との対立と破門

しかし、平穏は短かった。

オットーはイタリア政策にのめり込み、教皇領シチリアへの侵攻を敢行。

恩を仇で返した形となり、1211年には破門される。これにより帝国内での支持を失い、諸侯たちは離反を始め、フリードリッヒ2世が対立王として台頭した。

フランスはオットー4世の対立王であったシュタウフェン家のフィリップ・フォン・シュヴァーベンと同盟を組んでいたが、フィリップが暗殺された後は、フィリップの甥であるフリードリッヒ2世の皇帝就任を支持していた。

英国とヴェルフェン家による同盟に対し、フランスとシュタウフェン家による同盟という対立構造が出来上がっていた。

ブ₋ヴィーヌの戦い

オットーは叔父ジョン王の援助を受け、フランスのフィリップ2世との戦いに挑む。

1214年7月27日、フランス北部リール近郊の広大な平原、ブーヴィーヌの地で、運命を賭けた大軍勢が対峙した。オットー4世率いる帝国軍は、ブラバント公やリンブルフ公、ロレーヌ公に加え、ザクセンの諸侯たちも集結させ、壮観な戦列を形成していた。

対するフランス軍は、フィリップ2世を中心に鍛え抜かれた騎士団を揃え、戦場には鋼の閃光と馬蹄の轟音が鳴り響いた。

戦闘の火蓋が切られると、両軍は猛然とぶつかり合い、矢と槍、剣が飛び交う血沸き肉躍る死闘となった。オットーは計略を駆使し戦況を見極めようとしたが、フランス軍の堅固な防衛と反撃に次第に押されていく。戦場は煙と泥に覆われ、叫び声と馬の悲鳴が戦場全体に響き渡った。

ついに勝敗の行方は明らかになり、オットーは自身の退却を決意する。

戦闘中に一度落馬したが、すぐに別の馬に乗り換え、混乱する戦線を抜け出した。しかし、後に残された帝国軍は組織的に撤退することもできず、フランス軍に完全に制圧されてしまった。

双頭の鷲を掲げた帝国旗は奪われた。この帝国旗は、後日、フィリップ2世がフリードリッヒ2世に贈呈している。

勝利したフィリップを、同時代人は、ローマ皇帝の初代皇帝になぞらえ、「アウグストゥス」と呼んで称賛したという。

教皇が破門した皇帝に勝利したことにより、フィリップは神がフランスに勝利を与えたと思ったことだろう。

その後

敗北の結果、ライン川下流の諸侯はオットーを見限り、フリードリッヒ2世を支持。

オットーの敗戦により、同盟を結んでいた英国のジョンは、イングランドがフランスに持っていた土地を失っただけでなく、1215年にはマグナカルタへの署名を余儀なくされ、王権も大幅に制限されることになった。

その年の5月、ジョンはオットーに対する財政的な支援を停止した。

1215年7月25日、フリードリッヒ2世はアーヘン大聖堂で戴冠し、オットーの復権は完全に不可能となった。オットーは甥ハインリッヒへの帝位継承を願ったが、計画は頓挫。オットーの破門が解かれることはついになかった。

失意のオットーはザクセンに引きこもり、1218年5月、ブラウンシュヴァイク近郊のハルツブルクでその生涯を閉じる。葬儀にはわずかな貴族しか参列せず、栄光の日々は静かに風化していった。

聖ブラジイ大聖堂の荘厳な石廊には、父ハインリッヒ獅子公と最初の妻ベアトリクスの重厚な墓石が静かに並んでいる。

その前にひっそりと置かれた小さな記念碑が、かつて皇帝として栄華を極めたオットー4世の最後の安息の場を静かに告げている。

現在のブラウンシュヴァイクは、大聖堂の尖塔が街の屋根並みに鋭くそびえ、石畳の路地を行き交う人々や馬車の喧騒の中に、歴史の余韻を感じさせる。

かつてオットー4世が駆け抜け、権力と破滅を味わった街角には、彼の生涯の影が微かに漂う。旧市街の木造家屋の間を歩けば、かつての帝国の栄華と騎士の物語が、今も石壁や運河の水面に静かに映し出されているかのようだ。

ブラウンシュヴァイクは、その静かな街並みに、中世のドラマをそっと抱き続けている。

参考:

brauhnschweig.de, “Kaiser Otto IV.”, https://www.braunschweig.de/leben/stadtportraet/geschichte/welfengeschichte/kaiserotto.php

ndr.de, “Otto IV. – Einziger Welfe auf dem Kaiserthron”, Kathrin Weber, 09.11.2009, https://www.ndr.de/geschichte/chronologie/Otto-IV-Einziger-Welfe-auf-dem-Kaiserthron,kaiserkroenung100.html

welt.de, “Nach dieser Schlacht war das römisch-deutsche Reich zweitrangig”, Berthold Seewald, 12.01.2022, https://www.welt.de/geschichte/article180004378/Nach-der-Schlacht-von-Bouvines-war-das-roemisch-deutsche-Reich-zweitrangig.html

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