神聖ローマ皇帝マキシミリアンの義父が迎えた壮絶な最後
15世紀、ブルゴーニュ公国のシャルルは、すでに生前から《シャルル・ル・テメレール》(Charles le Téméraire)というあだ名が付けられていた。フランス語の「テメレール」は勇敢公、豪胆公、無鉄砲公、突進公など様々な訳語で説明されるが、現実的な計算に長けていたというよりも、自身の情熱に従って突き進むタイプであったらしい。また、自身の紋章にも、「私はあえて行った」という意味の「Je lay emprins」という言葉を添えており、思考より行動の人であった。事実、彼は自身のモットーに従い、ブルゴーニュをヨーロッパで最も繁栄させただけでなく、王国の地位にまで高めるために奮闘したのだった。
この自身の目的のため、シャルルは当時の最も近代的な国家と最も効率的な軍隊を創設したが、1477年1月5日にロレーヌの首都ナンシーで文字通り粉々にされた。突進公は、吹雪の中ですべて賭けた大博打に出た。そして彼は軍隊と命を失ったのだった。
フランス王ジャン2世善良王(Johann der Gute)が1363年に彼の末っ子フィリップをブルゴーニュ公として以来、後継者であるフィリップ2世豪胆公(Philipp der Kühne)、ジャン1世無怖公(Johann Ohnefurcht)、フィリップ3世善良公は、狡猾さ、残忍さ、そして幸運をうまく組み合わせ、公国をアルプスから北海まで断続的に続く広大な領土に拡大することに成功した。
ブルゴーニュ公は、オーバーライン地方とローヌ渓谷の間の長距離交易路と、ヨーロッパで最も繁栄した都市が集まるブラバント地方を支配していた。しかし、何よりも、彼らはこの莫大な富を利用する手段を生み出した。それは君主自らが実践する効率的な管理方法が挙げられる。たとえば、シャルル豪胆公(Karl der Kühne)は、あらゆる書類に目を通し、執筆を行い、署名を記入するという作業を疲れて倒れ込むまで行ったという。シャルルは自分に向けられた名声に酔いしれ、手に入れたいものは征服しなければ気が済まない性分であったため、個人的な生活では喜びを感じることがなく、常に仕事に没頭していたと言われる。
シャルルが目指した理想は、ブルゴーニュ公国の王国への昇格にほかならず、神聖ローマ帝国の王冠であった。 公爵はフランス国王への忠誠を放棄し、代わりに神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世に接近し、これにより緊密な同盟が結ばれた。 ハプスブルク家と選帝侯たちはおそらく、ブルゴーニュ公国がラインラントの帝国領土に対して行動を起こすことも辞さないことを熟知しており、この権力志向は帝国にとっても有害であると考えていた。
帝国軍がシャルルをノイスの前方に撤退させた一方で、フランスのルイ11世はなんとかスイス軍を彼の見方に引き込んだ。戦争の際、四半期ごとに20,000ギルダーを支払うという約束で、ルイは最大25,000人の軍隊を獲得した。フランス軍とスイス軍は何年にもわたって互いに戦ったり、そして海外で転戦したりを繰り返し、次第に当時の最高の歩兵となった。スイスの暴徒は、長い槍を持った軽歩兵が騎手を寄せ付けず、敵の戦線に穴を開けることができたため、敵兵に恐れられていた。
敵の前線に穴があくと、軽装兵が急進し、斧と槍のハイブリッドのような鉾(Hellebarden)という武器で敵を斬った。しかし、その数の優位性はスイス軍にとっても問題であった。大量の兵士は短期間しか供給できなかった。
1476年にシャルル豪胆王がフランス・スイス同盟軍に対抗し、ベルンを攻撃したとき、ヨーロッパで最も近代的なふたつの軍隊が衝相まみえることとなった。ブルゴーニュ人は宝石や高価な布地にお金を投資しただけでなく、常備軍を維持する方法を味方の諸侯たちに示した。18,000人の兵士が秩序ある部隊に分割され、歩兵の3倍もの数の強力な騎兵隊が割り当てられた。さらに、400門の最先端の野砲と、イギリス人とイタリア人からなる傭兵がいた。2月末、この部隊で、シャルルはベルンの軍隊によって占領されていたジュラ(Jura)北部のグランソン(Grandson)を取り囲んだ。
戦いは過酷であった。そこでシャルルは、降伏したグランソン軍の最後の男まで処刑した。しかし、3月2日、東から前進していたスイス人は、ブルゴーニュ軍が自軍の体制を整える前に攻撃した。スイス兵が押収した財宝を物色している間、シャルルの部下のほとんどはなんとか逃げることができた。シャルルはこの戦いにおける損失を埋め合わせようとして、3ヶ月後にベルンが要塞に拡大したムルテンに出撃した。
戦闘は6月22日に開始した。スイス軍とそのオーバーラインおよびロレーヌの同盟国が前進する方向にシャルルは砲兵を装備した障害物を配置した。スイス軍の攻撃が何度か失敗したという報告が届いたとき、シャルルは将校の助言に反し、援軍として全軍をすぐに前線に送ることに決定した。
こうして、同盟国は少なくなったシャルルの主力部隊に遭遇する前に守備隊を粉砕することができた。この戦闘により 10,000人のブルゴーニュ兵が殺害されたと言われる。軍の規律を確保するため、スイス人には身代金目的で捕虜をとったり、略奪が禁じられ、その為、捕虜は殺された。
一年後、ナンシーで決定的な戦いが起こった。シャルルは可能な限り軍隊を再編したが、度重なる軍事行動によってブルゴーニュの財政は火の車であり、兵力と装備は大幅に制限されることとなった。さらに、ブルゴーニュに脅かされていたロレーヌのレネ公爵は、スイス人の暴徒を含んだ同盟相手を帝国内に見つけることができた。ルネは最大2万人の兵士を擁し、ナンシー鎮圧のために行進した。対するシャルルは、戦場への到着前、約1万人から1万5千人で街を占領できると考えていた。
ブルゴーニュ軍は敵の優位性に気づいていなかった可能性が高いが、シャルルはおそらくムルテンでの敗北後にミラノからの使節に約束したことを守りたかったと思われる。つまり、次は戦うか死ぬかしか選択できないような状況に、自身の軍隊を配備すると言ったのだった。シャルルはこのモットーに沿って、新しい戦術を試みた。スイス軍の手本に倣って、シャルルは兵士を一段ずらした戦線に並べ、そこに馬から降りた騎兵の大多数が陣地を占めるように計画した。しかし、これはシャルルの側面が予備の遊軍よりも木立と小川によって保護されていたことを意味した。
1477年1月5日に敵が戦闘態勢に移った頃、吹雪により視界が遮られていた。どうやら、シャルルはロレーヌ軍の前衛とスイス軍の別動隊が、ブルゴーニュ軍に向かって移動しているのではなく、側面に向かって移動していることに気づいていなかった。ルネの主力がシャルルを抑えている間、スイス軍は凍った水路をかろうじて横断することができた。
逃げ出したブルゴーニュ騎兵隊を打ち負かした後、スイス軍はシャルル軍の左翼に突撃した。シャルルの軍が反転し銃口を向けたが、時すでに遅しであった。敵軍に反対側も突破されたとき、戦闘はシャルルの敗北に終わった。ムルト川を逃げる間に約1万人のブルゴーニュ兵が殺害されたか溺死したと言われる。
シャルルもこの最後の危機を乗り越えることはできなかった。彼の頭蓋骨は鉾による打撃で砕かれたという。二日後、戦場からわずか数百メートルしか離れていない場所で、損傷し、略奪された遺体が発見された。 「シャルルはグランソンで財産を失い、ムルテンで勇気を失い、ナンシーで血を失った」とスイス兵は冷笑した。ルネは死んだ男を戦利品として誇らしげにナンシーに埋葬し、後に皇帝マクシミリアンが手配して、シャルルの亡骸をブルージュに埋葬し直している。
これはハプスブルク家がブルゴーニュ戦争の大勝者だったからだ。フリードリヒ3世の息子であるマクシミリアンは、シャルルの娘マリアと結婚し、オランダの領土のほとんどを相続した。
一方、ブルゴーニュ公国はフランス王に接収された。そして、スイス兵はその対価を支払えるものならだれでも雇えるヨーロッパで最初の傭兵となった。しかし、勇敢さ、戦利品への欲望、戦争の経験をいくら身に着けていたとしても、大国の大軍や大砲に対して長期間対抗するには意味がないことを、1515年、ロンバルディアのマリニャーノの近くでフランス軍がスイス軍に対して証明するのであった。スイス兵が、グランソンで略奪したブルゴーニュ公国の宝物は、その大部分がアウグスブルクの豪商ヤコブ・フガーに売り払われた。その中にはシャルルが身に着けていた帽子も含まれていた。かつては欧州でもっとも豊かであったブルゴーニュ公国。消滅したその公国最後の公爵の帽子は4万7千グルデンもの値段で売り払われたという。
参考:
welt.de, “Diese Typen vernichteten die beste Armee ihrer Zeit”, 05.01.2017, Berthold Seewald, https://www.welt.de/geschichte/article160885772/Diese-Typen-vernichteten-die-beste-Armee-ihrer-Zeit.html
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