北ドイツの低地に広がるニーダーザクセン州。
その北西部に位置するオルデンブルクは、運河と緑に彩られた静謐な古都である。
ブレーメンの西50㎞ほどに位置する町で、ニーダーザクセン州北西部に位置する。同州では、ハノーファー、ブラウンシュヴァイク、オスナブリュックに次ぐ第四の町だ。
かつて北海からの風が吹き抜けるこの地を統治したオルデンブルク家の威信は、今も街の重厚な佇まいの中に息づいている。
近郊の町ラシュテットへ足を延ばせば、鬱蒼とした木立の向こうにラシュテット城(Schloss Rastedt)がその優美な姿を現す。
現在は非公開ながらもオルデンブルク家の一族が守り続けるこの城の地下には、遥か中世の修道院が秘めていた、血と祈りの記憶が静かに眠っている。

城を囲む広大な庭園を歩けば、時折、風が古い石造りの回廊を抜けるような音を立てる。
その音は、かつてこの場所で神に仕えた修道士たちの読経の声か、あるいは伝説の騎士が振るった剣の風切り音か。
現在は穏やかな大公家の住まいとなっているこの地だが、その礎が築かれた背景には、皇帝の御前で繰り広げられたという凄絶な決闘の物語が語り継がれているのである。
オルデンブルクの歴史の深層には、勇猛な伯爵フノ・フォン・オルデンブルク(Huno von Oldenburg)の伝説が刻まれている。
若き日はその勇猛で名を馳せたフノであったが、晩年は、妻ゲラ(Guella)や自慢の息子フリードリヒ(Friedrich)と共に、帝国の喧騒を離れて敬虔な生活を送っていた。
しかし、平穏な日々は唐突に破られることとなる。
ある年、皇帝ハインリヒはゴスラーで帝国議会を召集した。
老境にあったフノは静かな生活を乱されることを嫌い、不参加の許しを求めた。だが、皇帝の周囲にいた奸臣たちは「フノは反逆者だ。帝国の秩序に逆らう不心得者である。」と讒言を弄した。
これに激怒した皇帝は、フノに対し、最強の騎士を伴って出頭し、皇帝が選んだ相手と戦うよう命じる非情な召喚状を送ったのである。
フノは神の加護を祈りつつ、息子のフリードリッヒと共にゴスラーへと旅立った。
ゴスラーに到着した親子を待っていたのは、想像を絶する試練であった。
皇帝はフノの息子フリードリッヒに対し、父親の無実を証明するため、飢えたライオンと戦うことを要求したのだ。
フノはアブラハムが息子を捧げた故事になぞらえ、もし勝利したならば聖母マリアに捧げる修道院を建立することを神に誓った。
戦いの場に立ったフリードリヒは、勇気だけでなく知略も備えていた。
彼は隠し持っていた人形をライオンに投げつけ、猛獣がそれに食らいついている隙に鋭い一撃を見舞ったのである。
見事ライオンを打ち倒した若き騎士を、皇帝は両手を広げて称賛した。
皇帝は瀕死のライオンから流れる温かい血に二本の指を浸すと、伯爵の黄色い盾に真っ赤な二本の線を引いた。
「これをお前の一族の家紋とせよ。その勇猛さは永遠に記憶されるだろう」。
こうして、オルデンブルク家の象徴たる「黄地に二条の赤帯」の紋章が誕生したのである。
さらに、フリードリッヒは皇帝から指輪を授かり、帝国から与えられていた領地については、税金の免除などが認められた。
父フノはこの奇跡的な勝利に感謝し、誓い通りにラシュテット修道院を設立した。
1091年に遡るこの修道院の創設は、史実としても確認されている。
フノの死後、息子フリードリヒが建設を引き継ぎ、ベネディクト会修道院として奉献された。
フノ伯爵と妻のヴィルナ(Willna)は実在の人物で、修道院の設立者だと見られている。しかし、実際に二人が 伯爵の称号をもっていたかについては定かではなく、伯爵に準ずる地方の実力者であったと考えられている。
さらに、1124年の教皇文書によると、息子のフリードリッヒは、ゾースト、リューデンシャイト、イーザーローン、アルンスベルクにも土地を持っていたとされる。
修道院は農民からの「十分の一税」や広大な寄進地によって地域の精神的中心地となり、歴代オルデンブルク伯の菩提寺として繁栄を極めた。
14世紀には、この修道院の修道士、ハインリッヒ・グロイスティーン(Hinrich Gloysteen)の手により、《オルデンブルガー・ザクセンシュピーゲル(Oldenburger Sachsenspiegel)》という、低地ドイツ語で書かれたザクセンの法律文書の写しが制作されている。
しかし、宗教改革の荒波はここにも押し寄せた。
修道院は宗教改革の頃に、その存在意義を無くし、1529年に最後の修道士が去ると、跡地にはオルデンブルク伯の住居が建てられ、やがて現在のラシュテット城へと姿を変えた。
伝説のライオン退治は、修道院の僧たちがその起源を神聖化するために創作した物語の可能性が高いが、オルデンブルク市やラシュテット市の紋章には、今もその決闘の名残が誇らしげに描かれているのである。


ラシュテット城の裏手、静かな公園の片隅には、今もロマネスク様式の古い柱がひっそりと残されている。
それは、かつてこの地を支配した修道院の唯一の忘れ形見であり、伝説と史実が交差する境界線でもある。
訪れる者がその冷たい石の感触に触れるとき、千年前のゴスラーでライオンに立ち向かった若き騎士の鼓動が、時代を超えて伝わってくるような錯覚に陥るだろう。
オルデンブルクの街に夕闇が迫り、家々に灯りがともる頃、黄色い盾に赤い二本線を描いた紋章が、市庁舎の壁や街角の旗に鮮やかに浮かび上がる。
それは単なる図案ではなく、一族の誇りと、絶体絶命の危機を乗り越えた勇気の証である。
伝説は時として真実以上に雄弁に、その土地の魂を語り継いでいく。ラシュテットの深い森は、今日もまた、騎士とライオンの物語を抱いたまま、静かに眠りについているのである。
参考:
sage.at, “Der Löwenkampf”, Friedrich Gottschalck, Die Sagen und Volksmährchen der Deutschen, Halle 1814, http://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/allgemein/gottschalck/loewenkampf.html
de.wikipedia, “Kloster Rastede”, https://de.wikipedia.org/wiki/Kloster_Rastede



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