獅子王と赤髭 | ハインリッヒとフリードリッヒ

ブラウンシュヴァイク

ブラウンシュヴァイク は、中世においては、神聖ローマ皇帝と争ったハインリヒ獅子公の拠点であった。ブラウンシュヴァイクのダンクヴァルデローデ城と ブラウンシュヴァイク大聖堂の前のブルク広場には、この町を象徴するライオンの像が建っている。このライオンの像は、《ブラウンシュヴァイク のライオン》(Braunschweiger Löwe)と呼ばれている。この像を建設したハインリッヒ獅子公こと、ハインリッヒ3世は、当時最大権力を握ったドイツの君主であった。1180年に従兄の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世にすべての領土を奪われるまでは・・・フリードリッヒとハインリッヒの確執。帝国全土を巻き込んだいとこ同士の争いは次のように始まった。

コモ湖の北にあるイタリアのキアヴェンナ市(Chiavenna)は、1176年には、ドイツのシュヴァーベン公国に属していた。ヨーロッパで最も強力な権力を誇る英雄2人が、この年の2月の初めにここで顔を合わせている。「バルバロッサ」として知られるフリードリヒ1世皇帝と、ザクセン公国及びバイエルン公国の獅子公、ハインリヒ3世だ。ここで両者による激しい議論が行われ、やがてその対立は神聖ローマ帝国に歴史的な結果をもたらすのであった。

ハインリッヒ3世がキアヴェンナに到着したとき、公は46歳の男盛りで、この頃すでに輝かしい政治的キャリアと帝国全土に鳴り響く名声を誇っていた。 1142年のニーダーザクセン、1156年のバイエルン公爵就任以来、ハインリッヒは自分の土地を賢く支配し、領地の経済を促進した。リューベックを設立し、ミュンヘンやシュヴェリーンのような都市を拡大し、今日のメクレンブルクの異教徒に対して十字軍を率いた。ザクセン州の領土はドルトムントからロストック、ハンブルクからクヴェトリンブルクに広がっていた。バイエルンはニュルンベルクから南チロルまで伸長していた。

ヴェルフェン家の公爵は皇帝に忠実な君主であることを証明するかのように、1154/55年と1159年には、いとこに当たる皇帝フリードリッヒに従い、イタリアへの軍事行動に参加した。 1152年に王に選出されたバルバロッサは、教皇やミラノ、フィレンツェの北イタリアの諸都市の強力な同盟と絶えず対立していた。 フリードリヒも苦戦を強いられ、何度かアルプスを越えてドイツに逃げ帰らなければならなかった。

繰り返されるイタリアへの軍事行動の意味とその目的は、ハインリッヒにとってますます意味をなさなくなってきた。ハインリッヒの目的は、彼の領土を経済的に強化し、東部の新境地を開拓することだった。 1172年、ハインリッヒはエルサレムへの巡礼を行い、そこで後に彼のニックネームとなる、ライオンを自家の首都ブラウンシュヴァイクへと連れて帰った。この地でその獅子を模した黄金のブロンズ像を建てた。

一方その頃、皇帝フリードリヒは再び深刻な軍事的困難に直面していた。 1174/75年の冬の間、彼は特に嫌っていたアレッサンドリアの街を包囲していた。この時、皇帝は軍資金を使い果たし始めており、北のアルプスを越えて自軍のほとんどを解散することを余儀なくされていた。この逼迫した状態になって、フリードリヒはハインリヒ獅子公に会合を申し入れた。この頃、ハインリッヒはちょうどバイエルンにおり、皇帝からのキアヴェンナへの呼びかけに従ったのだった。

キアヴェンナ での会合の席で、ハインリッヒはフリードリッヒに資金提供を約束したが、兵力の提供は断った。この対応に、フリードリヒはまずハインリヒに賛辞を送り、次に自身が置かれた状況を深刻なトーンで説明した。そして、皇帝はハインリッヒが新しく結成した軍隊の司令官として、軍事援助を行ってほしいと要請した。この要求に対して、ハインリッヒは表向きには「どんな奉仕も喜んで行う」と返答し、皇帝に金、銀、その他、軍隊に必要なすべてのものを提供する準備があると言った。しかし、そんな言葉とは裏腹に、ハインリッヒは積極的に戦闘に介入したり、軍事行動を始めるために騎士を召喚したりはしなかった。約束を違ったハインリッヒに激高したバルバロッサは、 ハインリッヒにキアヴェンナでの誓いを思い起させようと熱弁したが、ハインリッヒは、ドイツ国内に不在の皇帝へは、臣下といえども支援義務がないという法的根拠を挙げ反論したのだった。

ハインリッヒの頑ななまでの拒絶に合ったフリードリヒは、謙虚な姿勢を崩さず、さらに下手にでることにした。 なんと皇帝はハインリッヒの前に跪き、援助を求めたのだった。 この皇帝の度を過ぎた劇的なパフォーマンスはハインリッヒにとっても予想外だったので、ハインリッヒはうかつにも跪いた皇帝を立ち上がらせることを忘れてしまったのだ。 年代記者によると、その場を目撃したフリードリッヒの皇后ベアトリクス(Beatrix)は、「我が主よ、今こそ立ち上がり、この神をも恐れない傲慢さをご記憶ください!」と言ったという。

ハインリッヒはキアヴェンナを去り、まずバイエルンに戻った。 1176年5月25日、フリードリッヒ・バルバロッサと彼に付き添う少数の騎士は、ミラノ北西部のレニャーノの戦い(Schlacht bei Legnano)でロンバルディア歩兵に対して新たな敗北を喫した。 1年後、彼は和平を結ぶ必要に迫られたのだった。フリードリッヒはこの敗戦の責任を、軍事協力を断ったハインリッヒにあると結論づけた。1178年、従軍を拒否したハインリッヒへの復讐を行うべく、フリードリッヒはドイツに戻ったのだった。

翌年、皇帝フリードリッヒはハインリッヒを召喚したが、誇り高いハインリッヒはこの召喚にも応じなかった。「それは逆恨みというものだろう・・・」敗戦の責任を一手に押し付けられたハインリッヒはそう思ったであろう。イタリア遠征に取りつかれた皇帝が、勝手に戦争に出かけていき、勝手に負けて帰ってきたのだ。皇帝からの召喚命令に従わなかったハインリッヒは、1180年に帝国追放処分を受け、領土のはく奪を宣言された。フリードリッヒはイタリアからすべての軍隊を撤退させ、ケルン大司教などのハインリッヒの敵と同盟を結び、ハインリッヒを討つべく、ザクセンへと入った。公爵は2年間抵抗したものの、結局は、妻の実家であるイギリスに亡命することを余儀なくされたのだ。

この一連の流れはハインリヒ3世にとっては自家の命運にかかわる大きな出来事であったが、ドイツ史においても重要であった。フリードリヒ1世は、自身に軍事援助を行った家臣たちへ、その報酬として解体したハインリッヒの領土を分け与えた。ここに広大を誇ったザクセン公国は、領土分割の憂き目を見るのだった。

ドイツ300諸侯と言われるドイツ領土の分断はここに始まったと言える。ハインリッヒの誇り高い帝国は、アンハルト(Anhalt)からブラウンシュヴァイクまで、メックレンブルク(Mecklenburg)からクレーベ(Cleve)とホルシュタイン(Holstein)まで、継ぎ接ぎだらけになってしまった。 ケルンテン(Kärnten)とシュタイアーマルク(Steiermark)はバイエルン公国から切り離され、オーストリアへと編入された。 今後、ウィーンとミュンヘン間に見られる対立構造もこの時に出現したといえる。 この時に起こった大規模なドイツ国内の領土再編は、フリードリッヒとハインリッヒ、このいとこ同士の確執に端を発したのだ。

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