恋に落ちた大司教

ケルン

1577年12月5日、ケルン大聖堂で新しい大司教を選ぶ選挙が行われた。候補者は2名。バイエルン公アルブレヒト5世の末息子エルンストとヴァルトブルクの司教、ゲープハルト2世である。

マクシミリアン皇帝とグレゴリウス13世は、エルンスト・フォン・バイエルンを支持。しかし、大司教を選出する聖堂参事会のメンバーは今後も司教を選出する権利を失いたくなかった為、歴代大司教の位に次々と後継者をごり押ししてきそうな強力な公爵家から大司教を選出することは避けたかった。プロテスタントへ改宗した参事会員も、いずれにしてもカトリックの候補者から大司教を選ばなけれがならないのなら、ヴィッテルスバッハ家のような強大なカトリックの擁護者を選ぶことを避け、エルンストに反対票を投じることにした。 (ヴィッテルスバッハ家の影響力拡大を避けたいハプスブルク家のマキシミリアン帝はエルンストの選出に反対であったとも言われる。)

様々な思惑が入り混じった選挙の結果、得票数はゲープハルトが12票。エルンストが10票を獲得し、1577年12月5日、ゲープハルトが新大司教として選出されることとなった。ヴィッテルスバッハ家の強力な候補を退け、見事、大司教の地位を得たゲープハルトの人生は前途洋々かのように見えた。しかし、ここで彼の人生に思いもよらなかった大きな変化が起こる。

ゲープハルトはアグネス・フォン・マンスフェルト=アイスレーベン( Agnes von Mansfeld-Eisleben)という名の美しい修道女に恋したのだった。アグネスは、現在デュッセルドルに属するゲルスハイム修道院ならびにエッセン女子修道院の女性律宗司祭であった。大変な美貌を誇ったようで、そのダークブラウンの目にゲープハルトは虜になった。しかし、問題は彼女と実家である伯爵家が、熱心なプロテスタントであったことである。アグネスの家族もゲープハルトとの逢瀬に反対したが、反対され、さらに燃え上がった二人の感情は、ゲープハルトに大きな決断を下させる。ゲープハルトはアグネスとの結婚を決意。そしてカトリックからプロテスタントへの改宗も決断した。1582年、公式に改宗を宣言、翌1583年2月2日、アグネスとボンで結婚した。結婚は、プァルツ宮中伯ヨハン・カジミール(1543-1592)からの手紙に刺激された可能性がある。宗派をカトリックからプロテスタントに宗旨変えし、アグネスと結婚した後でさえも、ケルン大司教としての地位と名誉を保持できる可能性があるとヨハン・カジミールはゲープハルトにそそのかしたのだった。しかし、これは1555年のアウグスブルク宗教和議に明確に違反していた。アウグスブルク宗教和議の規定によると、宗派の変更は大司教の権利であるが、変更した場合は、大司教としての権利、所有物は放棄する必要があった。

実は、ゲープハルトの事件から遡ること50年前、ケルン大司教のヘルマン5世(Hermann von Wied)という人物が、ケルンの宗派をプロテスタントに変えようとしたことがあった。1536年以降、ヘルマン5世は、ケルン大司教のカトリック教義を改革し、プロテスタントとカトリックの間の分裂をなくすことを考えていた。ギルドや町民、貴族からの支持は途切れることはなかったが、結局は彼の試みはとん挫し、ヘルマン5世が大司教を退位することによって、かろうじて両陣営の戦争は回避されたのだった。このことはゲープハルトの決定がいかに大論争を巻き起こすか、すでに暗示していたことにもなる。

事実、ゲブハルトの決定は広範囲にわたる結果をもたらした。この時代、神聖ローマ皇帝の位は事実上カトリックであるハプスブルク家の世襲となっていた。皇帝を選出する権利のある7人の選帝侯のうち、過半数に当たる4名はカトリックであり、うち3名はマインツ、トリーア、ケルンの大司教であった。これらの選帝侯のうち1名がカトリックからプロテスタントに宗旨替えすることは、次の皇帝選挙の際はプロテスタントが過半数を握ることを意味していた。ゲブハルトの決定は帝国の権力構造を揺るがしただけでなく、ハプスブルク家の支配にも疑問符を投げつけた。事実、ケルンの周りはすでにプロテスタント勢力に抑えられていた。プァルツ、ザクセン、ブランデンブルクと俗界選帝侯は次々とプロテスタントに靡いており、ケルンはカトリックにとって決して手放せない最後の牙城であった。

こういった状況で、皇帝、教皇、バイエルン公らカトリック陣営が黙っているはずはなかった。まず、教皇がゲープハルトの大司教位はく奪を宣言し、破門に処した。参事会は今度はバイエルンのエルンストを新大司教に選出。ゲープハルトは大司教の地位を解任されても、選帝侯としての世俗の地位は確保したいと考えており、カトリック勢力に対抗するべく、各所に支援を要請する。プァルツ選帝侯フリードリヒ4世はゲープハルトを支持。これに対し、エルンストの兄で代替わりで同家の当主となったヴィルヘルム敬虔候も兵を集め、すぐ下の弟フェルディナントに指揮を任せた。バイエルン公家とプァルツ宮中伯家との争いとなり、両ヴィッテルスバッハ家の骨肉の争いとなった。

大司教として退陣したゲーブハルトは軍事面でもすぐに問題に直面することになる。帝国の有力プロテスタント諸侯のうち、当初援軍を差し伸べたのはプファルツ選帝侯のヨハン・カジミール選帝侯だけだった。一方、対戦相手であるケルンの新大司教となったエルンスト・フォン・バイエルンはバチカンから資金を受け取っただけでなく、スペインとバイエルン軍隊から軍事支援も得ており、ゲープハルトとは大きな差があった。ゲープハルトが逃亡したオランダからも軍隊が派遣され、反ハプスブルクのフランスも参戦。それに加え、プァルツ側はスイスからも兵を集める。対するカトリック側はスペイン軍を味方につける。オランダとスペインの戦争が舞台をドイツに移して争われる形となった。両陣営は激しい戦闘を繰り返したが、戦局はカトリック側に優位に進んだ。

戦争が開始されてから、ドイツ国内の様々な地域が略奪などの被害にあっている。《竜の血》(Drachenblut)という赤ワインで有名なドラッヘンフェルスの領主、ディートリッヒ・フォン・ミレラーはバイエルン側に立ち、カトリック側がドラッヘンフェルス城を利用できるようにした。1583年9月、宮中伯ヨハン・カジミールの軍隊はドラッヘンフェルスへの攻撃したが、失敗に終わった。1586年7月3日、ロンカースドルフ(Lonckersdorff)という村では、ケルンで毎週開かれる市場に向かう途中であった一般市民が、統制の取れていないスペイン、ケルン選帝侯側の軍隊に襲われている。また、別の記録によれば、新大司教エルンスト・フォン・バイエルンの軍隊により、ケルンでは5人に1人が虐殺され、約100人が負傷し、50人が捕虜となった。ケルンの町は恐怖に突き落とされた。その後、首謀者が数名処刑され、強盗を働いた兵士は死刑に処せられると言明されたが、強盗によって盗まれた財産が持ち主の元に帰ってくることなどなかった。

デュッセルドルの西、現在のメンヒェングラートバッハにあるライト(Rheydt)という村とその周辺地域も軍大きな被害を受けた。1586年3月、ライト村への大規模な襲撃が続き、家畜が盗まれ、民家には火がかけられ、村民は虐待され殺害された。カトリック教徒はこれらの残虐行為について激しく批判したが、虐殺やレイプ、暴力的な略奪はほぼカトリック側によって行われたとの記録もある。

オランダの同盟国であるオレンジのウィリアム1世が、ゲーブハルトの前の支持者である宮中伯ヨハン・カジミールが資金不足のために彼の7000人の兵士を撤退させ、戦線から離脱したためにプロテスタント側の劣勢は明らかとなり、バイエルン公家が勝利をものにした。

スペインとバイエルンの軍隊の勝利は、帝国の北西部におけるプロテスタント勢力による脅威を防ぎきることに成功。特にミュンスター、パーダーボルン、オスナブリュックの主教区では対抗宗教改革勢力が強力な後押しを受けた。バイエルンの新大司教エルンストはアルブレヒト5世の息子であり、ヴィルヘルム敬虔候の兄弟であったため、帝国におけるヴィッテルスバッハ家の地位も大幅に向上した。ケルン大司教の地位とそれに伴うケルン選帝侯位はヴィッテルスバッハ家のものとなった。これはヴィッテルスバッハ家にとって帝国権力の莫大な増加を意味した。ケルン大司教は1761年まで約200年間に渡りヴィッテルスバッハの手に残った。

さて、図らずもカトリックとプロテスタントの戦争の当事者となってしまったアグネス・フォン・マンスフェルトとゲプハルトはどうなったかというと、避難所としてゴデスブルクに滞在したが、バイエルンのフェルディナントによって町が征服されたとき、逃避を余儀なくされ、その後はドイツ全土で逃亡生活を送っている。二人はオランダに逃げ、最後はシュトラースブルクに行き、ゲープハルトはそこで同地区の聖堂参事会会長に収まっている。ゲープハルトは1601年にシュトラースブルクで死亡したが、妻のアグネスはその後36年も生きた。ヴュルテンベルク公の庇護の下でヴュルテンベルクに暮らし、1637年に死去。ズルツバッハに埋葬されている。

この戦争は、《ケルン戦争》または、ゲープハルトの名前をとって《トルフゼス戦争》(Truchsessischer Krieg)とも呼ばれる。1583年から1588年まで続いたこの戦争は、期間としては短かったが、ライン川下流地域を大いに疲弊させた。この戦争により諸外国はまだ疲弊していない豊かな坊主大路を荒らしまわる口実を手に入れた。ドイツはやがて三十年戦争に突入するが、すでにケルン戦争で国際戦争の様相を帯びていたことがわかる。スペイン、オランダの軍隊の関与によりドイツの宗教対立の国際化が始まり、50年後の三十年戦争で最高潮に達するのだが、その前哨戦であるケルン戦争のきっかけが大司教の恋であったことは、歴史教科書では触れられていない事実である。

参考:

themator.museum-digital.de, “Der Kölner Krieg von 1583 bis 1588/90”, https://themator.museum-digital.de/ausgabe/showthema.php?m_tid=1100&tid=1129&ver=standalone

borisogleb.de, “Der Truchsessische Krieg”, Heinrich Michael Knechten, https://www.borisogleb.de/truchsess.htm

rheindrache.de, “Truchsessischer Krieg”, https://www.rheindrache.de/truchsessischer-krieg/

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