石に刻まれた裏切者

バウツェン

【バウツェン】

美しいシュプレー川の畔にあるバウツェンは、1868年までは、ブディシン(Budissin)と呼ばれていた。

バウツェン(筆者撮影)

この町は1429年と1431年、フス派によって2度も包囲されている。 そして、200年後の1620年にも、町はザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世(Johann Georg I.)によって包囲され、1639年にはスウェーデン軍によって再度包囲されている。

ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世 (Source: wikipedia.de)

《裏切り者》がでてくるのは、1429年と1431年に起こったフス派による包囲の時のことだ。

チェコの宗教改革者ヤン・フス(Jan Hus)が、1415年7月、神聖ローマ帝国が開催したコンスタンツ公会議の時に殺されたことで、フスの信者は一致団結してフス派運動を開始した。フス派の政治的、イデオロギー的、軍事的闘争は、カトリック教会、ボヘミアの封建勢力、ボヘミアやラウジッツ北部の豊かな都市貴族に対して向けられ、特にバウツェン、レーバウ、ツィッタウ、カメンツ、ゲルリッツ、ローバンから成る「上ラウジッツの6都市同盟」に対して向けられたのだった。これらの影響力のある都市同盟は、後に皇帝となるドイツ王ジギスムント(Sigismund)と教皇側についていたのだった。

1419年、フス戦争が勃発し、1937年まで中央ヨーロッパを震撼させた。フス派は、ヤン・ジシュカ・フォン・トロツノフ(Jan Zizka von Trocnov)を軍の最高司令官に任命し、「上下ラウジッツ」を攻撃。処刑された宗教的指導者に対する恨みを晴らすため、都市、村、教会、修道院を怒りにまかせて破壊し、略奪を繰り返した。ヤン・ジシュカに率いられたフス派の軍隊は連戦連勝を重ね、後に皇帝となるジギスムント王の軍隊をも破ったのだった。

しかし、1424年10月11日、今日では『ジシュカの野』(Zizkovo Pole)と呼ばれているモラヴィアのシェーンフェルト(Schönfeld)近くの戦場で、ジシュカはペストに罹り死んだのだった。ジシュカの後を継いだのが、後に「大王」と呼ばれる聖職者プロコップ・デア・カーレ(Prokop der Kahle)であった。プロコップは「ジズカドラム」と呼ばれる太鼓のビートに合わせ、フス派を勝利に率いたのだった。そして1434年までの10年間、勝利をおさめ続けるのだった。1429年の夏、フス派の一団は、上ラウジッツのバウツェンに向かって軍を進めていた。

フス派は、過去数年間、繰り返しラウジッツ北部に侵入していた。フス派からの絶え間ない侵入に対抗するため、シギスムンド・フォン・クレムシエ(Sigismund von Kremsier)は1422年に要塞を拡張するよう命令し、市は多大な努力を払った。 さらに、都市防衛のために18門の大砲の製造が委託された。

伝わるところによると、1429年10月12日、フス派の指導者マレストロ(Malestro)のもと、4,000人のフス派軍隊がプラハからバウツェンを結ぶカイザー通り(Böhmisch-Oberlausitzer Kaiserstraße)を移動し、周辺都市を荒廃させた。フス派は、1427年にポーランドのラウバン(Lauban)を略奪し、1429年にカメンツ(Kamenz)を焼いたほか、上ラウジッツの多くの場所を略奪した。当時のバウツェン市長はハンス・シュヴェルトフェーガー(Hans Schwerdtfeger)であったが、降伏を拒否し、都市はフス派によって三方から攻撃された。

ラウバン(Lauban(Source:travelprincess.de))
カメンツ (Source:kamenz.de)

学校の門と帝国の門に加えて、この当時、現在のミヒャエル教会の地域の南斜面は都市の防御が最も弱かった為、そこに攻撃を加えられた。伝説によると、市長ティエモ・フォン・コルディッツ(Thiemo von Colditz)の命令に従って女性や子供を含む市民が、町を全力で守ったという。とりわけ、熱湯、硫黄などを侵入者に対してまき散らし攻撃を加えた。フス派はバウツェン市民があまりにも必死に抵抗を繰り返す姿勢に、自分たちの勝利を疑い始めたという。攻撃は3日間続いたが、その時フス派のリーダー、マレストロに2本の矢が命中。致命的な一撃を受けたのだった。その後、指導者を失ったフス派の軍隊に混乱が生じ、彼らはバウツェンから撤退した。

1429年に都市が包囲された時、町の書記官ピーター・プリシュヴィッツ(Peter Prischwitz)は、都市を裏切り、フス派に売ろうとしたのだった。この計画を実現するため、彼は手紙を括り付けた矢を敵陣に打ち放ったのだった。この手紙には、都市に備蓄してある小麦粉を使えなくするために水をかけ、ケッセルガッセの家に火を放ち、皆が火事に気を取られている間に、城門を開くことを約束したのだった。その見返りに、毎年の報酬支払いと多額の年金を要求したという。実際、プリシュヴィッツは市が保管していた小麦粉を湿らせ、町に火を放っている。その後、プリシュヴィッツは門を開こうと、急いで門の方向へ走ったが、目的地に到着するまえに市民に見つかり、捕らえられている。裏切りは失敗に終わり、最悪の事態は避けられたわけだが、プリシュヴィッツが火をかけた結果、バウツェンはその4分の1が焼失したのだった。

ピーター・プリシュヴィッツは捕らえられ、内通者を失ったフス派も一旦は兵を引く。勝利を得られないまま撤退したにもかかわらず、フス派によるバウツェンへの新たな攻撃が迫っていた。その動きを察知したバウツェン市民は防衛システムを入念にチェックし、敵からの攻撃に備えた。 また、当時の領主ハンス・フォン・ポレンツ(Hans von Polenz)はマイセン辺境伯に援軍を要請した。1430年初め、マイセン辺境伯は、1200人の軍隊をバウツェンへと送ったのだった。この軍隊は、現在レーバウ(Löbau)にある精霊教会(Kirche zum Heiligen Geist)の近くに陣取っている。 攻撃に対する防衛準備が整えられていたため、1430年、フス派はバウツェンへの攻撃を諦めざるをえなかった。

レーバウの精霊教会(Source: de.wikipedia.org)

一旦は攻撃を諦めたフス派だったが、1431年2月20日、ツィッタウ(Zittau)の方向から戻り、バウツェンを再び包囲した。バウツェンは、市を防御するため、郊外の家屋をすべて焼き払った。フス派はこれを防ごうとし、聖母教会の中に閉じ込もった。そこからは、フス派も砲台を用いて街を攻撃を開始。別の部隊も南の岩から銃撃を加えた。同時に、都市はエーゼルスベルク(Eselsberg)からも攻撃を受けた。そこでフス派は城壁を乗り越えることにも成功したという。

バウツェンのエーゼルスベルク(筆者撮影)

しかし、9時間に及ぶ戦いの後、フス派は再び押し戻されたのだった。一説によると、マイセン公爵が派遣した軍隊、知事の側近とバウツェン市民に対峙したフス派は、お互いに攻撃することなく5日間向き合ったと言われている。しかし、ある日の夜、マイセン公爵の騎士団が密かに撤退を開始した後、フス派は街を再度攻撃したのだった。

その後もフス派はラウジッツ北部に繰り返し侵入を繰り返したので、1432年、最終的にツィッタウとバウツェンの両都市は、金銭の支払いと引き換えにフス派と和平を結んだのだった。しかし、その後、ボヘミアで皮肉なことに、フス派同志による戦争が始まる。1434年5月30日、中央ボヘミアにおけるリパニの戦い(Lipany)で、急進改革派のターボル派(Taboriten)は、穏健派のカリクスティナ派(Kalixtiner)と争い、敗北する。急進改革派のターボル派は、農民、職人、日雇い労働者からなる約12,000人であったのに対し、穏健派のカリクスティナ派はブルジョア階級や貴族で固めた20,000人の兵力であった。勝者となったカリクスティナ派は、捕虜とした900名の「同志」を納屋に押し込め、火をかけたのだった。考えられうるあらゆる残酷な行いが繰り返されたフス戦争も1437年にようやく終わりを迎える。

そして、バウツェンとその市民を裏切った町の書記官ピーター・プリシュヴィッツはどうなったかと言うと、市長にその裏切り行為が阻止された後、過酷な拷問を受けている。全てを自白した後、1429年12月6日、中央広場まで引きずり出され、そのまま処刑所へと運ばれた。体は切り刻まれ、心臓は引き裂かれ、頭部は投げ捨てられた。体は4つに切り分けられ、街の正門に吊るされたのだった。執拗なまでの刑罰は、死に物狂いで町を守っていた市民たちの怒りや鬱屈した気持ちを代弁するものだった。裏切者に対する見せしめとして、プリシュヴィッツの顔は石に刻まれ、攻撃をしかけてくる敵に見えるよう門に掲げられた。石板は4つ作られたが、そのうち1つは現存しており、見せしめとして石に掘られた男の顔は今でもニコライ門で見ることができる。

ニコライ門に刻まれたプリシュヴィッツの顔(筆者撮影)

プリシュヴィッツが冷血にも金と引き換えに町を引き渡そうとした理由はわかっていない。一説には、町にたいして私怨を抱いていたとも言われるが、それに対して歴史は沈黙したままである。プリシュヴィッツは、自身が望んだような金持ちにはなれなかったが、歴史に名を残すこととなった。裏切者による悪だくみが最後の最後に失敗し、町が壊滅から救われたという奇跡は後に宗教的な解釈を与えられ、大天使ミカエルが町を包囲する敵と戦ったと伝えられるのだった。その奇跡に感謝を表すため、大天使が戦ったと言われる場所に、聖ミカエル教会が建てられた。

バウツェンの聖ミカエル教会(筆者撮影)

参考:

pressenet.info, “Die Belagerung von Bautzen”, Winfried Brumma, 2010, https://www.pressenet.info/sagen/belagerung-von-bautzen.html

amp.de, “Belagerung von Bautzen – bautzener geschichte”, https://amp.de.google-info.org/2274844/1/belagerung-von-bautzen.html

slub.quoca.de, “Hussitensturm über Oberlausitzer Bergland und Bautzen”, Lutz Mohr, 29 Juni 2016, https://slub.qucosa.de/api/qucosa%3A17139/attachment/ATT-0/

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