オルデンブルク (Oldenburg)は、ブレーメンの西50㎞ほどに位置する町で、ニーダーザクセン州北西部に位置する。同州では、ハノーファー、ブラウンシュヴァイク、オスナブリュックに次ぐ第四の町だ。オルデンブルク地方のラシュテット(Rastedt)という町には、 ラシュテット城(Schloss Rastedt)という城がある、この城は一般公開されていないが、オルデンブルク家の伯爵夫人と大公の住居であり、現在も一族が所有している。現在、この城が建っている場所には、かつて修道院が存在していたのだが、その修道院には、次のような話が伝わっている。
その昔、この地方には、かつては勇猛で知られたフノ・フォン・オルデンブルク(Huno von Oldenburg)という伯爵が住んでいた。伯爵も今ではすっかり年老いてしまい、もはや帝国の趨勢に関与していなかったが、息子のフリードリッヒ(Friedrich)は彼の自慢であり、妻のゲラ(Guella)と共に、静かで敬虔な生活を送っていた。
ある年、皇帝ハインリヒはゴスラーで帝国議会を召集することを決定。フノ伯爵を含む、帝国のあらゆる諸侯、伯爵、領主が帝国議会に召集された。しかし、年老いたフノ伯爵は、皇帝からの召集にもかかわらず、オルデンブルクに残った。伯爵は平和と静けさを愛し、献身的な奉仕を行うことで自身の生活が邪魔されるのを好まなかった。
「今さら、私にそこで何をしろというのか?役立たずとなった私の不参加をどうか理解してくださいますように。」と言って、会議欠席の許しを求めたのだった。しかし、皇帝の周りには、口さがない輩がたくさんいた。「フノは反逆者だ。彼は帝国の秩序に逆らう不心得者だ。」と彼らは口々に言った。
皇帝ハインリッヒは彼に新しい召喚状を送った。「伯爵は召喚に応じるべきであり、帝国会議に参加するべきである。」と。その召喚状には、皇帝が選んだ相手と戦うよう、強い騎士を伴うように、という一文が付け加えられていた。それを聞いたフノはため息交じりに言った。「では、出かけるとしよう。神がご加護をくださるだろう」。
息子のフリードリヒを伴って、彼はゴスラーへと旅立った。ゴスラーに到着した親子には、厳しい命令が下された。息子のフリードリッヒは、父親の無実を証明するために、ライオンと戦うことを要求されたのだった。このライオンこそ、皇帝がフリードリッヒに選んだ相手だった。
父親は神に祈りを捧げ、かつてアブラハムと同じように息子を守ってくれるようにと神に懇願した。そしてフノは、息子のフリードリッヒが勝った場合には、聖母マリアを奉る修道院を設立することを誓った。
フリードリヒは勇気を振り絞ってライオンに立ち向かった。賢明なフリードリヒは、人形を隠し持っていた。彼はそれをライオンに向かって投げつけ、ライオンが人形に食らいついて引き裂く間に、フリードリヒはライオンに切りかかった。勝負はついた。フリードリッヒは見事ライオンを倒したのだった。
皇帝は両手を広げてフリードリッヒを迎え入れると、瀕死のライオンのまだ暖かい血の中に指を2本浸し、伯爵の盾に2本の線を引いた。 「黄色い盾に引かれた赤い二本の線。これをお前の一族の家紋とし、そして今日のお前の勇敢な戦いは永遠に記憶されるであろう。と皇帝は言った。
フリードリッヒは、皇帝から指輪を授かり、さらにゾースト(Soest)近郊にある帝国宝物を与えられた。さらに、フリードリッヒには、帝国から与えられていた領地については、税金の免除などが認められた。
フリードリッヒの父親のフノは、自身が立てた誓いを守り、ラシュテット修道院を設立。フリードリヒがライオンを打ち破った剣は、何世紀も経ったあとでもオルデンベルクの兵器庫で見ることができたという。
この伝説で、フノ伯爵が建設したとされるラシュテット修道院は、冒頭で述べたとおり、実在し、修道院の設立は1091年にまで遡る。 同じく実在の人物、フノ伯爵と妻のヴィルナ(Willna)が設立者だと見られている。しかし、実際に二人が 伯爵の称号をもっていたかについては定かではないという。おそらく伯爵のような地方の実力者であったと考えられる。二人は修道院を自分たちの記念碑として建設したとされる。当初、修道院は、女子修道院、またはカノン修道院となるはずであったが、修道院の奉献前にフノが死亡した為に、息子のフリードリッヒが建設を完了させ、聖母マリアに捧げるベネディクト会修道院として奉献している。そして5年後には、修道院教会も奉献されている。
また、フノとヴィルナは修道院に土地を寄進している。その為、修道院は、ラシュテット(Rastede) とリュストリンゲン(Rüstringen)とその周辺のアンマーラント(Ammerland)、ヴェーザー川の東では、バルドヴィック(Bardowick)とリューネブルク(Lüneburg)、そしてブレーメン近郊のサイク(Syke)周辺の土地を所有した。
さらに、1124年の教皇文書によると、フリードリッヒは、ゾースト、リューデンシャイト、イーザーローン、アルンスベルクにも土地を持っていた。農民が負担した《十分の一税》によって、ラシュテット修道院は、地域の精神的な中心となっていった。
15世紀半ばまで、修道院教会はオルデンブルク伯爵家の埋葬地であった。僧侶の仕事は、領主の一族の救いを祈ることだった。さらに、高い教育を収めた聖職者は数々の文書の作成に携わった。
1336年、この修道院の修道士、ハインリッヒ・グロイスティーン(Hinrich Gloysteen)は、 オルデンブルク伯爵ヨハン3世から委託を受けて、オルデンブルガー・ザクセンシュピーゲル(Oldenburger Sachsenspiegel)という、低地ドイツ語で書かれたザクセンの法律文書の写しを手書きで完成させている。
修道院は宗教改革の頃に、その存在意義を無くし、1529年に最後の僧侶が修道院を去った後、クリストフ・フォン・オルデンブルク(Christoph von Oldenburg)伯爵は、その場所に自身の住居を建てた。そして伯爵が亡くなった後は、教会としての機能も失っていく。ラシュテット修道院が解体されると、同じ場所にラシュテット城が建設された。かつての修道院の地下室は今日でも保存されており、公園にある城の裏手には、ロマネスク様式の柱がいまでも残っている。そして、 オルデンブルク市の紋章には、伝説のように、黄色い盾に二本の赤線が描かれており、ラシュテット市の紋章にはライオンと波状の赤い二本線が描かれている。
もちろん、 ラシュテット修道院の伝説は史実ではなく、修道院の僧侶たちが、当時よく行われていたように、修道院に誇らしい起源を与えると同時に、領主であるオルデンブルク伯の為に、この伝説を創作したと考えられる。この時代、一対一の決闘によって、処分が決定されることは珍しくなかったが、被告はライオンとではなく、自身を告発した人物と戦ったという。当時、ゴスラーで開催された帝国議会の記録にも、このような決闘は言及されていない。
参考:
sage.at, “Der Löwenkampf”, Friedrich Gottschalck, Die Sagen und Volksmährchen der Deutschen, Halle 1814, http://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/allgemein/gottschalck/loewenkampf.html
de.wikipedia, “Kloster Rastede”, https://de.wikipedia.org/wiki/Kloster_Rastede
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