ブレーメンの《拷問砦》| マジャール人の侵攻

ブレーメン

ブレーメン旧市街 ー 古びた木造家屋や石造りの建物が軒を連ねる狭い路地や川辺の小道に、10世紀の混乱の記憶がかすかに漂っているかのようだ。春の風が運ぶ水の匂いや川のせせらぎに耳を澄ませると、かつてマジャール人が町を荒らし、教会を襲った光景など今となっては想像もつかない。しかし、この町の歴史を知ると、塔の影や古い門の陰に、戦火と混乱に揺れた人々の恐怖と慌ただしい足音が、かすかに残っているように感じられる。街の静けさと歴史の重みが、歩く者の胸にひそやかに迫ってくるのだ。

10世紀初頭、マジャール人の軍団は強盗の大群を率いてドイツ各地を荒らし、ついにはブレーメンにも侵入した。彼らは教会に火を放ち、祭壇の前で司祭たちを虐待して殺害した。

その直後、街は激しい雷雨に見舞われた。瓦礫の多くが落雷に打たれ、教会にいた住民たちは恐怖のあまり大聖堂から逃げ出した。人々は混乱の中でヴェーザー川へと飛び込み、激流の中で命を落とした。当時、ヴェーザー川沿いに続くティーファー通り(Tiefer)やヴァハト通り(Wachtstraße)はまだ開発されておらず、教会と川の間には広大な空間が横たわっていたため、逃げる人々の混乱は一層深刻だった。

さらに悪運は続いた。ドームシェイデ(Domsheide)を横切ってオスタートアー(Ostertor)方面へ逃れようとした別の集団もあった。しかし、市民たちはマジャール人の不安定な動きを見抜き、すぐに彼らを追い返し、狭い路地に押し込んだ。マジャールの強盗たちは、狭い路地で追手をかわしつつヴェーザー川まで退却できると考えていたが、それは致命的な誤算だった。突然、頭上の窓が開き、女たちが熱湯や油を浴びせかけたのである。傭兵同然の強盗集団は、悶え苦しみながら次々に命を落とした。

ブレーメンの歴史地区からもほど近いこの通りは、この出来事にちなみ、今日でもマルテルブルグ(Marterburg:拷問砦)と呼ばれている。

10世紀、マジャール人が西欧を蹂躙したことはよく知られている。900年以降、彼らは毎年のように西欧のカトリック圏や東ローマ帝国へ侵攻した。915年には、小規模なマジャール人の一団がブレーメンに到達しており、冒頭の伝説はこの頃の実話に基づくものと考えられる。

マジャール人による西欧侵攻に終止符を打ったのは、初代神聖ローマ皇帝オットー1世であった。955年、オットー1世はアウクスブルク南方のレヒフェルトでマジャール人と決戦し、敵は5,000人を超える兵を失う決定的敗北を喫した。この敗北を契機に、マジャール人は西欧侵攻を断念することとなった。

今日、マーテルブルグ周辺を歩けば、緑の丘が広がり、ヴェーザー川のせせらぎがかすかに聞こえる。しかし、細い路地や広場の空気に耳を澄ませば、かつての混乱や悲劇の気配がかすかに漂うかのようだ。土地は目に見えぬ痕跡を通じて、静かにその物語を語り続けている。

参考:

sagen.at, “VON DER MARTERBURG”, https://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/bremen/marterburg.html

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