【ドイツの歴史】引き裂かれた公国

デュッセルドルフ

ユーリッヒ=クレーフェ公ヨハン・ヴィルヘルムは病床にあった。公は精神を病んでいた。彼は幻覚を見ては城に火をかけると言いながらデュッセルドル城を走り回った。彼の最初の妻、ヤコベ・フォン・バーデンは夫にはとっくに政治能力はないと見て自身で政治を行おうとしたが、政敵に投獄され、獄中で非業の死を遂げる。二人目の妻は夫の心の病を治せると強く信じていたが、その望みが叶うことはなかった。そんなヨハン・ヴィルヘルムは、1609年3月25日にデュッセルドルフ城で息を引き取った。嫡子はいなかった。こうしてユーリッヒ=クレーフェ=ベルク公国の男系継承者は途絶えたのだった。では、だれがこの広大な領土を継承するのか?この相続は欧州中の注目を集めた。

ヨハン・ヴィルヘルムには二人の姉がいた。長姉のマリー・エレオノーレは、プロイセン公アルブレヒト・フリードリッヒに嫁いでおり、二人にはアンナという娘がいた。このアンナはブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントと結婚していた。ヨハン・ヴィルヘルムの次姉であるアンナは、プァルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィッヒに嫁いでおり、後に同家を継ぐこととなるヴォルフガング・ヴィルヘルムという息子がいた。こうしてブランデンブルク選帝侯家とプァルツ=ノイブルク公家が、ヨハン・ヴィルヘルムの遺領であるユーリッヒ=クレーフェ=ベルク公国を巡って争うことになる。これが世に言う《ユーリッヒ=クレーフェ継承戦争》(Jülich-Klevische Erbfolgestreit)である。

その領土は、ユーリヒ、クレーフェ、ベルクのそれぞれの公国と、マークとラーヴェンスベルクの伯爵領で構成されていた。その領土の広大さ、戦略的重要性や、様々な宗教派閥が入り乱れるその環境によって、この土地は絶えずヨーロッパの大国の強い関心を集める存在であった。

ヨハン・ヴィルヘルムの死後、ヨハン・ジギスムンドと宮中伯フィリップ・ルートヴィヒがそれぞれライン河畔の土地の継承を主張し、フィリップ・ルートヴィヒは息子のヴォルフガング・ヴィルヘルムを派遣し、この地域の統治を担当させた。しかし、この領土の継承権を主張したのはこの二人だけではなかった。ヨハン・ヴィルヘルムと二人の姉、この3名の父親はヴィルヘルム5世である。ヴィルヘルム5世と言えば、ゲルダーン公国とズトフェン公国の領有をめぐって神聖ローマ皇帝カール5世と事を構えたほどのユーリッヒ=クレーフェ=ベルク家の傑物である。ヴィルヘルム5世は当初、フランスとの同盟を考え、ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚していたが、後にその結婚を無効とし、神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の娘であるマリア・フォン・エスターライヒと再婚していた。そのマリアとの間に生まれた子供が、ヨハン、マリ、マリアの3兄弟である。つまり、ユーリッヒ=クレーフェ=ベルク家にはハプスブルク家の血が流れている。

ハプスブルク家側はオーストリア大公レオポルト(現皇帝ルドルフの従弟にあたり、後の皇帝フェルディナント2世の息子)が皇帝ルドルフをけしかけ、ユーリッヒ要塞を占領、臨時政府を設立した。一方、ヨハン・ジギスムンドとヴォルフガング・ウィルヘルムは、フランス、イギリス、オランダからの支持を獲得した。皇帝勢力の介入に直面し、利害関係にあったヨハン・ジギスムンドとヴォルフガング・ウィルヘルムは、他家による介入を回避するためにも、1609年6月10日のドルトムント条約において、領土を共同統治することで合意した。

ヴォルフガング・ヴィルヘルムは、父親が熱心なルター派信者であったため、自身もルター派プロテスタントを信奉していた。しかし、カトリックであるヴィッテルスバッハ家のマグダレーネと結婚したことで、カトリックへの改宗を決意。1614年5月15日にデュッセルドルフの聖ランベルトゥス教会(St.Lambertus)でカトリックへの改宗を発表した。この改宗により、自身が所属していた政治・軍事同盟もプロテスタントの《ウニオン》(Union)からカトリックの《リーガ》(Liega)に切り替えることとなった。カトリックの盟主ともいえるヴィッテルスバッハ家との結婚、そして自身のカトリックへの改宗により、ヴォルフガング・ヴィルヘルムは、ユーリッヒ=クレーフェ継承戦争において自家であるプファルツ=ノイブルクによる継承の正当性を高めようとしたのだった。

一方のヨハン・ジギスムンドは、後のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒと、ブランデンブルク選帝侯妃キャサリンの長男として生まれた。祖父であった選帝侯ヨハン・ゲオルクの多大な影響を受け、ルター派の教育を受けて育った。しかし、帝国の西側、オランダ方面からカルヴァン派の波がブランデンブルクにも押し寄せた。ブランデンブルクのルター派聖職者は、カルヴァン派に抵抗したが、宮廷の支配階級や将校などがカルヴァン派に改宗。そういった流れの中で、1613年のクリスマス、ヨハン・ジギスムンドはベルリン大聖堂においてルター派からカルヴァン派へと改宗している。当時の政治的環境の変化や、選帝侯を取り巻く人々の影響が、ヨハン・ジギスムントの改宗に作用したとも言われる。

こうして、ヴォルフガング・ヴィルヘルムがカトリックに、ヨハン・ジギスムンドがカルヴァン派に改宗した後、共同で領土を統治するは非常に難しいことが明白となった。1613年、プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルムとブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムンドがデュッセルドルフ城で会い、この継承戦争について交渉を行った。この会議の途中、論争中に激高したヨハン・シギスムンドがヴォルフガング・ヴィルヘルムに平手打ちをくらわしている。ヴォルフガング・ヴィルヘルムはこれに激怒し、その場を退席。交渉は合意に至らなかった。しかし、それでも両者による紛争が長引けば他家を喜ばせるだけである。両者は新たな条約を結ぶことに合意した。

1614年11月12日のクサンテン条約で、両者は支配権の分割に合意した。ヨハン・ジギスムンドは、クレーフェ公国、マーク、ラーヴェンスベルク伯爵、ラーヴェンスベルク伯爵、ヴォルフガング・ヴィルヘルムはユーリッヒとベルクを統治することになった。ヴォルフガング・ヴィルヘルムは、ヨハン・シギスムンドの支配下にあるカトリック教徒に対する保護権を引き継ぎ、ヨハン・シギスムンドはしばしばヴォルフガング・ヴィルヘルムの支配下にあるプロテスタントを支配したが、こういった支配体制もうまくはいかず、度々紛争に発展した。しかし、いずれにせよ1609年から1614年まで5年間続いた《ユーリッヒ=クレーフェ継承戦争》は終結した。しかし、この戦争の影響でドイツ北西部やライン川の下流地域、そしてブランデンブルク選帝侯領は草刈り場となり荒廃した。1619年にはジギスムントが他界。1640年には息子のゲオルク・ヴィルヘルムも死去する。そして、ブランデンブルクには、後に《大選帝侯》と呼ばれることになるフリードリッヒ・ヴィルヘルムが登場するのである。

対するプァルツ=ノイブルク側は、この後に相続問題を契機に大きな戦争へと巻き込まれていく。ヴォルフガング・ヴィルヘルムと妻マグダレーネ・フォン・バイエルンの間に、フィリップ・ヴィルヘルムという跡継ぎが生まれる。このフィリップが後にプファルツ選帝侯位を継承した際、フランスのルイ14世が介入した騒動が、1688年から始まる《プァルツ継承戦争/アウグスブルク同盟戦争》である。

《ユーリッヒ=クレーフェ継承戦争》はスペインとオランダの戦争の延長線上であり、両者の対決が係争地であったユーリッヒ=クレーフェ=ベルクに持ち込まれたのである。その意味では、三十年戦争のひな型であったと見ることができる。ヴィルヘルム5世は支配するその領土の広大さから「富裕公」と呼ばれたが、公爵の領土は二人の相続人により引き裂かれ、数百年に渡りライン川下流地域を支配した広大な公爵領は永久に失われたのだった。

参考:

dorsten-transparent.de, “Kriege I: Dorsten war wegen der strategischen Lage in viele Kampfhandlungen verstrickt. Die Leidtragenden waren immer die Bewohner – 14. bis 17. Jahrhundert”, 14. Juli 2014, http://www.dorsten-transparent.de/2014/07/kriege-i-dorsten-war-wegen-der-strategischen-lage-in-viele-kampfhandlungen-verstrickt-die-leidtragenden-waren-immer-die-bewohner-14-bis-17-jahrhundert/

duesseldorf.de, “Der Jülich-Klevische Erbfolgekrieg 1609 – 1614”, https://www.duesseldorf.de/stadtarchiv/stadtgeschichte/aufsaetze/berg-genealogie/juelich-klevischer-erbfolgekrieg.html

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