19世紀最大の謎

アンスバッハ

ニュルンベルクから南西に約50㎞にアンスバッハという小さな町がある。フランケンへーエ自然公園があり、市内にはレジデンツ(王宮)や聖グンベルトゥス教会など見どころが多い。町の中心地に近いプラーテン通り(Platen str.)を曲がると、うつむき加減に佇む男の銅像が目に入る。この像のモデルはカスパー・ハウザーという人物だ。その記念碑には《ここに謎にみちた男が謎にみちた方法で殺害された。》(Hic occultus occulto occisus est)とだけ記されている。

アンスバッハにあるカスパー・ハウザーの像

事の発端は200年前に遡る。1828年5月26日のニュルンベルク。この日は聖霊降臨祭というカトリックの祝日であったため、商店は店を閉め、町には人がほとんどいなかった。ヴァイクマン(Weickmann)という靴職人の親方がペグニッツ川の畔にあるウンシュリット広場(Unschlittplatz )に出かけたところ、そこで奇妙な歩き方をする少年を発見する。薄汚い身なりでどこかおびえたような立ち振る舞いであった。不審に思ったヴァイクマンは少年にいくつか質問をしてみたものの少年はまともに答えられなかったため、ヴァイクマンは念のため少年を警察の詰所へと連れていくことにした。しかし、警察が質問をしても一向に要領を得ない。そこで警官は少年に紙と鉛筆を渡してみると、少年はぎこちなく鉛筆を動かしはじめた。紙には「カスパー・ハウザー」とだけ書かれてあった。

カスパー・ハウザー
写真:Wikipedia

カスパーの存在はニュルンベルク市長、ヤコブ・フリードリッヒ・バインダー(Jakob Friedrich Binder)の知るところとなり、孤児として市当局に保護されることになる。カスパーは発見されたとき、一枚の紙を手に持っていた。その手紙には「カスパーは1812年4月30日に生まれた。」と書かれてあった。手紙の情報が正しければ、カスパーは発見当時16歳だったことになる。

カスパーの出自の謎は深まるばかりだったが、その疑問もさることながら、人々が驚いたのはこの少年が身に着けていた特殊な能力であった。驚いたことに、カスパーは暗闇でも聖書を読むことができただけでなく、色彩も判別できたという。金属を握っただけで鉄や真鍮などその材質を言い当てたり、遠く離れたクモの巣に獲物がかかっていることを察知するといった、一種オカルト的とも呼べる「超能力」を発揮したのだ。しかし、この驚異的な能力は、カスパーが一般的な食事や普通の生活に順応するにつれて徐々に失われてしまう。

カスパーは特種な能力を発揮する一方で、通常の生活を送っていれば身につく常識や人間らしさは持ち合わせていなかった。そこから想像できるのは、カスパーは幼少の頃からかなりの長期間に渡って人との接触を絶たれ、監禁状態にあったのではないかということだ。ニュルンベルク市長のバインダーも、ハウザーが何年もの間光の入らない地下室で外部との接触が全くない孤独な状態で成長させられたという見解に至った。「彼は狂気でも愚かでもなかったが、すべての人間と社会の教育から強引に引きはなされ、野生児のように育てられた」とバインダーは述べている。

ヴュルツブルクの医師、ダウマー教授(Georg Friedrich Daumer)はカスパーに並々ならぬ関心を示し、ほぼ毎日彼の元を訪れ、教育を施すことになる。ダウマーはカスパーに読み書きや算数を教えた。驚いたことに、普通の小学生であれば習得までに数年かかる知識をカスパーは短期間で吸収し、わずか数ヶ月後には言葉を流暢に話すようになっていたのである。しかし、こういった人並外れた知識の吸収は、「実はカスパーが最初から狡猾な嘘つきで、周りを欺いていたのではないか」という疑念も生んだ。

1829年10月17日、ダウマー教授のアパートでカスパーに殺人未遂事件が起こった。額を切られ、流血していたカスパーは彼に危害を加えた犯人が「黒人」がであったと証言した。カスパーは家へ入るところを襲われたと言ったが、現場に残された状況と照らし合わせるとカスパーの証言と食い違うのである。床に残った血痕から判断すると、玄関で暴漢に襲われたカスパーは、他の人が滞在していた家の上層階へ行き助けを求めるでもなく、まず2階へと逃げ、そしてなぜかまた1階へと戻ってきている。暴漢に襲われてパニック状態にあったにせよ、カスパーの行動には不可解な点があった。

1832年の初め、すでに20歳になっていたカスパーは、アンスバッハに住むヨハン・マイヤー(Johann Meyer)の世話を受けることとなった。1833年12月14日、カスパーはアンスバッハの宮廷公園の中庭にいたところを正体不明の男に刺されたのだ。カスパーは襲撃した男を「黒髪で黒い口ひげを生やした男」だと説明した。他に目撃者はいなかった。ルートヴィヒ1世は、加害者を捕まえるために10,000ギルダーの報償金を懸けたが、犯人発見には至らなかった。負傷したカスパーは3日間生き長らえたが、1833年12月17日、刺傷が原因で短い人生を閉じた。

しかし、この死因に対しても疑いの目が向けられることとなる。警察当局は、カスパーの死因が「自殺する意図のない自傷行為」によるものであったとの見解を示している。つまり死ぬつもりはなかったが、自らを刃物で突き刺したところ、それが致命傷になったというのだ。

この突然の不幸な死と、謎めいた出生のために、カスパーハウザーについては、悲しく陰惨な話が流布されることとなった。もっとも有名なものは、カスパーが1812年に生まれたバーデン大公の王位継承者で、赤ん坊の頃に別の赤ちゃんと入れ替えられたというものだ。

1812年9月29日、カールスルーエ宮殿にて、バーデン大公妃であるステファニーは夫であるバーデン大公、カール・フリードリッヒとの間にできた待望の男子を出産している。この子が健康に育てば、バーデン大公位継承者となることは確実だった。

しかし、ここにバーデン大公家に跡継ぎが生まれたことをよく思わない人物がいた。夫カール・フリードリッヒの愛人、ルイーゼ・カロリーネである。カールはこの愛人との間にも4人の子供を設けていた。ルイーゼ・カロリーネは考えた。もし夫とその前妻との間に男児が生まれなければ、自分の子供にバーデン大公位が巡ってくる。そう考えているうちに、息子をなんとしても大公にしたいという思いはますます強くなるのだった。しかし、夫と正妻の間には男子が生まれてしまった。その子供を赤ん坊の遺体と取り換え、産褥で亡くなったことにすれば、バーデン本家の男系は途絶える。そう考えたルイーゼ・カロリーネの手の者が赤ん坊の取り換えを計画を実行したとしたら。

結局、ステファニーが産んだ男児は死産する。あるいは、そのように仕組まれる。

この説の生みの親は、アンスバッハ控訴裁判所の裁判長であるアンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハ(Anselm Ritter von Feuerbach)であった。1832年、フォイエルバッハは、カスパー・ハウザーが1812年に生まれたバーデンの正統な王位継承者であるという結論を下している。しかし、事はバーデン大公国に関わるデリケートな問題であり、フォイエルバッハ自身も自説が穿ったものであることを自覚していたのか、発表を差し控えている。この説は、20年後の1852年にフォイエルバッハの息子によって発表されている。

しかし、バーデン大公家継承問題にからむ赤ん坊取り替え説に関してはいくつかの論理的矛盾がある。母親であったステファニーは1812年にわずが23歳であり、王位継承者を始め、まだ多くの子孫を残す可能性があった。実際、当時、ステファニーには2人の娘とアレクサンダーという息子がいた。アレクサンダーは2歳に満たずして他界してしまうが、ステファニーがその後もさらなる王位継承者を産む可能性は多分にあった。つまり、長男だけを別の赤ん坊と取り換えたとしても、バーデン大公位がルイーゼ・カロリーネの息子に回ってくる可能性は極めて低いのだ。

確かに、実際にはステファニーは二人目の男児アレクサンダーと死別した後は公位継承者を妊娠することはなかった。そして、1783年にステファニーがが死去すると、カール・フリードリッヒは本家に男児が誕生しなかった場合に、愛人であったカロリーネ・ルイーゼの子供が公位を継承できるよう、1787年11月24日、カロリーネ・ルイーズと結婚している。これはバーデン大公家の血を絶やさないようにするための当然の処置であり、これは神聖ローマ皇帝フランツ2世にも承認され、特許状まで発行された。この処置によりカロリーネ・ルイーゼ自身には選帝侯妃などの称号は与えられなかったが、大公妃として相応しいホッホベルク伯爵夫人という名前が与えられた。結果、バーデン大公位は、カール・フリードリッヒとカロリーネ・ルイーゼの息子であるレオポルトが継承している。

このいきさつを見て、市民はこう考えたのではないだろうか?身分の卑しい市井の女がバーデン大公を誘惑して、4人もの私生児を設けた。運よく、本家の男系が途絶えた為、女は貴賤結婚にもかかわらず、ホッホベルクなる高貴な名前を与えらた。そして息子がまんまと大公位を継承。自らは大公の母に収まった。カロリーネ・ルイーゼにとっては幸運が重なったことで、市民はカロリーネが仕組んだに違いないと考えたのではないだろうか?そして、裁判長であったフォイエルバッハという権威が、この説に信憑性を与える。市民はますます「悪女」カロリーネの悪だくみを疑いだす。

もうひとつの疑問点は、ホーエンベルク伯爵夫人となったカロリーネ・ルイーゼが息子の王位継承に関する秘密を永遠に闇に葬りたいのなら、なぜ取り換えた赤ん坊を殺害せず、生かし続けたのだろうか?さらに不可解なのは、16年間も閉じ込めておいたカスパーをなぜ突如開放したのだろうか?さすがに幼児の殺害をためらった為だとしても、子供のうちに養子に出すなど、もっと目立たない方法がいくらでもありそうである。その方がよほど計画漏洩の危険性が少ない。つまりホーエンベルク伯夫人が事件の首謀者であった場合、その犯行動機は極めて論理性に欠け、カスパーの解放にいたってはデメリットしかないのである。

そして、謎は一向に解決されないまま140年の歳月が流れる。この年月とその間の科学技術の発展が新たな検証方法を可能にしていた。DNA鑑定である。カスパーが殺害された日に身に着けていたズボンには血痕が残っていたが、そのズボンを含む複数の衣類が博物館に保管されていたのだ。1996年、カスパーのDNA鑑定が行われることになった。法医学の医師たちはカスパーの衣服から遺伝子を取り出し、それをバーデン王家の子孫のものと比較した。

DNA鑑定の結果は、「不一致」であった。

これにより、カスパーとバーデン大公家との関わりが完全に否定されたかに思われた。しかしその5年後に行われたテストでは、カスパーのズボンに付着していた血痕がそもそもカスパーのものではなかったことが判明したのだ。カスパーの衣服を保管していた博物館のスタッフが衣服に付着した血液の跡を劇的に見せるため、衣服に全く別の血液を加えていたのだ。

バーデン大公家の陰謀説を立証するには、カスパー・ハウザーの衣服から採取したDNAデータではなく、彼と交換されたと思われる赤ん坊のDNAデータを確認する方法もある。この赤ん坊のDNAがバーデン家のDNAと一致しなければ、赤ん坊が取り換えられたという説にも俄然信憑性が出てくる。そして、その赤ん坊の遺骨はまだプフォルツハイムにあるバーデン家の地下霊廟に安置されているのだ。DNA鑑定への期待は一気に高まった。しかしバーデン大公家は安らかに眠る死者への敬意を尊重するとしてDNA鑑定の実施を拒否したのだ。またバーデン大公家は、同家に伝わる文書の公開も拒否しており、関連する文献の調査も行き詰まりを見せていた。

では、埋葬されたカスパー・ハウザーの骨からDNAを採取し、バーデン家のものと比較する方法はどうか?この案も考えられたが、実現されなかった。 カスパーの墓があるアンスバッハの墓地は1945年に爆撃で破壊されており、墓石の下に埋葬されている骨がカスパー本人のものだとは断定できないのである。

しかし、2002年になってもう一度、真相解明のチャンスが巡ってくる。研究チームはカスパーが愛用していた帽子に付着していた髪の毛を採取し、再度DNAテストを行ったのだ。テスト結果は関係者を驚かせた。

遺伝子情報はバーデン家直系の子孫のものとほぼ一致したのだ。

だが、この検査結果をもってしても真相究明とはならなかった。前回の血液による鑑定同様、帽子に付着した髪の毛が間違いなくカスパーのものであるとは断定できないからだ。科学的な鑑定手法を用いても、カスパーがバーデン大公家の王位継承者であったという決定的な決め手にはなることはなかった。

しかし、多くの謎が未解決であるために、カスパー・ハウザーが現在に至るまで多くの関心を引き付けているのもまた事実であり、彼に関する著作や演劇、銅像を挙げれば枚挙にいとまがない。

カスパー・ハウザーが殺害されたとされるアンスバッハの公園にはカスパーの記念碑が建てられたほか、アンスバッハを中心にカスパーの銅像が建てられている。またカスパーが命を落としたアンスバッハでは、1998年以降、2年に一度カスパー・ハウザーをテーマに据えた《カスパーハウザーフェスティバル》(Kaspar-Hauser-Festspiele)を開催している。1974年には西ドイツ製作で映画も作られた。この映画はドイツ内外で高い評価を得、第28回カンヌ国際映画祭では監督のヴェルナー・ヘルツォークが審査員特別グランプリを受賞した。

地下室で育てられた野生児なのか、全ては彼の狂言だったのか?バーデン大公家の後継者だったのか?一体誰が何の目的で殺害したのか?数々の謎を残してカスパー・ハウザーはこの世を去り、真相は現在も闇の中である。

『カスパー・ハウザーの謎』(1974年)
  ヴェルナー・ヘルツォーク監督
原題:JEDER FUR SICH UND GOTT GEGEN ALLE
      『カスパー・ハウザー』(1993年)
     ピーター・ゼア監督 (Peter Sehr)
    原題:Kasper Hauser

参考:

Stadt Ansbach, “Kasper Hauser”, https://www.ansbach.de/Freizeit-G%C3%A4ste/Kunst-Kultur/Festspiele/Kaspar-Hauser-Festspiele/index.php?object=tx%7c2595.12741.1&NavID=2595.104&La=1

Welt.de, “Das schaurige Geheimnis des Kaspar Hauser”, Jan von Flacken, 22.12.2010, https://www.welt.de/kultur/history/article11072984/Das-schaurige-Geheimnis-des-Kaspar-Hauser.html

Web.de, “Kaspar Hauser: Die unglaubliche und rätselhafte Geschichte des berühmten Findelkindes”, Claudia Frickel, 10.08.2016, https://web.de/magazine/wissen/mystery/kaspar-hauser-unglaubliche-raetselhafte-geschichte-beruehmten-findelkindes-31796440

コメント

タイトルとURLをコピーしました