800年間一度も破壊されなかった城 ー エルツ城

コッヘム

ドイツの城人気ランキングで常に上位に入るエルツ城の歴史

【エルツ城】コッヘムとコブレンツの中間に位置するエルツ城は、ドイツの人気の城を調べたランキングでは、ノイシュバンシュタイン城、ホーエンツォレルン城などと並んで、必ずトップ10 に入る人気の城だ。このエルツ川の谷から70メートルの岩山の上に建てられた城は、12世紀に建てられており、その堂々とした城構えは、1995年まで500ドイルマルク紙幣の意匠として、そして1982年までは切手のデザインとしても使用されていた。エルツ伯爵家は実に33世代にわたって、ここに拠点を置いたのだった。

500マルク紙幣(裏側) Source:wikimedia.org
 切手に印刷されたエルツ城  Source:briefmarken-bilder.de

エルツ城の名前の由来は、エルツ川という小川にある。もともとエルツという名前は、古高ドイツ語の「Els」または「Else」に由来していると考えられている。 ローマ人は小川を「アリソンティア」(Alisontia)と呼んでおり、この言葉はおそらく古代ケルト語の影響を受けているという。

エルツ城は、築城以来その長い歴史のなかで、幾度も敵の攻撃を受け、長期間の包囲を受けたことはあったが、一度も敵に落とされたことのない城としても有名である。エルツ城は、一族内の異なる家族がそれぞれ自身の生活スペースを確保しながらも、中庭や礼拝堂などの城の一部は共同で管理・使用するというガナーベンベルク(Ganerbenburg)と呼ばれる、中世ドイツでたびたび見られる一種特殊な管理形態をとっていた。城の中庭を取り囲むように6、7階建ての建物が建てられており、ロマネスクから初期バロック様式まで、500年の建築の歴史からなる建築スタイルがエルツ城に集まっている。これは500年間建て増しが続けられた為であり、狭い中庭の周りには、高さが35メートルにも達する居住用の塔が8つもある。

     様々な建築様式で建て増しされた居住用の建屋           
所狭しとぎっちりと立ち並んでいる。 Source:mosel-zweinull.de

イギリス人作家キャサリン・マコイド(Katherine Macquoid)は、エルツ城を「魅惑的な場所で、まるで石でできたおとぎ話」のようだと評した。ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)は「大きく、力強く、驚きに満ちて、素晴らしい。 私はこのようなものを見たことがない。」と、興奮気味に日記に記している。ユーゴ―はモーゼル川からエルツ城まで歩き、城門をノックしたという。しかし犬が吠えるだけで、誰も出て来なかった記している。イギリス人画家ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)は、エルツ城を何度も訪れ、この城を描いている。

以下、ターナーがエルツ城を描いた作品:

12世紀に建設されたこの城は、1157年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)からルドルフ・フォン・エルツ(Rudolf von Eltz)への寄贈状が記録されており、その時にエルツ家の名前が最初に文書に現れている。その当時、エルツ城は小さな城の複合体のような形態だったが、この頃のロマネスク様式のいち部分は、現在でも見ることができるという。城の周りに城壁を建設するには場所がなかった為に、岩の形状が城壁の役目を果たすように設計されており、自然の要害は実際非常に効率的にその任を担っている。

1268年、エルツ城は、城の遺産相続をめぐって紛争とならないよう、エリアス(Elias)、ヴィルヘルム(Wilhelm)、ローデリッヒ(Roderich)の3人の兄弟に分割所有されることとなった。3名はそれぞれの家族のために、新たな建屋を建設したため、城のなかに城ができる状態となった。この頃、この城の中には100名程の住民が、120の部屋とホールに分かれて共同生活を行っていたという。

14世紀、エルツ城は大きな危機を迎えている。ルクセンブルグ家出身のトリ―ア大司教ボールドウィン(Balduin von Luxemburg)との軍事衝突が勃発したのだ。ボールドウィンは兄がドイツ王で、1312年からは皇帝位も継いだハインリッヒ7世であり、非常に権力のある一門の出であった。

ボールドウィンはトリーア選帝侯国の創設者であり、領土拡大政策を持っていたため、地方の領袖と確執をもつことがあった。いわゆる「エルツの私闘」では、エルツ城の領主は、エーレンブルク(Ehrenburg)、シェ―ネック(Schöneck)、ヴァルデック(Waldeck)の城主ら帝国騎士とともに、ボールドウィン選帝侯国への編入に対して同盟を組んで反対した。

1331年、エルツ城は砲弾により攻撃を受ける。それまで、ボールドウィンは反対側の丘から城への攻撃を試みるもことごとく失敗していた。ボールドウィンは戦術を変更し、城を兵糧攻めすることにした。その時に使用された包囲城トルツェルツ(Trutzeltz)は現在も廃墟として残っており、城を美しく見ることのできるスポットとしても有名だ。1336年、エルツ城の領主は降伏したのだった。エルツ城城主はボールドウィン率いるトリーア選帝侯国の軍門に下ったが、しかし、ボールドウィンはエルツ家の領主をそのまま城伯に任命している。

                   エルツ城(写真左)を上から見下ろすトルツェルツ城(右)                                      
エルツ城の城主に圧力を加える目的もあり、短期間に建設された。  Source:wikipedia.de

この事件の後は、長く平和な期間が続いた。三十年戦争の折には、エルツ家一門の中にプロテスタントの信仰者がいたことから戦争を無傷で終えている。プァルツ継承戦争の折には、一門にフランス軍に仕えていた親戚がいた為、この時もエルツ城は戦禍を免れている。これは、アントン・ツー・エルツーユーティンゲン(Anton zu Eltz-Üttingen)が、フランス軍の重要な将校を務めいていたため、エルツ城は破壊される建造物のリストから削除されたのだった。エルツ一族内の良好な関係がなければ、エルツ城も他の多くのライン河畔の城と同様、破壊の憂き目をみたであろう。

アントン・ツー・エルツーユーティンゲン伯爵 Source:bremm.info

1567年から1581年にかけて、エルツ城領主ヤコブ・エルツ・リューベナッハ(Jakob von und zu Eltz-Rübenach)はトリーア大司教を務め、1665年から1743年にかけて、エルツ家はマインツ選帝侯領で最大の影響力を保持していた。フィリップ・カール・フォン・エルツ・ケンペニッヒ(Philipp Karl von Eltz-Kempenich)は、マインツ選帝侯兼大司教であり、神聖ローマ帝国の大書記長として、アルプス以北で最も強大な司教領主であった。1733年、エルツ・フォン・ゴールデンレーベン家(Eltz vom Goldenen Löwen)は、カール6世によって、帝国伯爵位を授けられている。

19世紀に入り、エルツ伯カールは、先祖伝来の城の維持・修復に莫大な投資しているが、外見的な変更は行われていない。城は、1815年にエルツ・リューベナッハ男爵が購入し、エルツ伯ケンペニヒ系による単独所有となっている。城主はフランクフルト・アム・マインに住んでおり、34代目に受け継ぐため、城の維持管理を行っている。数々の戦火を免れてきた城も、時間の経過による消耗・損傷にはかなわず、2009年から2012年に掛けて、440万ユーロを費やした大規模改修が行われている。

21世紀、エルツ城は同じ一族によって800年以上も所有されている、ヨーロッパでも珍しい城として残っている。ライン中流、モーゼル河畔の古城は、三十年戦争、プァルツ継承戦争、ナポレオン戦争で破壊されたところが多いが、これらを生き延びたエルツ城は非常に稀な存在である。エルツ城は、4月から11月まで観光客に開放されており、毎年25万人が訪れるという。城内はガイドが案内してくれるが、建物内部も興味深い展示物が多い。

1311年に建てられたエルツーリューベナッハ家(Eltz-Rübenach)の居間には、ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach d. Ä.)による傑作「子供とブドウを手にしたマドンナ」(Madonna mit Kind und Weintraube)が展示されている。

    ルーカス・クラナッハ作        「子供とブドウのマドンナ」  
Source:art-galerie-shop.de/

エルツ騎士団の集会所の壁には、「道化師のマスク」(Narrenmaske)と呼ばれる装飾品が飾られている。道化師は否定的な結果を恐れることなく、何でも発言することが許されていたので、言論の自由を表している。同時に、道化師は、自分自身をあまり真剣に受け止めないようにという警告も発している。これは、中世では、知恵と愚かさ、美徳と悪徳は常に表裏一体のものとして考えられていたからである。この「道化師のマスク」と対をなしているのが、ドアの真上に飾られている「沈黙のバラ」(Schweigerose)と呼ばれる装飾品である。これは、もともと神話に起源があるといわれ、「この中で話されたことは、外で語られてはならない。」というメッセージを伝えている。

道化師のマスク
沈黙のバラ

地下には、宝物庫もあり、アウグスブルクやニュルンベルクで作られた金銀細工が展示されている。城内を案内してくれるガイドは地元のものが多く、この地方の家族のなかには、一定期間、城のガイドを務めることが伝統になっている家族もあるという。地元の人々も誇りに思うエルツ城、真偽のほどは定かではないが、「もっとも写真におさめられた城」と呼ばれることもある。数々の戦争を生き延びた城、一見の価値がある。

参考:

Burgen.de, “Burg Eltz”, https://www.burgen.de/burgen-und-schloesser/deutschland/burg-eltz/

Museums Portal Rheinland-Pfalz, “Burg Eltz”, Katharina Ücgül, 25.11.2013, https://www.museumsportal-rlp.de/museen/burg-eltz

Model.2.0, “Burg Eltz: Hier knipsen sich Instagrammer glücklich”, https://mosel-zweinull.de/burg-eltz/

Burg Eltz.de, “Schon gewußt?”, https://burg-eltz.de/de/burg-eltz-die-attraktionen/schon-gewusst.html

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