【ドイツの歴史】シャルルの3つの敗北 | ブルゴーニュ公国の消滅

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葡萄の葉が黄金色に染まる秋、ブルゴーニュの村々は収穫の喜びに沸き立つ。ヴォーヌ・ロマネからジュヴレ・シャンベルタンへと続くグラン・クリュ街道を辿れば、点在する古城の塔が空を突き、かつてこの地を支配した公爵たちの威厳を今に伝える。

道沿いに広がるなだらかな丘陵は、何世紀にもわたって大地を耕し続けてきた人々の祈りと汗の結晶であり、その景観は神の恵みそのものである。

静謐な修道院の回廊を歩けば、冷たい石壁から歴史の吐息が聞こえてくる。中世、欧州の富と文化の結集地であったこの場所では、騎士たちの馬蹄の響きと、宮廷を彩った華やかな吟遊詩人の歌声が重なり合っていた。

そんな優雅な情景の裏側には、常に王座を巡る野望と、歴史の荒波に消えていった者たちの壮絶なドラマが隠されている。

15世紀、ブルゴーニュ公国のシャルルは、生前からシャルル・ル・テメレール(Charles le Téméraire)と呼ばれた。テメレールは勇敢公、豪胆公、無鉄砲公、突進公などと訳されるが、現実に即した計算よりも、自身の情熱に従って突き進む男であった。

紋章には『私はあえて行った』という意味の『Je lay emprins』を刻み、思考より行動を尊んだ。彼はこのモットーに従い、ブルゴーニュを欧州で最も繁栄させ、王国の地位にまで高めるために邁進した。

シャルルは当時の最も近代的な国家と軍隊を創設したが、1477年1月5日、ロレーヌの首都ナンシーでその野望は粉々に砕かれた。

突進公は、吹雪の中で全てを賭けた大博打に打って出た。そして彼は軍隊を喪失し、自らも命を落としたのである。

フランス王ジャン2世善良王(Johann der Gute)が1363年に末っ子フィリップを公に封じて以来、フィリップ2世豪胆公(Philipp der Kühne)、ジャン1世無怖公(Johann Ohnefurcht)、フィリップ3世善良公らは、狡猾さと残忍さ、そして幸運を武器に、アルプスから北海へ続く広大な領土を築き上げた。

ブルゴーニュ公は、オーバーラインとローヌ渓谷を結ぶ交易路と、繁栄を極めたブラバントの都市群を支配下に置いた。何より彼らは、君主自らが実践する効率的な管理体制という、富を最大化する手段を生み出した。

シャルル豪胆公(Karl der Kühne)は、あらゆる書類に目を通し、執筆と署名を疲労で倒れるまで続けたという。名声に酔いしれ、征服を渇望した彼は、私生活の喜びを捨てて仕事に没頭した。

シャルルの理想は公国の王国昇格と神聖ローマ帝国の王冠であった。彼はフランスへの忠誠を捨て、皇帝フリードリヒ3世と接近した。しかし、ブルゴーニュのラインラント進出を危惧する帝国側は、その権力志向を危険視した。

帝国軍がシャルルをノイスから退却させる一方、フランス王ルイ11世はスイス軍を味方に引き入れた。四半期ごとに2万ギルダーを支払う契約で、ルイは最大2万5千の軍を獲得した。

互いに転戦を重ねたフランスとスイスの軍勢は、当時最強の歩兵へと成長した。長い槍を構え、騎兵を寄せ付けず、戦線に穴を開けるスイス兵は、敵にとって最大の恐怖であった。

戦線に穴が開けば、軽装兵が突入し、鉾(Hellebarden)で敵を切り伏せた。しかし、大量の兵力を維持できない点がスイス軍の弱点でもあった。

1476年、シャルルがベルンを攻撃したことで、二つの近代軍が激突した。ブルゴーニュ軍は豪華な宝飾品だけでなく、1万8千の兵と、歩兵の3倍の騎兵、400門の野砲という圧倒的火力を誇った。2月末、シャルルはグランソン(Grandson)を包囲した。

戦いは非情を極め、降伏したグランソン軍は皆殺しにされた。しかし3月2日、体制を整える前のブルゴーニュ軍にスイス兵が強襲をかけた。略奪に夢中になる隙に多くの部下は逃げたが、シャルルはムルテンへと出撃し、雪辱を誓った。

6月22日の戦いで、シャルルは将校の助言を無視し、全軍を前線へ投入した。

その結果、同盟軍は手薄になったシャルル主力部隊を粉砕した。1万のブルゴーニュ兵が命を落とし、身代金目的の捕虜が禁じられた戦場で、兵士たちは殺戮された。

一年後のナンシーが終焉の地となった。財政が逼迫する中、シャルルは再編を試みたが、ロレーヌ公ルネの2万の軍勢が迫った。シャルルは1万から1万5千の兵で街を奪還できると踏んだ。

シャルルは戦術を改め、スイス式を模して騎兵を徒歩で陣地に配置したが、これが致命傷となった。

1477年1月5日、吹雪が視界を奪う中、彼は敵が側面へ移動していることに気づかなかった。ロレーヌ公ルネが正面を抑える間、スイス軍が横腹を突き、ブルゴーニュ軍は壊滅した。

シャルルの頭蓋骨は鉾で砕かれ、数日後に略奪された遺体が発見された。

「グランソンで財産を失い、ムルテンで勇気を失い、ナンシーで血を失った」

スイス兵はそう言って嘲笑った。

ロレーヌ公ルネは無慈悲にもシャルルの遺体を晒したが、その後、マクシミリアンによってブルージュへ改葬された。

マクシミリアンがシャルルの娘マリアと結婚したことで、領土の大部分はハプスブルク家のものとなった。ブルゴーニュ公国はフランスに吸収され、スイス軍は傭兵として欧州全域へ散った。

しかし1515年、ロンバルディアのマリニャーノの近くでフランス軍がスイス傭兵を破ったことで、大砲と大軍の前での兵の無力さが証明された。

スイス兵が、グランソンで略奪したブルゴーニュ公国の宝物は、その大部分がアウグスブルクの豪商ヤコブ・フガーに売り払われた。かつて莫大な富を誇ったシャルルの帽子は、フッガーによって4万7千グルデンで売り払われ、ブルゴーニュ公国の歴史は幕を閉じた。

冷たい冬の風がナンシーの戦場跡を吹き抜ける。かつて豪華絢爛な甲冑を纏い、欧州全土を震わせた公爵の野望は、今や歴史の塵となって大地に眠っている。

この地の土は、かつて流された無数の血と、無謀なまでに高潔だった男の情熱を、ただ静かに受け入れ続けている。

遥か彼方、ブルゴーニュのブドウ畑に沈む夕日は、かつての栄華を映し出すかのように赤く染まる。時代は変わり、公国の旗印は消えても、この土地が育むワインの深みには、消し去ることのできない中世の残響が宿っている。

旅人はグラスを傾け、歴史の重みに想いを馳せる。人の命の脆さと、変わらぬ大地の豊かさが交差するこの場所は、終わることのない時を刻み続けている。

参考:

welt.de, “Diese Typen vernichteten die beste Armee ihrer Zeit”, 05.01.2017, Berthold Seewald, https://www.welt.de/geschichte/article160885772/Diese-Typen-vernichteten-die-beste-Armee-ihrer-Zeit.html

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