ラーン川が流れるその町の石畳をゆっくりと歩いていくと、やがて視界の先に、色とりどりの木組みの家々が折り重なるように現れる。リンブルク・アン・デア・ラーンの旧市街は、まるで時間そのものが立ち止まってしまったかのような静けさに包まれている。ラーン川の流れは穏やかで、その水面には町のランドマークである、尖塔をもつ大聖堂の影がゆらりと揺れている。
朝の光に照らされた家々は、どれも少しずつ異なる表情を見せる。傾いた梁、色褪せた漆喰、窓辺に飾られた花々――それらは何世紀もの時間を生き抜いてきた証のようでもある。観光客のざわめきが遠のいた路地に足を踏み入れると、木材の軋むような気配や、かすかな生活の匂いが、今もこの町が“生きている”ことを感じさせる。
その一角に、ひときわ不思議な佇まいを見せる建物がある。
ヴェルナー=ゼンガー・ハウス――遠くからは重厚な木組みの家に見えながら、近づくと壁一面に描かれた装飾であることに気づく、だまし絵のような家だ。旧市街を代表する建築物である。かつては裕福な商人の拠点として栄え、何世紀にもわたり街の歴史を見つめてきた。

この建物の名の由来には謎が残る。近くのブリュッケン通りに住んでいた商人ヴェルナー・ゼンガーの名が付けられているが、実際に彼がこの家に住んでいたかどうかは定かではない。1274年にはすでに存在していたこの建物は、1289年の大火を部分的に生き延び、現在ではリンブルク最古の家とも言われている。
しかし、この家はただ古いだけの建物ではない。
ここには、かつてこの地方を震え上がらせた一人の男の影が確かに刻まれている。
《シンダーハーネス》――そう呼ばれた男、ヨハネス・ビュックラー。
彼はここリンブルクで捕らえられ、この家から連行されていった。
静かな街並みの中に立っていると、とてもそんな出来事が起こった場所とは思えない。だが、石畳の下には、確かに過去のざわめきが眠っている。
その足音を辿るようにして、この物語は始まる。

シンダーハーネスことビュックラーは、ラインラント地方の小さな町ミーレンに1779年頃生まれた。15歳にしてすでに犯罪に手を染め、窃盗や恐喝を重ね、やがてその数は200件以上に及んだとされる。強盗のみならず、殺人にも関与したと伝えられ、共犯者は90人以上にのぼった。
彼は幼い頃、皮革職人のもとへ奉公に出されたが、小さな過ちをきっかけに厳しい鞭打ちを受け、やがて社会から逸脱していく。そして盗賊の世界へと足を踏み入れた。
興味深いのは、彼が常に聖書を携えていたという点である。さらに、金持ちや高利貸しから奪った金を貧しい者に分け与えたという逸話も残る。このため後世、彼は「ドイツのロビンフッド」とも呼ばれるようになった。
1799年2月末、彼はシュネッペンバッハ(Schneppenbach)で捕らえられ、ジンメルンへ送られる。
だが同年8月19日の夜、彼は監視の隙を突き、塔から飛び降りて脱獄するという大胆な行動に出た。足を骨折する代償を払ったものの、その逃亡劇は彼の名声をさらに高めることになる。
その後、彼は美しい音楽隊員の娘、ジュリア・ブレシウス(Julia Bläsius)と結婚し、各地に隠れ家を構えながら活動を続けた。それらの拠点は、まるで中世の盗賊騎士の城のようでもあった。

やがて彼の名は広く知れ渡り、仲間内では英雄のように語られるようになる。
しかしその逃亡も長くは続かなかった。
1802年、ついに彼は逮捕される。
リンブルクのヴェルナー=ゼンガー・ハウスにいたところを捕らえられ、フランクフルト・アム・マインへと移送された。
そこで彼は、564件にも及ぶ容疑について、9ヶ月以上にわたる尋問を受ける。
ナポレオン・ボナパルトによる恩赦を期待した彼は、自らの罪を隠さず語ったが、それは結果として当局にとって格好の証拠となった。
1803年10月、フランス統治下にあったマインツで特別裁判が始まる。
173人の証人が呼ばれ、裁判記録はドイツ語とフランス語で作成された。ヨーロッパ各地から人々が押し寄せ、わずか500枚の傍聴券を巡って激しい争奪戦が起きたという。傍聴券の価格は上昇し、その収益は貧困社への基金として使われた。裁判では、起訴状を読み上げるだけで丸2日間かかったとされる。
シンダーハーネスは53件の罪で起訴され、最終的に殺人3件、強盗20件、窃盗30件が認定された。当時は銃を持って強盗に入っても死刑に処せられたのである。シンダーハーネスは実に20件もの強盗を行ったのだから、裁判の結果は明白であった。
彼と19人の仲間に死刑判決が下される。
1803年11月21日。
4万人もの群衆が見守る中、彼はギロチンの刃の下に倒れた。
それは単なる処刑ではなく、一つの時代の象徴でもあった。フランス革命以降広まったこの処刑方法は、「すべての者に平等な死」を与える装置でもあったのである。

しかし近年では、彼の評価は変わりつつある。
「弱者の味方」という像は後世の創作に過ぎず、実際には極めて現実的で冷徹な犯罪者だったという見方が強まっている。
彼には政治的思想も理想もなかった。ただ自身の利益と生存を最優先に行動した人物だったのである。
ときに見せた寛大さも、村人に通報されないための計算だった可能性が高い。自分たちが金を借りている高利貸しがシンダーハーネスに襲われる。村人たちはそれがまるで正義の行いかのように考え、強盗団を崇拝する者さえいた。こうして、ひとりの盗賊は”英雄伝説”へと姿を変えていったのだった。
また、彼の成功は決して一人の力ではなかった。
特に靴職人のヨハン・ライエンデッカー(Johann Leiendecker)は、標的選びや戦略立案において重要な役割を果たしていた。さらに「安全カード」と呼ばれる、襲撃を回避するための仕組みまで考案したとされる。
彼は後にオランダへ逃れ、アムステルダムで静かに生涯を終えたという。
シンダーハーネス一味にとって、犯罪は一種の「事業」でもあった。
脅迫状は丁寧に書かれ、定期的に上納金を支払うことを厭わない商人たちは保護された。こうして築かれた資金が、彼の活動や「施し」に使われていたのである。
彼自身も無用な殺人は避けようとしていた。
それは人道的理由ではなく、追跡を強めるリスクを避けるためだった。
こうして見えてくるのは、「義賊」ではなく、冷静で計算高い生存者の姿である。
後世に作られた《ドイツのロビンフッド》という像とは異なり、彼は時代の混乱を巧みに利用した現実主義者だった。
それでもなお、その名は忘れ去られてはいない。タウヌス地方には今も彼の名を冠した場所が残り、人々の記憶の中に生き続けている。
そして、彼が捕らえられたヴェルナー=ゼンガー・ハウスは、現在レストランとして営業している。
また、かつて彼が投獄されていたジンメルンの塔は、展示施設やユースホステルとして利用されている。
かつて恐怖の象徴だった盗賊は、二百年の時を経て、今や人々を呼び寄せる存在となった。
歴史とは、ときに皮肉な形で、過去を語り継いでいくものである。
参考:
fnp.de, “Was der Schinderhannes so alles vor unserer Haustür trieb”, Frank Weiner, 24.04.2015, https://www.fnp.de/lokales/main-taunus/schinderhannes-alles-unserer-haustuer-trieb-10733133.html
hof-gimbach.de, “Die Geschichte des Schinderhannes”, https://www.hof-gimbach.de/chronik/die-geschichte-des-schinderhannes/
『ドイツ 町から町へ』、池内紀、中公新書、2002年、P118、「大盗シンデルハンネス」



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