ダゴベルト1世とドイツ最古の城

メーアスブルク

ボーデン湖(コンスタンツ湖)の湖畔に位置する小さな都市、メーアスブルク。観光業とワインの生産で有名だ。湖の対岸にはコンスタンツが位置しており、船を利用すれば30分ほどで対岸へと渡ることができる。

この町にあるメーアスブルク城のなかで、古い方の城(Altes Schloss)は、ドイツで最古の城であると言われる。(廃墟ではなく、居住できる城としては最古。7世紀からこの場所にある城だが、当時の建築物は認識されていない。)この城を建設したのは、フランク王ダゴベルト1世だと言われている。630年にメロヴィング朝の王ダゴベルト1世はメールスブルクの砦として「ダゴベルト塔」(Dagobertsturms)を建設。ダゴベルトはこの時点でボーデン湖地域におり、アレマン人のキリスト教化に関与していたことが分かっている。また、伝説の域を出ないが、カール・マルテルが短期間ダゴベルトの塔に住んでいたという話も伝わっている。

ダゴベルト1世(Dagobert I)は、639年1月19日にパリ近郊のエピ​​ネーシュルセーヌで亡くなったとき、おそらく30歳だった。日付は2つの注目すべきキャリアの出発点になった。

一方で、ピピンの一族はそれ以来、王国の運営を行う宮宰(Hausmeier)の座をほぼ途切れることなく独占することに成功し、カロリング朝の基礎を築いた。

一方、ダゴベルト1世は後世に「善良王」と呼ばれることになるが、生前の彼は善良ではなかった。クロタール2世(Chlothars II)の息子であるダゴベルト1世は、630年に王国の半分を継承したとき、15〜20歳であった。残りの半分は彼の弟のカリベルト2世(Charibert II.)が継承した。ダゴベルト1世はすぐにこの遺産を自分の手中に収めるために計画に着手した。最初に、彼は「単純王」(シンプル)と見なされていた兄をアキテーヌへと追い払った。

それから、カリベルト2世の側に立っていた彼の叔父のブロドルフは残虐に殺害された。そして最後に、カリベルト2世の幼い息子キルペリク(Chilperich)も殺害された。これについてはダゴベルトの関与が噂されるが、証拠はない。いずれにしても、こういった相続紛争は伝統のようなものだった。こうしてメロヴィング家の相続紛争は解決され、ダゴベルトはブルゴーニュとアキテーヌを手に入れたのだった。

こうして、ダゴベルト1世は短期間でフランク王国全体の支配権を握ることができた。当時、それはピレネー山脈からライン川に伸び、北西のネウストリア、オーストリア、またはライン川とブルゴーニュのアウストラシアに分割され、アクィタニア人、テューリンゲン族、アラマンニ族がこの変化する状況下に置かれた。この大帝国はクロービス(466-511)の征服へと戻ったが、フランク人の相続法の下で、後継者の間で繰り返し分割されたのだった。

ダゴベルト1世は帝国全体を支配することに真剣に取り組んでいるという明確な合図を精力的に送り続けた。広範囲に渡る巡行で、彼はネウストリアとブルゴーニュの貴族を服従させた。しかし、過去に自立した生活を送ることに慣れていたオーストリアでは、貴族は再び自分たちの領主を求めた。

ダゴベルトは同意し、630年に息子のジギベルト(Sigebert)に王冠を託した。

ダゴベルト1世が居住地をルーアンからパリに移したという事実は、父親の政策からの決別として理解することができる。パリ北部のサンドニに、パリの守護聖人である聖ディオニュシウス(Dionysius)に捧げられた大聖堂を建設するという案は、歴史的に重要な決定であった。ダゴベルト1世の墓を収容することを目的としただけでなく、10世紀以降ほとんどすべてのフランス王の埋葬地となった。

ダゴバートは当初、新しい収入源を見つけることによって王権の力を強化するために多大な努力をした。それは教会である。ダゴバートの精力的な国内政策として、新しい課税源を開き、そこから豊かで影響力のある教会を排除しなかった。教会からの税収により、ダゴベルトが富を拡大したことも批判されている。またダゴベルトは立法者として、「多くの悪行者を剣により処罰する」ことによっても功績を残したとされる。

強力な宮宰であるピピンの権限を剥奪されたため、当初一族は深刻な挫折を受け入れる必要があった。

しかし、貴族の抵抗は強まっていった。クロービスと共に、彼はネウストリアとブルゴーニュの王として別の息子を使う必要があった。

モラビアのサモ王国(Samo)に対する軍事遠征も大失敗に終わった。631年、現代でもまだ地理的な場所が特定されていないヴォガスティスブルク(Wogastisburg)と呼ばれる場所で、フランク人はサモ率いるスラブ人相手に壊滅的な敗北を喫した。その結果、ソルブ人が台頭し、現在のテューリンゲン一帯を中心とした東部の多くの領土が失われた。

その後、ダゴベルトは怠惰な生活を送るようになったと言われる。数人の妻と多くの妾を持ち、そのうちの何人かは名前さえ知らなかったと言われている。彼は姦淫にふけったが、そういった生活が彼の早逝に影響したかどうかは推測の域を出ない。

ダゴベルトの死により、ピピンはジギベルトの宮宰を引き継ぐことで見事なカムバックを遂げることができた。その後の数年間に王冠を身に着けたのは主にメロヴィング朝の未成人であったため、(後のいわゆる)カロリング朝は権力の地位をさらに拡大することができ、実際の王位の背後に君臨すつ支配者となった。

カール・マテルの息子であるピピン(小)は、最終的に751年に最後のメロヴィング王を退位させ、カール大帝の下で帝国となったフランク帝国の第2王朝を樹立した。

この進展により、ダゴベルト1世に対する評価も結果的に大きく変化したのであった。彼は帝国全体に王族の力を行き渡らせた最後の支配者であり、領土に繁栄と平和をもたらした「善良王」とな呼ばれるようになった。

参考:

welt.de, “Er kannte nicht einmal alle Namen seiner Konkubinen”, 19.01.2022, Florian Stark, https://www.welt.de/geschichte/kopf-des-tages/article236325001/Frankenkoenig-Dagobert-I-Er-kannte-nicht-alle-Namen-seiner-Konkubinen.html

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