紺碧の水を湛えるボーデン湖の畔、アルプスの山々を遠くに望む古都コンスタンツ。
その穏やかな湖畔の風景を眺めていると、かつてこの町が全ヨーロッパの運命を左右する激動の舞台であったことを忘れさせてしまう。
迷路のような路地を歩けば、中世の面影を残す木組みの家々が語りかけてくる。
ここはドイツ南部でありながら、スイスの国境がすぐそこに迫る独特の静謐さを湛えた、歴史の十字路である。
朝靄に包まれたコンスタンツ港に立つと、湖を渡る風がかすかな波音を運び、中世の喧騒を今に伝えているかのようだ。
かつて王侯貴族や聖職者たちが豪華な馬車を連ねて集ったこの地には、今もなお、人間の至高の理想と剥き出しの欲望が入り混じった濃密な空気が漂っている。

今から六百余年前、この地で《コンスタンツ公会議》と呼ばれる、キリスト教史上最大級の宗教会議が幕を開けた。
公会議とは、教会の教義を決定すべく皇帝や教皇が召喚する最高会議であり、325年のニケーア公会議以来、アタナシウス派の正統性や単性説の異端認定など、キリスト教の根幹に関わる決断を下してきた。
1414年から1418年にかけて開催された第16回公会議こそが、ここコンスタンツを舞台としたものである。
当時、カトリック教会は未曾有の危機に瀕していた。
《教皇のバビロン捕囚》を経て教皇権は失墜し、1378年からは《シスマ(教会大分裂)》によって、同時期に三人もの教皇(ヨハネス23世、グレゴリウス12世、ベネディクトゥス13世)が正統性を主張し合う泥沼の混乱に陥っていた。
さらに英国のウィクリフやチェコのヤン・フスといった宗教改革家が教会の腐敗を公然と批判し始めており、神聖ローマ皇帝ジギスムントにとって、この混乱の収束は焦眉の急であった。

人口わずか六千人の交易都市に、四年間で延べ七万人もの訪問者が押し寄せたというから驚きである。
ヨーロッパ全土から枢機卿、公爵、神学者が集い、皇帝ジギスムント自らも出席したこの会議は、史上最長を記録した。
結果、三人の教皇は追放され、1417年にマルティヌス5世が新教皇として選出されたことで、長きにわたる大分裂はようやく終焉を迎えたのである。
しかし、この会議の影には、異端者として断罪されたヤン・フスの凄惨な歴史が刻まれている。
当時の商人ウルリッヒ・フォン・リヒエンタール(Urlich von Richental)が記した《リヒエンタールの年代記》(Die Richental-Chronik)には、1415年7月6日の処刑の様子が克明に記されている。

「フスは、《Heresiarcha》という文字と2体の悪魔が描かれた白い帽子を被せられ、刑場へと引き立てられた。コンスタンツの人々は彼を町から連れ出した…3000人以上の武装した男たちがフスを連行し、数えきれないほどの群衆がそれに続いた。」
刑の執行について、年代記はこう語る。

「刑が執行される前に、刑の執行人はフスを地面に垂直に立てられた長い板に縛り付け、足元に台を置いて、その周りに小枝やわらを突き詰めた。そして最後に火をつけたのだった。フスは大声で叫び、体はすぐ燃え尽きてしまった。しかし、白い帽子だけは火の中にそのまま残っていた。死刑執行人はそれも燃えるように叩きだした。それから、灰、骨そして燃え残ったものはすべてライン川に投げ捨てられた。」
フスと、その同胞であったヒエロニムス(Hieronymus von Prag)が火刑に処せられた場所には、石碑が建てられている。
黒い石灰岩で作られた記念碑は、寄付により賄われ、1862年10月6日に設置された。フスが処刑された7月6日には、毎年、記念行事が行われている。

皇帝ジギスムントが身柄の安全を保障していたにもかかわらず断行されたこの処刑は、後に四十年にも及ぶ「フス戦争」を誘発し、ルターの宗教改革へと繋がる歴史の導火線となった。
一方で、年代記は公会議中のコンスタンツの驚くべき活況をも伝えている。
ギルドの規制は撤廃され、移動式オーブンを備えたパン屋が焼きたてのプレッツェルを売り歩き、フランス人のためにはカエルやエスカルゴまでもが振る舞われた。
物価高や宿泊難を嘆きながらも、人々は束の間の享楽に耽ったのである。
なかでも特筆すべきは、町に溢れた七百人もの売春婦たちの存在である。
中世において、売春は神学的にすら容認された公認の産業であり、公会議の開催は皮肉にも町の建築ブームと性産業の黄金時代をもたらした。
吟遊詩人のオズワルド・フォン・ヴォルケンシュタイン(Oswald von Wolkenstein)もまた、皇帝の側近として参加しながら、遊女との火遊びに費やした所持金を嘆き、次のような歌を後世に残している。
『ボーデン湖を思うと、財布が痛む』
(Denk ich erst an den Bodensee. Dann tut mir gleich der Beutel weh.)
この公会議の世俗的で欲深い側面を、文豪バルザックは『美しきインペリア』(Die schöne Imperia)として描いた。そして1993年、彫刻家ペーター・レンクの手により、その名を冠した巨大な石像《インペリア》が港の入り口に設置された。

はだけた胸元を見せ、道化師の帽子を被った巨大な娼婦の右手には皇帝が、左手には教皇が、まるで見世物の手玉のように小さく乗せられており、この石像は《彷徨える娼婦》(Wanderhure)とも呼ばれている。
おそらくは世界でも唯一と思われる売春婦の形をした記念碑が、1993年以来、コンスタンツ港の入り口に建っている。
この像は、宗教的統一という崇高な理念を掲げながら、その裏で肉欲と欺瞞にまみれていた公会議のダブル・スタンダードに対する痛烈な皮肉である。
衣服を翻し、最高権力者たちを手のひらで弄ぶ彼女こそ、公会議という狂乱の宴における「真の女王」であったのかもしれない。

参考:
welt.de, “Sex war das Boom-Gewerbe auf dem Kirchenkongress”, Marc Reichwein, 15.04.2016, https://www.welt.de/geschichte/article133964786/Sex-war-das-Boom-Gewerbe-auf-dem-Kirchenkongress.html
welt.de, “Diese militärische Innovation vernichtete ganze Ritterheere”, Berthold Seewald, 19.08.2020, https://www.welt.de/geschichte/article213845348/Hussiten-Diese-Innovation-vernichtete-ganze-Ritterheere.html
welt.de, “Ihre exquisiten Sexspiele überwältigten Kardinäle”, Marc Reichwein, 01.06.2016, https://www.welt.de/geschichte/article155860698/Ihre-exquisiten-Sexspiele-ueberwaeltigten-Kardinaele.html



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