ケルンの広場にはカフェのテラスが並び、子どもたちの笑い声や観光客のざわめきが絶えず響いている。大聖堂の尖塔は青空にそびえ立ち、鐘楼の鐘の音が川面に反射して街全体に響き渡る。
ライン川沿いの岸辺には帆船や貨物船がゆっくり行き交い、川風に揺れる旗や帆が光を受けて煌めく。古い商家の木組みの建物、果物や花を並べた市場、路地に香るパンの匂い――街は生き生きとした日常を映している。
この街で聞こえる笑い声や水音は、歴史の喧騒をすり抜けてきた平穏の証でもある。16世紀、大聖堂のあの重厚な石の壁の内側では、かつて一人の大司教の選出が、宗教と権力の均衡を揺るがし、戦火を呼び込んだのだ。
宗教改革後のケルンで起こった戦争の意外な原因
1577年12月5日、ケルン大聖堂では新たな大司教を選ぶ選挙が行われていた。
候補は二人。バイエルン公アルブレヒト5世の末子で、ヴィッテルスバッハ家に連なるエルンストと、シュヴァーベン貴族出身でヴァルトブルク司教を務めるゲープハルト2世である。
ゲープハルトは名門の出であり、長くケルンおよびストラスブールの聖堂参事会に属してきた経験を持つ、いわば教会人としての実績に支えられた候補であった。一方のエルンストは、南ドイツに強大な影響力を誇るヴィッテルスバッハ家の一員であり、その背後には明確な政治的意図があった。
皇帝マクシミリアン1世とローマ教皇グレゴリウス13世はエルンストを支持していたが、選挙の行方は単純ではなかった。選出権を握る聖堂参事会の面々は、強力な公爵家が大司教職を独占する事態を警戒していたのである。もしヴィッテルスバッハ家の人間が選ばれれば、将来にわたってその影響力が固定化されかねない。さらに参事会の中にはすでにプロテスタントに傾倒した者もおり、彼らもまた、強固なカトリックの守護者たる同家の台頭を避けようとしていた。
こうして思惑が錯綜するなかで行われた投票の結果、ゲープハルトが12票、エルンストが10票を獲得し、ゲープハルトが新たなケルン大司教に選出される。名門の圧力を退けて地位を手にした彼は、このときまだ30歳。将来は約束されたかに見えた。
だが、その運命はわずか数年で大きく転じることになる。
1570年代後半、ネーデルラントではスペインとの間で八十年戦争が続いていた。1579年には北部七州がユトレヒト同盟を結び、スペインに対抗する体制を固める。その流れの中で、講和を模索する会議がケルンで開かれ、祝賀行事が催されていた。
その席で、ゲープハルトは一人の女性と出会う。アグネス・フォン・マンスフェルト=アイスレーベン(Agnes von Mansfeld-Eisleben)――美貌で知られる修道女であった。彼女は現在のデュッセルドルフ近郊に属するゲルスハイム修道院およびエッセン女子修道院に関わる聖職者であり、当時およそ29歳。とりわけその深い色の瞳は、ゲープハルトの心を強く捉えたという。

やがて二人は急速に惹かれ合い、密かに逢瀬を重ねるようになる。しかしこの関係は、あらゆる意味で許されるものではなかった。アグネスの一族は敬虔なプロテスタントであり、宗教的規範からもこの関係は問題視された。家族もまた交際に強く反対した。
だが、周囲の反対はむしろ二人の決意を固める結果となる。ゲープハルトはついに、アグネスとの結婚、そしてカトリックからプロテスタント(カルヴァン派)への改宗を決断する。
1582年に改宗を宣言し、翌1583年2月2日、ボンにおいてアグネスと結婚した。この決断の背後には、プァルツ宮中伯ヨハン・カジミールの助言があったとも言われる。すなわち、改宗後もなお大司教位を保持できる可能性がある、という見通しである。
しかしこれは、1555年のアウグスブルク宗教和議に明確に反する行為であった。同和議では、聖職諸侯が宗派を変更した場合、その地位と領地を放棄することが定められていたのである。
実は、こうした試みは初めてではなかった。約50年前、ケルン大司教ヘルマン5世(Hermann von Wied)が、カトリックとプロテスタントの融和を図ろうと改革を試みたことがある。都市や貴族から一定の支持を得ながらも、この試みは最終的に挫折し、彼の退位によって辛うじて戦争は回避された。
この前例は、ゲープハルトの決断がどれほど危険なものであったかを物語っている。
事実、その影響は極めて大きかった。当時、神聖ローマ帝国の皇帝位は事実上ハプスブルク家のもとにあり、その選出は7人の選帝侯によって行われていた。このうちマインツ、トリーア、ケルンの3大司教はいずれもカトリックであり、帝国の均衡を支えていた。

もしケルン大司教がプロテスタントに転じれば、選帝侯の多数派が覆る可能性がある。それはすなわち、帝国の権力構造そのものを揺るがす事態であった。
当然ながら、カトリック側はこれを看過しなかった。教皇はゲープハルトを破門し、大司教位の剥奪を宣言する。聖堂参事会は改めて選挙を行い、エルンスト・フォン・バイエルンを新大司教に選出した。
これに対し、ゲープハルトは地位の維持を目指して武力による対抗を選ぶ。プァルツ選帝侯フリードリヒ4世らが彼を支持し、戦争は不可避となった。一方、エルンスト側にはスペインおよびバイエルンの軍事力が加わり、戦力差は明らかであった。

戦火はライン下流域一帯に広がり、各地で略奪と暴力が横行する。ロンカースドルフ(Lonckersdorff)では市場へ向かう市民が襲撃され、ケルン市内でも虐殺や略奪が発生した。ドラッヘンフェルスでは城を巡る攻防が行われ、周辺地域も深刻な被害を受ける。デュッセルドルフ西方のライト(Rheydt)でも、村が焼かれ、住民が殺害される惨事が起きた。
戦争は次第に国際色を強めていく。スペインとオランダの対立がこの地に持ち込まれ、さらにフランスやスイスの勢力も関与した。だが最終的に優勢となったのはカトリック側であった。
プロテスタント側は支援の継続が難しく、やがて戦線は崩壊する。こうして勝利したエルンストはケルン大司教の地位を確立し、ヴィッテルスバッハ家の影響力は帝国内で大きく伸長した。この地位はその後、約200年にわたって同家の手に留まることになる。
一方、敗れたゲープハルトとアグネスは各地を転々とする逃亡生活を余儀なくされた。オランダを経てシュトラースブルクへとたどり着き、ゲープハルトは同地の聖堂参事会長に収まる。彼は1601年にその地で没し、アグネスはさらに長く生き、1637年に世を去った。
この一連の戦いは《ケルン戦争》、あるいは《トルフゼス戦争》(Truchsessischer Krieg)と呼ばれる。期間は1583年から1588年と比較的短いが、その影響は大きく、ライン下流域は深刻な打撃を受けた。
この戦争はまた、宗教対立が国際戦争へと拡大していく過程を示す重要な前段階でもあった。スペインとオランダの対立が帝国内に持ち込まれたことで、ドイツの宗教問題は一気にヨーロッパ規模の争いへと変質していく。
やがて訪れる三十年戦争の影は、すでにこの時、ラインの流域に落ち始めていたのである。
そしてその発端のひとつが、一人の大司教の恋であったということは、歴史教科書では触れられていない事実である。
参考:
themator.museum-digital.de, “Der Kölner Krieg von 1583 bis 1588/90”, https://themator.museum-digital.de/ausgabe/showthema.php?m_tid=1100&tid=1129&ver=standalone
borisogleb.de, “Der Truchsessische Krieg”, Heinrich Michael Knechten, https://www.borisogleb.de/truchsess.htm
rheindrache.de, “Truchsessischer Krieg”, https://www.rheindrache.de/truchsessischer-krieg/
frauen-und-reformation.de, “Erzbischöfin und Kurfürstin in Köln – im Jahr 1583”, Heidemarie Wünsch, http://www.frauen-und-reformation.de/?s=bio&id=91



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