1074年の蜂起

ケルン

ケルンは古くからカトリック教会の力が強いところであった。この時代のケルンを治めていたのは、アンノという司教であった。アンノ大司教はこの時代のほとんどの司教や大司教がそうであったように、司教領・大司教領の領主でもあった。教会の運営に留まらず、領主として領土の統治にも深く関与していた。法と憲法を制定し、税金を徴収し、市場や硬貨などの監督もその管轄下にあった。

アンノ2世(Source:wikipedia.de)

市民はその教会勢力に服従する立場であったが、11世紀頃からこの力関係が変化し始める。当時、ケルンの商人は大司教に仕える義務があったが、次第に大司教に抵抗を示すようになった。ケルンの商人はすでに財産を築いており、大司教の影響下から独立する気概が芽生え始めていたのだ。

特に若い世代の商人たちは大司教との対立を悪化させた。ますます多くの人々が商人の陣営に加わり、武器を手に入れた市民は大司教に対して激しい反乱を起こした。本格的な武装蜂起が起こる前、市民と大司教の間で散発的な紛争が発生した。しかし、ケルン大司教であるアンノは敵に回すには生易しい相手ではなかった。

ケルン大司教は単なる司教ではなく、皇帝を選ぶ権利を有する選帝侯のひとりである。帝国の中でも《イタリア大書記長》という要職を担っており、アンノは新しく選出されたローマ王に対してアーヘンで戴冠式を執り行うことができるという特権を持っていたのである。つまりアンノは当時、帝国で最も影響力のある人物の一人であった。権力の絶頂期にあったアンノは、カイザースヴェルトにおいて、まだ未成年であったハインリッヒ4世を誘拐するという暴挙に出ている。誘拐に成功したアンノは1062年ハインリッヒ4世の唯一の摂政となり、ハインリッヒ4世が成人するまでの間、帝国を実質的に支配していたのだ。

カイザースヴェルトの誘拐(Source:wikipedia.de)

アンノはこの頃、フルトゥアリア修道院(Kloster Fruttuaria)からクリュニー修道院改革のアイデアをケルンにも導入しようと試みているが、より厳格化された規則に対してケルン市民は明らかな拒否反応を示し、受け入れを拒絶した。ケルン大司教に対するケルン市民の不満は積もる一方であった。

さらにこの頃、ケルン商人は経済的な成功によりさらに自信を得て、独立の機運が高まっていた。裕福でエネルギッシュな商人たちは、もはや大司教に服従することを望んでいなかったのだ。市民と大司教との対立は激化していき、そして、1074年4月、ケルン大司教が商人の船を没収した時、ケルン市民はついに武器を手に取る。武装したケルン市民は積年の恨みを晴らすべく、司教宮殿と大聖堂を襲撃した。

年代記者のランペルト・フォン・ハースフェルド(Lampert von Hersfeld)は、ケルンの人々は明確な殺意をもって大司教と対峙したはずだと報告している。当時、それは珍しいことではなかった。たとえば、1088年にゴスラーの市民が蜂起した際には、ブルクハルト・フォン・ハルバーシュタット司教(Burchard von Halberstadt)を殺害していた。

大聖堂にいるところを襲撃されたアンノであったが、長さ16メートルの「アンノ・トンネル」を通り、従者とともにケルンの城壁から脱出することに成功した。ローマの城壁の一部とアンノ2世の脱出トンネルを備えたいわゆるこの「アンノ・トンネル」は、《猫の抜け道》(カッツェンプフォルテ:Katzenpforte)とも呼ばれ、今日でも大聖堂の下にある駐車場で目にすることができる。怒りが収まらない群衆は他の聖職者を大司教と間違えて殺害している。

 アンノ・トンネル (Source:wikipedia.de)

1074年の蜂起は、当初は大司教による商船を没収に対する反抗であったが、はるかに大きな側面を持っていた。大司教の行動に対して市民が団結したのである。ケルン市民は自分たちの利益のためなら領主に対して実力行使を行うことも厭わなくなったのだ。時を同じくしてフランスやイタリアでも最初のコミューンが出現していることからも、1074年のケルン蜂起は、11世紀と12世紀に欧州各地で起こった「都市の解放」という歴史的な流れのひとつとして捉えることができる。市民が積極的に都市の支配に参加し、政治的コミュニティを形成するという動きが加速していったのである。

イタリアでもこの過程において緊張と対立がなかったわけではない。たとえばミラノでは、1035年から37年までに起こったいわゆる(Valvassoren Aufsand)がコミューン出現の最初の火付け役と見なされている。その時、ミラノ人は彼らの都市の領主である大司教に対して同盟を築いている。ミラノ市民は大司教を追放し、それ以降、都市の支配を引き継いだのだった。ケルンの人々はこれを例として取り上げたに違いないとランペルト・フォン・ハースフェルドは主張している。

ケルンでの蜂起の直前にはヴォルムスでも蜂起があった。ヴォルムス市民は1073年に司教を街から追い出している。ヴォルムス司教たちが都市に対する支配を拡大・強化していたことが原因であった。彼らは市場、税関、裁判所を支配しており、強制労働さえ強いられたヴォルムスの農奴が司教に支払わなければならなかった税金は高かすぎた。1074年1月、ハインリヒ4世はヴォルムス市民にあらゆる帝国の義務から解放する文書を発行。その見返りとして、ヴォルムス市民はもはや領主としての司教に忠誠の誓いを立てる必要は無くなり、皇帝に直接忠誠を誓うこととなった。

ヴォルムスにおける成功とは大きく異なり、蜂起の後、ケルン市民が待望した自由は長くは続かなかった。ケルン市民の暴動に対してアンノは武力で応えた。アンノはすぐに軍隊を召集すると、わずか4日後にケルンへと戻った。反抗していたケルン市民はアンノの圧倒的な軍事的優位性に直面し、降伏を選ぶ以外になかった。怒りに震えるアンノがケルン市内へと入城するのをじっと見守る以外になかった。

アンノはすぐに敵対勢力に対して激しい制裁を行った。蜂起は鎮圧され、ケルン市民による自由獲得の運動は大幅な後退を余儀なくされる。しかしここでケルン市民にとっても思いがけないことが起こる。アンノが1075年12月4日にこの世を去ったのだ。

今日、ケルン大司教アンノ2世の遺骨は、ジークブルク(Siegburg)のミヒャエルスベルク(Michaelsberg)にある聖ミヒャエル修道院(Abtei St. Michael)の側礼拝堂の《アンノ霊廟》(Annoschrein)といわれる場所にある。霊廟はケルン大聖堂に三博士の霊廟も制作したニコラス・フォン・ヴェルドゥーン(Nikolaus von Verdun)によって作成された。

ジーグブルクのミヒャエルスベルク(Source:wikipedia.de)
アンノ霊廟 (Source:wikipedia.de)

アンノ大司教が死去したのちも、大司教と市民の間の争いは続く。そしてケルンの人々は、この先何十年もの間諦めることなく、自由を勝ち取るために戦い続けたのだった。1106年に、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、都市の拡張を行うようケルン市民に要請している。この皇帝からの要請の背後には、市民が相対的に力を付けていったことが上げられる。この時、市民はこれまで大司教が独占していた都市の領主としての権利を幾分かを自分たちの手に取り戻したのであった。しかし、大司教との対立は終わったわけではなかった。

この時代、ケルンで活躍していた人物にアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus)という人がいる。マグヌスはキリスト教の神学者であり、『神学大全』を著したトマス・アクィナスの師としても知られ、没後カトリック教会から列聖された人物だ。このマグヌスが緊張するケルン市民とケルン大司教コンラート・フォン・ホッホシュターデン(Konrad von Hochstaden)の間の仲裁を試みたのだった。この結果、1259年にケルン市民は都市としての主要な権利を手に入れることとなった。これは商業都市ケルンが一大貿易都市へと台頭するのにに大きく貢献した。

アルベルトゥス・マグヌス(Source:wikipedia.de)

13世紀から、ケルンの貴族や上流階級の市民は、ますます多くの富、権力、影響力を獲得していった。そして1288年には《ウォリンゲンの戦い》において、ケルン大司教とケルン市民が対決する。この戦いにおいてケルン市民側が勝利し、ケルン大司教はケルンを追放されボンに拠点を移したことから、ケルンの自由都市への発展は加速していく。そしてそれからさらに200年後の1475年、皇帝フリードリヒ3世はケルンを「帝国自由都市」とした。ケルンの人々が最初に大司教に対して反乱を起こした日から数えて実に400年後のことであった。

参考:

curiositas-mittelalter.blogspot.com, “DER AUFSTAND VON 1074: DIE KÖLNER KÄMPFEN FÜR IHRE FREIHEIT”, MAX EMANUEL FRICK, https://curiositas-mittelalter.blogspot.com/2018/01/koeln-aufstand-1074-erzbischof.html

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