フランツ・フォン・シッキンゲンのナンシュタイン城

ラントシュトゥール

ラインラントプファルツ州のラントシュトゥール(Landstuhl )にある、中世に建設されたナンシュタイン城(Burg Nanstein)の遺跡は、その歴史を12世紀にまでさかのぼる。 城が現在も有名であるのは、16世紀にその所有者であった伝説的な騎士フランツ・フォン・シッキンゲンに負っている。騎士の一族に生まれたフランツ・フォン・シッキンゲンは、1481年3月2日にエーベレンベルクで生まれた。

帝国の城としてのナンシュタイン城の創設は12世紀の半ばに行われたと考えられる。ナンシュタイン城は、1189年にバルバロッサの息子ハインリヒ6世からの文書で最初に言及された。

1400年には、ナンシュタイン城には同時に5人の共同所有者がいたが、1479年、プファルツ選帝侯のシュヴァイクハルト8世・フォン・シッキンゲン(Schweikhard VIII von Sickingen)がナンシュタインの4分の1を相続したとき、財産統合が始まった。これは1518年に、 シュヴァイクハルト8世 の息子であるフランツ ・フォン・シッキンゲン が、巧みな交渉と戦術によって、ラントシュトゥールの領地と城を獲得した。父の死により、フランツは唯一の相続人として大金を受け取り、ラントシュトゥール近くのエーベレンベルク城やナンスタイン城を含む他の土地を相続した。フランツはすぐにナンシュタイン城を軍事的に武装させることに着手した。

初期のナンシュタイン城は窮屈で、生活する上で快適ではなく、ローマ皇帝フリードリッヒ1世が拠点を置いたカイザースラウテルンの帝国宮殿(Kaiserslautern)のような広大で壮麗な場所で、軍事を担当していた帝国の重臣にとっては十分ではなかった。フランツ・フォン・シッキンゲンのようなタイプの帝国騎士にとって、この城はふさわしい場所ではなかった。

数々の軍事的奉仕と私闘によって裕福だった強力なフランツ・フォン・シッキンゲンが、なぜナンスタイン城を本部とし、そのように拡張したのかと疑問に思うかもしれない。それには戦略的な理由があった。一方では、ロレーヌ地方の塩採掘場への重要な交易路の場所と管理が重要であった。一方、フランツ・フォン・シッキンゲンにとって、ナンシュタインの支配は、プファルツ南部-アルザス地方(ホーエンブルク、ドラッヘンフェルスを含む)に散在する彼の土地と、さらに北の彼の居城エーベレンベルク城の中間に位置する要所であった。

1518年からの拡張工事は、ナンシュタイン城を戦闘に適したものにすることを目的としていた。この目的のために、《グレートロンデル》(Große Rondell)と呼ばれた当時最強と考えられていた要塞を建築するために、防御壁の大部分を取り壊さなければならなかった。

銃による防衛装備の建設により、地形的な不利は補われ、同時に、南西への防御を強化するために別の小さな要塞が建設された。 防御壁の残りの部分に砲郭(火砲が発射される要塞化された砲の据え付け装甲構造)が挿入された。この頃、壮大な騎士の広間と装飾的な窓を備えた新しいホール、大きなキッチンを備えた建物などが建設された。

しかし、1523年には、ナンスタイン城に突然の終焉が訪れた。なぜなら、1522年、 シッキンゲンは、《司祭の戦争》(Pfaffenkrieg)や《プァルツの騎士の蜂起》(Pfälzischer Ritteraufstand)と呼ばれる、トリアー選帝侯に対する私闘に失敗し、 帝国アハト刑(帝国追放刑)に処せられたからだった。トリーア大司教、プファルツ選帝侯、ヘッセン方伯の連合軍は包囲網を形成し、シッキンゲンが引きこもったナンスタイン城に、当時としては前代未聞の一日600発とも言われる大量の大砲を打ち込んだ。9日間に及ぶ包囲戦は、シッキンゲンの死によって終結した。シッキンゲンは、砲撃によって、肺と肝臓を負傷し、それがもとで死亡したと言われる。

シッキンゲンの息子たちは、破壊から20年後に再建を開始することを許可された。 1590年までに、彼らはナンシュタイン城をルネッサンスの城へと作り変えた。現在は建物だけが残っている。シッキンゲン家が1643年に追放された後、ロートリンゲン公は城を占領した。 1668年になって初めて、プァルツ方伯カールルートヴィヒ(Karl Ludwig)が主導権を握り、戦いの後にロートリンゲンの残党を追い出した。 それから選帝侯は要塞を破壊させた。 1689年、ナンシュタイン城は他のプファルツの城と運命を共にし、プァルツ継承戦争の間に破壊された。 それ以降、19世紀まで、城跡は採石場として使用された。

参考:

burgen-pfalz.com, “Geschichte des Nanstein”, https://burgen-pfalz.com/burgenkatalog/nanstein/nanstein-geschichte-kompakt/

welt.de, “Der Ritter als Staatsfeind, Killer – und Held”, Eckhard Fuhr, 29.05.2015, https://www.welt.de/geschichte/article141611748/Der-Ritter-als-Staatsfeind-Killer-und-Held.html

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