【ドイツの歴史】ルターを悩ませた難問

マールブルク

ヘッセン方伯フィリップ1世と言えば、宗教改革における大立役者である。いち早くプロテスタントの教義を支持し、自身の領土をまずプロテスタントへと統一。1527年にドイツ初のプロテスタント大学、マールブルク大学を設立したことでも知られる。カトリックの守護者、神聖ローマ皇帝カール5世に対抗して、プロテスタント諸侯やザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒらと共にシュマルカルデン同盟を結成。1546年には、皇帝軍との戦争に至っている(シュマルガルテン戦争)。

ヘッセン方伯フィリップ(Source:wikipedia.de)

このフィリップ、宗教改革の朋友であるはずのマルティン・ルターにとある難題を突き付けている。1539年12月、マルティン・ルターはフィリップ伯から奇妙な内容の手紙を受け取った。なんと、その手紙の中でヘッセン方伯フィリップ(Philipp von Hessen)が報告したのは、2人の妻と同時に結婚するというものだった。さらにフィリップはルターからその結婚に対する祝福を求めるという内容を手紙にしたためたのであった。キリスト教では当然許されるはずもない重婚の報告であるが、フィリップは事前にこういった重婚の前例を探していた。前例として、フィリップは、グライヒェン伯爵と彼の重婚は教皇によって認可されたという前例を持ち出した。

1523年、フィリップは、ザクセン公国のクリスティーネとドレスデンにおいて結婚をしていた。そんな二人の間に何かあったのか?ヘッセン方伯とザクセン公家の結婚は、いうまでもなく政略結婚であり、諸侯家同士の結婚は、両家の関係を深める意図があった。結婚当初、ふたりの関係は仲睦まじく、7人の子供を設けた。しかし、結婚から17年が経過した1540年、フィリップはザクセンの宮廷女官を務めていたマルガレーテという貴婦人に恋をし、彼女に完全に夢中になってしまったのである。マルガレーテ、わずか17才である。そして、フィリップはマルガレーテとの結婚を決意する・・・それもクリスティーネとの結婚は続けたままで・・・

クリスティーネ・フォン・ザクセン(Source:wikipedia.de)

若い娘と恋に落ちたといっても、フィリップはさすがに自家とザクセン家の結婚の重要さは理解していた。すでに跡継ぎにも恵まれているのだ。クリスティーネとの結婚を解消できないことは、フィリップにも良くわかっていた。では、最初の結婚を継続したまま、二人目の花嫁を迎えるにはどうしたらいいか・・・何よりもまずマルティン・ルターがなんというだろうか?ルターが容易に賛成するはずがないことは明白だった。この解決不可能とも言える難題にフィリップは頭を悩ませたが、しばらくするとペンと紙を手に取り、ルターに手紙をしたためることにした。

マルガレーテ・フォン・デア・ザーレ(Source:wikipedia.de)

ルターへの手紙には、重婚と一夫多妻制について語っている旧約聖書からの引用がちりばめられていた。 35歳のフィリップは、彼の結婚は「情熱がない」と嘆き続け、彼の妻は「無愛想で醜く」、「ひどい匂いがする」とまで主張した。クリスティーネはそんな批評に値する人物ではなかったが、フィリップの妻に対する評価を聞けば、ふたりの結婚関係が破綻していることは明白であった。フィリップはクリスティーネに対して一体どのような説明を行ったのか不明であるが、クリスティーネは夫フィリップの二重結婚の計画に同意したのであった。

手紙の中で、フィリップは夫婦関係について詳しく説明した後、この重婚の正当性を示す持論を展開した。それが、グライヒェン伯爵の物語である。1227年、テューリンゲン州のアルンシュタット近くのグレイヒェンにある城の所有者である既婚者のエルンスト伯爵は、十字軍に参加したと言われる。そこで彼は西アジアのイスラム教徒の女性と出会い、彼らは恋に落ち、エルンストは彼女を2番目の妻として結婚することにした。両者はともにローマへと移り、そこで教皇グレゴリウス9世から結婚に対する祝福と特許状を授けられる。グレイヒェンに戻ると、エルンストの妻ベルタ・フォン・オルラミュンデ(Bertha von Orlamünde)は主人が連れ帰った2番目の妻を友好的に迎え、それ以来、3人は調和のとれた結婚生活を送ったと言われる。

マルティン・ルターは困難なジレンマに陥っていた。フィリップの要求は、神学的観点からは完全に不合理であった。一夫一婦制のヨーロッパでは、結婚は聖なる礼典(Sakrament)と見なされていた。しかしその一方で、方伯は改革の最も重要な指導者の一人であった。抜け目のないフィリップは、手紙の中で、「この問題を教皇に頼ることもできる。」と、カトリック陣営に戻ることについても示唆していたのであった。示唆というより、ここまでくれば「脅し」である。カトリック陣営との対立が続くプロテスタントにとって、いかなる状況においてもフィリップを疎外すべきでないことは明白であった。


対応に困ったルターは、この問題を最も親しい親友フィリップ・メランヒトンに相談している。その結果、二重結婚という深刻すぎるテーマについて、ルターはフィリップに返事を書いた。手紙には、”外交的”で非常に婉曲な答えが書き記されていた。

「私たちにはこの問題を判断する方法がない。」

フィリップはこの返事を承認と受け取り、1540年3月にローテンブルク・アン・デア・フルダという町で、若く美しい貴婦人と結婚した。結婚式にはメラヒントンも臨席している。二人は7人の息子、二人の娘という計9人の子供に恵まれ、彼らは後にディーツ伯爵家(Grafen von Dietz)を名乗っている。

ところで、フィリップが二重婚に対する免責として引き合いに出した伯爵の話は、実話であったのだろうか?エルンスト・フォン・グレイヒェン伯爵という人物は実在した。彼はまた十字軍に参加しているが、1227年ではなく1221年であった。当時、エルンスト伯爵が南イタリアのホーエンシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ2世のもとに滞在しており、これは1222年に皇帝から送られた感謝状が残っていることで証明される。つまりエルンスト伯爵は1222年までにドイツへと戻されている可能性が高い。グレゴリウス9世が教皇に選出されたのは1227年だったので、エルンスト伯に勅許状を与えることは不可能である。

エルンスト伯がグレイヒェン城で3人で暮らしたという事実は伝わっておらず、どうやらフィリップ方伯がこの物語を自分の都合のいいように作り上げた可能性が高い。エアフルトへの訪問中に、彼はそこのピータース修道院(Peterskloster)にあるフォン・グレイヒェン伯爵の墓石を見た可能性がある。墓石には、グレイヒェン伯爵が2人の女性像と共に描かれている。中世美術においてこのような意匠は非常に稀であった。 実際、伯爵は2回結婚していたが、一度に二人と婚姻関係にあったわけではなかった。墓石に描かれた伯爵と並ぶ二人の女性は西洋の衣装を身に着けており、西洋人に見える。伯爵の左側にいる女性の王冠のような頭飾りが東洋起源のものとするにはかなりの想像力を必要とする。

グライヒェン伯爵の墓石(Source:wikipedia.de)

マルガレーテへの愛情に突き動かされたフィリップは想像力を存分に働かせ、このグレイヒェンの話を歴史的事実としてルターに説明したと考えられる。このグレイヒェン伯爵の話が有名になったのは、 18世紀のワイマールの作家、ヨハン・カール・アウグスト・ムゼウス(Johann Karl August Musäus)の《マレクサラ》という作品による。ムゼウスは名前が伝わっていなかったイスラム教徒の女性にマレクサラ(Malechsala)という名前を付けている。しかし、マレクサラという名前は、どことなく、フィリップの2番目の妻、マルガレーテ・フォン・ザーレを短縮した名前のようにも聞こえる。

ムゼウス著《マレクサラ》

ようやく念願かなって重婚生活を送ることになったフィリップであったが、不思議なことに、この重婚騒動の後でも、最初の妻クリスティーネとの間にさらに3人の子供が生まれている。フィリップのほうも、クリスティーネとの間に生まれた子供だけを嫡子として認め、2人目の妻マルガレーテが生んだ子供たちは、非嫡出子とした。

その後、フィリップは、カトリック陣営の神聖ローマ皇帝カール5世に対して、シュマルガルテン戦争を戦ったが、1547年、ミュールベルクの戦いにおいて皇帝軍に敗北する。敵陣に捕らえられたフィリップは捕虜として幽閉生活を送ることとなった。主人不在の間、摂政の座にあった最初の妻、クリスティーネが、後妻マルガレーテの子供たちになんらかの意趣返しを行うのではないかとフィリップは気を揉んだが、その心配は杞憂に終わった。

この三人による奇妙な結婚生活は、1566年にマルガレーテが亡くなるまで続いた。翌年には、後を追うようにフィリップが逝去。幸い、子宝に恵まれたフィリップには跡継ぎに困らなかった。しかし、ヘッセン方伯家は、長子相続を取っていなかったため、4人の息子がヘッセン領を分割相続することとなった。長男ヴィルヘルム4世がヘッセン=カッセル領、次男ルートヴィッヒ4世がヘッセン=マールブルク、3男フィリップ2世がヘッセン=ラインフェルス、4男ゲオルク1世がヘッセン=ダルムシュタット、といった具合である。この領土の分割継承により、ヘッセンは帝国内部においてその政治的重要性を徐々に失っていくのであった。

参考:

welt.de, “Die Geschichte einer fürstlichen Bigamie”, 11.11.2007, Jan von Flocken,

1539: Die Geschichte einer fürstlichen Bigamie - WELT
Im Dezember 1539 erhielt Martin Luther ein höchst seltsames Schreiben. Darin schilderte ihm Landgraf Philipp von Hessen seine Liebes- und Seelennöte. Er verlang...

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