アルプスの白い頂を遠くに望み、イーザル川の清烈な流れが市街を貫くバイエルンの都ミュンヘン。
活気あふれるマリエン広場の中心に立てば、新市庁舎の仕掛け時計が刻むリズムとともに、この地を700年以上にわたって統治したヴィッテルスバッハ家の栄華が肌に伝わってくる。
しかし、この麗しき「芸術の都」がバイエルンの、ひいては帝国の中心として不動の地位を築くまでには、血で血を洗う骨肉の争いと、中世騎士道の終焉を告げる凄惨な決戦があった。14世紀初頭、バイエルンの命運を賭けてハプスブルク家という巨人に挑んだ一人の男、ルートヴィヒ4世の物語である。
13世紀末、帝国はハプスブルク、ルクセンブルク、そしてヴィッテルスバッハという三つの名家が皇帝位を奪い合う激動の時代にあった。1291年にハプスブルク家のルドルフ1世が没した後、選帝侯たちは同家の強大化を恐れ、あえて力の弱いナッサウ家のアドルフを擁立する。
だが、私利私欲に走ったアドルフは短期間で支持を失い、結局はルドルフの息子アルブレヒト1世が帝位に就いた。
さらに1308年に彼が暗殺されると、今度はルクセンブルク家のハインリヒ7世が選ばれるが、彼もまた遠征先のマラリアで急逝する。帝国の頂は、常に霧に包まれていた。
ハインリヒ7世の死後、事態はついに決定的な対立へと発展する。ハプスブルク家は「美王」と称されたフリードリヒ3世を、ルクセンブルク家は自家の候補を下げ、オーバーバイエルンのヴィッテルスバッハ家からルートヴィヒを推した。奇しくも二人は、偉大なるルドルフ大帝を祖父に持つ従兄弟同士であった。

両者の確執を決定づけたのは、バイエルン内部の相続争いである。ニーダーバイエルンの公爵たちが相次いで世を去ると、ルートヴィヒはその幼き息子たちの後見職を盾に、ランツフートなどの重要都市を次々と占拠した。
この強引な領土拡大に危機感を募らせた現地の貴族や未亡人たちが、ハプスブルク家のフリードリヒに救援を求めたのである。1313年、ガンメルスドルフの地で両軍は激突した。小規模な衝突ではあったが、ルートヴィヒはこの戦いでハプスブルク軍を完膚なきまでに叩きのめし、バイエルンにおける自らの支配権を鮮烈に示した。
翌1314年、舞台はフランクフルトでの皇帝選挙へと移る。10月19日、ハプスブルク家のフリードリヒ3世が選出されるが、その票の中には、あろうことかルートヴィヒの実兄であるパルツ伯ルドルフ1世が投じた一票が含まれていた。肉親の情を捨て、弟の宿敵に加担した兄の裏切りは、ヴィッテルスバッハ家内部の深い断絶を白日の下にさらしたのである。
伝統の地アーヘンが入城を拒んだため、フリードリヒの戴冠式はケルン大司教の手によりボンで強行された。
一方、その翌日にはマインツやボヘミアの支持を得たルートヴィヒが選出され、こちらは正統な地アーヘンで戴冠を行う。正統な儀礼を司る大司教に冠を授かったフリードリヒか、正統な場所で戴冠したルートヴィヒか。
この異常事態に対し、裁定を委ねられた教皇ヨハネス22世は、解決を急ぐどころか両家を巧みに天秤にかけ、自身の利益のために紛争を放置した。
ルートヴィヒは選帝侯の支持を繋ぎ止めるため、マインツやボヘミアに対して領土を割譲する苦渋の決断を強いられる。この譲歩は、実弟との対立に燃える兄ルドルフをさらに刺激し、彼は公然とハプスブルク派へと身を投じた。
こうして「二人の皇帝」を巡る争いは、兄弟の憎悪を孕みながら、八年もの長きにわたって帝国の土を血に染め続けたのである。ー そしていよいよ決戦の時 ー
イン川の支流イセン川が流れるミュールドルフの北東。戦場にはバイエルン・ボヘミア連合軍1,800人に対し、オーストリア軍1,400人と別動隊1,200人が対峙した。

数時間に及ぶ激戦の末、午後三時頃に勝敗は決した。ルートヴィヒ率いるバイエルン軍の圧倒的な勝利であった。世に言う「ミュールドルフの戦い」である。これは、銃器が戦場を支配する前の時代における、騎士同士の集団突撃による最後の大規模な合戦として歴史に刻まれている。
戦場には4,500人を超えるハプスブルク兵の遺骸が積み上がり、3,000頭以上の軍馬が物言わぬ骸となった。敗れたフリードリヒ美王は捕虜となり、トラウスニッツ城に三年もの間幽閉されることとなる。
この勝利によってルートヴィヒ4世の地位は不動のものとなり、敗北したハプスブルク家はその後約一世紀にわたり、帝国の表舞台から姿を消す屈辱を味わった。
今、ミュンヘンの旧市街を歩けば、街の北門である「ジーゲストー」や、かつてルートヴィヒが居城とした「アルテ・ホーフ」が、当時の勝利の余韻を静かに伝えている。
夕暮れ時、街のシンボルであるフラウエン教会の玉ねぎ型の塔を見上げれば、かつて鉄の鎧を纏い、この街の未来を懸けて草原を駆けた騎士たちの咆哮が、バイエルンの乾いた風に乗って今も聞こえてくるかのようである。
参考:
muehldorf.de, “»1322« Die letzte große Ritterschlacht”, https://www.muehldorf.de/v158-9751-1322_die_letzte_grosse_ritterschlacht.html
bavarikon.de, “Schlacht von Mühldorf, 1322”, Karl Borromäus Murr, https://www.bavarikon.de/object/bav:BSB-HLB-00000000HLB45488?lang=en




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