ヘッセンの町を歩いていると、宗教改革という巨大な歴史のうねりが、決して抽象的な理念ではなく、具体的な人間の選択と欲望の積み重ねであったことに気づかされる。
たとえばマールブルクの丘に建つ大学――石造りの建物と静かな中庭を持つこの場所は、学問と信仰の刷新を象徴する場として知られているが、その背後には、理想と同じくらい強烈な「個人的な事情」が存在していた。
その中心にいたのが、ヘッセン方伯フィリップ1世(Philipp von Hessen)である。

彼は宗教改革の大立役者として知られる。いち早くプロテスタントの教義を支持し、自領を改革へと導き、1527年にはドイツ初のプロテスタント大学であるマールブルク大学を創設した。
さらに、カトリックの守護者である神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V.)に対抗するため、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(Johann Friedrich von Sachsen)らと共にシュマルカルデン同盟を結成し、1546年にはついに武力衝突(シュマルカルデン戦争)へと突入する。
信仰と政治、その両面において時代を動かした人物であった。
だが、このフィリップは、宗教改革の精神的指導者であるマルティン・ルター(Martin Luther)に、極めて厄介で、しかも前代未聞の問題を突き付けることになる。
1539年12月、ルターのもとに届いた手紙には、信じがたい内容が記されていた。ヘッセン方伯フィリップ(Philipp von Hessen)が、二人の妻と同時に結婚したいと望んでいるというのである。
しかも彼は、その結婚に対する「祝福」をルターに求めていた。
キリスト教世界において重婚は明確に禁じられている。それにもかかわらず、フィリップはこの計画を正当化するため、過去の前例を探し出していた。その中で彼が持ち出したのが、グライヒェン伯爵の伝説である。すなわち、教皇グレゴリウス9世(Gregorius IX.)が重婚を認めたという逸話であった。
フィリップはすでに1523年、ザクセン公家のクリスティーネ(Christine von Sachsen)と結婚していた。典型的な政略結婚であり、両家の関係強化を目的としたものであった。結婚当初は円満で、二人の間には7人の子供が生まれている。
しかし17年後の1540年、フィリップは宮廷女官マルガレーテ(Margarete von der Saale)に激しく心を奪われた。彼女はわずか17歳。フィリップはこの若い女性との結婚を決意する――最初の結婚を維持したまま…

とはいえ、彼もまた現実を理解していた。ザクセン家との結婚を解消することは政治的に不可能であり、すでに後継者も存在する。ではどうするか ー
その答えとして彼が導き出したのが「重婚」という選択だったのである。そして、その正当性を確保するために、ルターへの手紙が書かれた。
手紙の中でフィリップは旧約聖書を引用し、一夫多妻の例を並べ立て、自らの結婚の不幸を強調した。35歳の彼は、自身の結婚には「情熱がない」と述べ、妻クリスティーネを「無愛想で醜く、さらには匂いまでひどい」と酷評している。実際のクリスティーネがそのような人物であった証拠はないが、少なくとも夫婦関係が破綻していたことは明白であった。

興味深いことに、クリスティーネ自身はこの異例の計画に同意している。どのような説得がなされたのかは不明だが、政治的・家庭的な均衡を保つための決断であった可能性が高い。
フィリップが正当化のために持ち出したグライヒェン伯爵の物語は、次のようなものである。1227年、エルンスト伯爵が十字軍遠征の途上でイスラム教徒の女性と恋に落ち、彼女を第二の妻として迎えた。
二人はローマへ赴き、教皇グレゴリウス9世から正式な許可を得たという。そして帰国後、最初の妻ベルタ・フォン・オルラミュンデ(Bertha von Orlamünde)はこの関係を受け入れ、三人は調和の中で暮らした――という筋書きである。

しかし、この話は史実としては極めて疑わしい。エルンスト伯は実在し、確かに十字軍にも参加しているが、その年代は1221年であり、1227年ではない。さらに、教皇グレゴリウス9世が即位したのは1227年であるため、彼が結婚を認可したという時系列は成立しない。また、三人が共に暮らしたという記録も存在しない。
マルガレーテへの愛情に突き動かされたフィリップは想像力を存分に働かせ、このグレイヒェンの話を歴史的事実としてルターに説明したと考えられる。このグレイヒェン伯爵の話が有名になったのは、 18世紀のワイマールの作家、ヨハン・カール・アウグスト・ムゼウス(Johann Karl August Musäus)の《マレクサラ》という作品による。

ムゼウスは名前が伝わっていなかったイスラム教徒の女性にマレクサラ(Malechsala)という名前を付けているが、マレクサラという名前は、どことなくフィリップの2番目の妻、マルガレーテ・フォン・ザーレを短縮した名前のようにも聞こえる。
おそらくフィリップは、エアフルトのピータース修道院(Peterskloster)で見た墓石――二人の女性像と共に描かれた伯爵の姿――から着想を得て、この物語を自らの都合に合わせて構築したのだろう。実際には伯爵は二度結婚していたに過ぎず、同時婚ではなかった。

マルガレーテへの愛情に突き動かされたフィリップは想像力を存分に働かせ、このグレイヒェンの話を歴史的事実としてルターに説明したと考えられる。
ルターは深刻なジレンマに陥った。神学的には到底認められない要求である。しかし一方で、フィリップは宗教改革における最重要の政治的支柱の一人であった。
「場合によっては教皇に頼ることもできる」
ある手紙のなかで、フィリップは暗にカトリック陣営に戻ることも暗示したのだった。これは示唆を超えた、「脅し」であった。
カトリック陣営との対立が続くプロテスタントにとって、いかなる状況においてもフィリップを疎外すべきでないことは明白であった。
最終的にルターはフィリップ・メランヒトン(Philipp Melanchthon)と協議の上、極めて曖昧で外交的な返答を書き送る。
「我々にはこの問題を判断する方法がない。」
――この言葉は拒否でも承認でもなかったが、フィリップはこれを事実上の許可と受け取った。
1540年3月、ローテンブルク・アン・デア・フルダでフィリップはマルガレーテと結婚する。式にはメランヒトンも出席していた。二人の間には9人の子供が生まれたが、フィリップは彼らを嫡出子とは認めず、正統な後継者はあくまでクリスティーネとの子供とした。
その後、フィリップは、カトリック陣営の神聖ローマ皇帝カール5世に対して、シュマルガルテン戦争を戦い、1547年、ミュールベルクの戦いでフィリップは皇帝カール5世に敗北し捕虜となる。
幽閉された彼は、不在の間にクリスティーネがマルガレーテの子供たちに報復するのではないかと懸念したが、そのような事態は起こらなかった。
この奇妙な三者関係は、1566年にマルガレーテが亡くなるまで続く。翌年、フィリップもマルガレーテの後を追うようにその生涯を終えた。彼には多くの子供がいたが、ヘッセン家は長子相続制を採用していなかったため、領土は四人の息子に分割されることとなる。
ヴィルヘルム4世(Wilhelm IV.)はヘッセン=カッセル、ルートヴィッヒ4世(Ludwig IV.)はヘッセン=マールブルク、フィリップ2世(Philipp II.)はヘッセン=ラインフェルス、ゲオルク1世(Georg I.)はヘッセン=ダルムシュタットをそれぞれ継承した。
その結果、かつて宗教改革の中心として大きな影響力を持っていたヘッセンは、この領土の分割継承により、帝国内部においてその政治的重要性を徐々に失っていくのであった。
夕暮れのマールブルクの町に立つと、丘の上の城と、その麓に広がる街並みがゆっくりと影に沈んでいくのが見える。
ここで語られる宗教改革の歴史は、しばしば信仰や理念の勝利として描かれる。しかし、フィリップの生涯を辿ると、そこにあるのはむしろ、欲望、打算、恐れ、そして妥協といった、あまりにも人間的な要素の積み重ねであったことがわかる。
理想の時代を切り開いたはずの人物が、同時に自らの欲望のために教義を揺るがせた――その矛盾こそが、この時代の本質なのかもしれない。
石造りの建物や大学の講堂は何も語らない。だが、その沈黙の背後にある選択の連なりを想像したとき、宗教改革という出来事は、単なる歴史ではなく、極めて生々しい人間の物語として立ち現れてくるのである。
参考:
welt.de, “Die Geschichte einer fürstlichen Bigamie”, 11.11.2007, Jan von Flocken,



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