設計ミスと言われた宮殿 

ヴュルツブルク

テアーター通りを進むと、ヴュルツブルクで一番の見どころ、レジデンツに到着する。

1719年から1744年に建築家バルタザール・ノイマンが、ヨハン・フィリップ・フランツとフリードリヒ・カール・フォン・シェーンボルンの為に、ヴェルサイユ宮殿をモデルに建設したイタリア=フランス・バロック様式の宮殿だ。(ドイツにはヴェルサイユ宮殿をモデルにした宮殿が多い。)

その莫大な建設資金を調達するため、市民は大幅な増税を課せられたそうで、市民からは不満の嵐だったようだ。しかし、完成した宮殿に住む予定であったヨハン・フィリップ・フランツは、狩猟に出かけた後、循環障害に見舞われ、結局レジデンツに一度も住むことなく亡くなってしまった。増税に苦しんでいた市民は彼の死を歓迎し、一時は毒殺の噂も流れたという。

この宮殿で一番の見どころは、《階段の間》と呼ばれる場所だ。バルタザール・ノイマンによる階段の間の吹き抜け構造は、柱を一切用いない当時としては常識外れの設計で、「設計ミス」「絶対に崩れる」などと酷評された。しかし砲術の技官でもあったノイマンは「砲弾を打ち込まれても崩れない」と反論した。事実、第二次世界大戦の空襲でここだけ天井が残った。その頑丈さの理由は、建材に軽くて丈夫で耐火性がある凝灰岩を使ったこと言われている。現在、このレジデンツは世界遺産にも登録されている。

バルタザール・ノイマンは現在のチェコ西部に生まれ、18世紀の初めにヴュルツブルクに移ってきた。その後、ノイマンは工学を学ぶため、フランケン地方の大砲隊に入隊している。この頃、工学を学ぶには軍隊に入る以外に道がなかったのだ。彼は工学以外にも幾何学、建築、野外測定を研究し、要塞建築の知識・経験を増やしていく。

     バルタザール・ノイマン – マーカス・フリードリッヒ・クライネルトによる肖像画 

       50マルク紙幣に採用されていたノイマンの肖像画

ノイマンは、オーストリアやハンガリーでもフランケンの軍隊に所属し、ベオグラード要塞のエンジニアとしても働いていた。ウィーンでは、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハとヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントのバロック建築から学ぶことで一層才能を磨いた。

1719年に新司教ヨハン・フィリップ・フランツ・フォン・シェーンボルンから建設責任者に任命され、翌1720年にレジデンツ建設を引き受ける。

司教であったシェーンボルン家はできるだけ多くの司教区を自分の影響下に置こうと考え、ヴュルツブルクのレジデンツ建設後もノイマンをドイツ各地に派遣する。ノイマンの活動はシュパイアー、コンスタンツ、トリーアやケルンにまで及んでいる。その為、ノイマンはいつもたくさんの仕事を抱える売れっ子建築家となって、ドイツ各地で建築家としての名声を高めたのだった。

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