ブレーメンの《拷問砦》| マジャール人の侵攻

ブレーメン

10世紀の初め、マジャール人の軍団は強盗の大群を率いてドイツ全土を荒らし、ブレーメンにもやってきた。彼らは教会に火を放ち、祭壇の前で司祭たちを虐待して殺害した。

その後、激しい雷雨が続いた。瓦礫の多くは落雷に見舞われ、教会にいた住民は恐怖で大聖堂から逃げ出し、恐怖からヴェーザー川へと飛び降り、激しい川の流れの中で死を迎えた。当時、ヴェーザー川に沿って続くティーファー通り(Tiefer)とヴァハト通り(Wachtstraße)はまだ開発されていなかったので、教会と川の間には大きな開けたスペースが横たわっていた。

さらに悪いことに、ドームシェイデ(Domsheide)を横切ってオスタートアー(Ostertor)方面に到達し、街へと逃げる別の集団がいた。しかし、この集団は、マジャール人の不安を見抜いてすぐに集まった市民に追い返され、次の通りに押し込まれたのだった。マジャールの一団は、狭い路地で追っ手から身を守り、ヴェーザー川までなんとか安全に退却できると考えていたが、それは大きな間違いだった。突然、頭上の窓が開き、女たちは熱湯と油を女たちに浴びせかけただった。マジャール人の強盗集団は、惨めに悶え苦しんだ末に死ぬこととなった。

この通りの名前もこのエピソードから名づけられた。この通りは今日でもマーテルブルグ(Marterburg: 拷問砦)と呼ばれている。

10世紀、マジャール人がヨーロッパを蹂躙したのは周知の事実だ。900年以降、彼らは毎年のように西欧カトリック圏や東ローマ帝国に侵攻した。915年には、小規模なマジャール人の一団がブレーメンにまで到達しており、冒頭の伝説はこの頃のエピソードを元にしていると考えられる。マジャール人による侵攻に終止符を打ったのは、初代神聖ローマ皇帝オットー1世である。955年、オットー1世はアウクスブルクの南にあるレヒフェルトでマジャール人と対決。マジャール側はこの戦闘で5,000人を超す兵を失う決定的敗北を喫し、この敗北をきっかけに西欧への侵攻を諦めた。

参考:

sagen.at, “VON DER MARTERBURG”, https://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/bremen/marterburg.html

コメント

タイトルとURLをコピーしました