【ドイツ観光】聖マルティヌスが従軍を拒否した場所
オーバーマルクトまで戻り、マルティンス・ガッセ(Martins Gasse)を進むと、聖マルティン教会(St. Martin)に出る。この教会のマルティンは、マルティン・ルターのマルティンではなく、キリスト教の聖人で、殉教せずに列聖された初めての聖人であるトゥールのマルティヌスに由来する。
西暦316年頃、マルティヌスは現ハンガリーのパンノニアのローマ軍の護民官の息子として育った。幼少期にパヴィアで過ごした時にキリスト教に触れたと言われているが、父親の命令に従ってローマ軍に入隊する。
ある冬の日、アミアンの城門で、マルティヌスは凍てつく寒さにも関わらず、半裸で震えている物乞いを見た。彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを剣で2つに切り裂いて、半分を物乞いに与えた。これを見ていた仲間の兵士は大笑いしたという。しかし、次の夜、この物乞いはイエス・キリストとしてマルティンの夢の中に現れ、彼の慈悲深い行為に感謝したという。以来、マルティンはキリスト教を信仰するようになった。
次第にキリスト教への思いを強めていったマルティヌスは、現在のヴォルムスに当たる場所で、ゲルマン人との戦いを前に、従軍を拒否したのだった。その戦闘放棄によって、マルティヌスは地下牢に投げ込まれ、そこで軟禁生活を送る。その地下牢の上に、現在のマルティン教会が建てられたという。キリストの教えに傾倒していったマルティンは、洗礼を受け、軍を辞任したのだった。
このマントのエピソードは5世紀初頭に書かれた聖マルティンの伝記に記述があるという。聖マルティンが持っていたほうの半分(あるいは聖マルティンの祭式用マントとも)は、「聖マルティヌスのマント」として歴代フランク王国の国王が所有しているとされ、滞在する場所に持ち歩いたことから保管場所も変わったようだ。よく教会の小さな部屋に保管されることがあったことから、マントを意味するケープ(Cape)に因んで、チャペル(礼拝堂)と呼ぶようになった。 また、フランス王朝の「カペー朝」も同様にケープを語源とする。
11月11日は《聖マルティンの日》あるいは《サンマルタンの日》と呼ばれており、この聖人を祀る行事が各地で行われる。この日は聖人の誕生日とも埋葬の日とも言われているが、農民が一年を締めくくる日でもあり、元々クリスマスに行われていた雇用契約の更新や、地代の支払いもこの日に行われるようになった。子供たちは、ランタンに火をともして、自分が住む町の市長が扮する聖マルティヌスを教会に案内し、その見返りとしてパンをもらう。また、家々を一軒ずつ回って、祝福の言葉を述べ、その家の人が、パンや菓子を与える。
《聖マルティンの日》にはガチョウを食べることでも有名だ。これには言われがある。聖マルティンはトゥール市の司教になることを求められたとき、彼は司教への就任を謙虚に固辞し、逃げ回ってガチョウの小屋に隠れたのだった。ところが、ガチョウが騒ぎ始めたため見つかってしまい、彼は司教への就任を承諾せざるを得なかったという。また別の伝説では、ガチョウは教会の中まで入っていって、聖マルティンの説教の途中に騒ぎ出して、説教を中断させたという。その罰で、ガチョウはローストにされてしまったという逸話が残っているという。
ガチョウの小屋にマルティンが隠れていたとされる逸話は有名だが、マルティンの伝記作家であるスルピキウス・セウェルス(Sulpicius Severus)によれば、最後が若干異なるようだ。司教への就任を固辞したガチョウ小屋に隠れたマルティンを訪れたのは、ルスティクス(Rusticus)という人物だったという。男は、病気でもう長くは生きられない妻が、最後にもう一度だけマルティンと話がしたいと言っていると伝えたのだった。マルティンは彼女を救いたい気持ちでガチョウの小屋から出て、司教に就任したという。人のため、考えるよりも行動する人物であったと伝えている。いずれの伝承が真実にせよ、聖マルティンはガチョウとのエピソードが多く、今日聖マルティンの姿が描かれるときには、アトリビュートとしてガチョウがとなりに添えられることが多い。
聖マルティンの日にガチョウを食べるという習慣は、もう何百年も前から続いている。その昔、11月11日は農家にとっては仕事納めの日であった。また、現在でも復活祭の前にファスティングがあるように、当時はクリスマス前40日間は断食を行った。その断食期間が始まる前の最後の日でもあったことで、豪華な食事がふるまわれたという。その昔、食肉用の家畜は、冬の間も飼育を続けることが困難であった為、11月11日はそういった家畜の屠殺の日とされていた。このように、この日に人々がガチョウのご馳走を食べるのには十分な理由があった。
397年11月8日、聖マルティンは81歳のときにフランスのカンド(現在のカンド=サン=マルタン / Candes-Saint-Martin)で亡くなり、葬儀は11月11日に行われた。聖マルティンの遺体はボートでトゥールに運ばれたが、この日は11月にも関わらず暖かく、ロワール川の岸には花が咲き誇っていたという。現在でも初冬の暖かい日のことを、フランスでは《サン=マルタンの夏》(été de la Saint-Martin)、イギリスでも《セント・マーティンの夏》(St. Martin’s summer)というが、これがその語源である。
聖マルティンは殉教することなく列聖された最初の聖人であったが、それは自らが模範的な生活を送り、それが人々の模範となったからであった。聖マルティンへの熱烈な崇拝は、フランスから始まって、すぐに広がっていった。中世の終わりまでに3,500以上のマルティン教会があったと言われている。規律のある生活や正義感が、当時の僧侶にとって理想的なものになったのであった。
以上のような数々のエピソードから、聖マルティンは、物乞い、仕立て屋、ガチョウ飼育、兵隊、従軍拒否者などの守護聖人になった。
聖マルティンと物乞いのエピソードに因み、もともとは、聖マルティンの日には、物乞いが民家を訪ね、食べ物のおすそ分けをもらう日であったという。貧しいい人々や路上生活者にとって施しを受ける機会だったという。しかし、時がたつにつれ、子どもたちの行事へと変化していった。11月11日には、子供たちは色とりどりの提灯を持って暗い通りを歩き、聖マーティンの歌を歌う。行進には、物乞いとのエピソードを想起させるよう、ローマ風のヘルメットと紫のローブを身に着けた騎士が同行していることもある。子供たちは民家の軒先で歌を歌い、そのお礼にお菓子をもらう。
また、聖マルティンの日には、ヴェックマンやシュトゥーテンケルルなど様々な名前で呼ばれる特別なパンが用意される。こういったパンがこの日に提供される歴史的な理由がある。前述したとおり、クリスマスが始まる前の約40日間は断食の期間である。肉の消費だけでなく、卵、牛乳、ラードなどのすべての動物性食品が禁止されていた。そういった食品の在庫は、聖マルティンの日の前に使い切る必要があったのだ。その結果、この独特な形をしたパンは、伝統的に聖マルティヌスの日に提供されることになったという。
提灯を持つようになったのにも、様々な説がある。農家の人々は、収穫の終わった11月、今年一年へのお別れと収穫への感謝として、象徴的に畑に火をつけることがあった。子供たちはわらで松明を作り、くり抜いたカブやその他の材料で灯籠を作り、それを使って通りを駆け回った。こういった習慣は、ハロウィーンを生み出したケルトの収穫にまつわる文化とも類似している。
また、13世紀以来、カトリック教会がミサで用いるミサ典書では、ルカの福音書からの一節が使われた。そこには、「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。」と書かれている(ルカによる福音書 8:16)。復活祭でも教会の前にイースターキャンドル(Easter Candle)が置かれたり、イースターファイヤー(Easter Fire)が灯されているように、聖マルティンの日にもキャンドルや焚火が灯されるのだ。その昔好んで使われていたカブやカボチャをくり抜いたキャンドルは、1850年頃から紙でできた提灯にとって代わられ、今日では子供たちは学校で自分たちでランタンを作ったりする。
このように、聖マルティンの日には、特別なパンをもらい、提灯を作り、歌をうたってお菓子をもらう。子供たちが喜びそうなイベントが盛りだくさんだ。以前は貧しい人々が施しを受ける日だったのが、どうして子供のイベントへと変化したのか、はっきりとした理由はわかっていない。伝統や宗教行事の研究者のなかには、聖マルティンのイベントで、子供たちが自然とカトリックの文化に馴染むことで、若い世代との懸け橋的な役割を期待しているのではないかと指摘している。
プロテスタントでは、この日は、聖マルティンではなく、宗教改革を起こしたマルティン・ルターを祝う意味でもこの行事を行う。プロテスタント地域ではマルティ―ニ(Martini)と呼ばれ、ドイツでは特に東フリースラント(ブレーメンとオランダ国境の間)などで祝われる。ルターは1483年11月10日に生まれ、聖マーティンの聖名祝日である11月11日にバプテスマを受けた。そのためマルティンと名づけられた。マルティン・ルターがひととき暮らしていたエアフルトでも、毎年大聖堂前の広場に何千もの提灯が置かれ、盛大に祝われる。
この聖人に縁が深い聖マルティン教会だが、プァルツ継承戦争のときに、ルイ14世の軍隊に蹂躙され、教会も著しく破壊されてしまう。その後、バロック様式で再建されているのだが、1943年と1945年の空襲でまたも大きな損害を受ける。我々が現在目にするのは、そののち再建されたものである。
シモーネ・マルティーニ作《聖マルティヌス伝》連作
《聖マルティヌスと貧者》エル・グレコ作
ナショナル・ギャラリー・オブ・アート、ワシントン
白いアラブ馬にまたがった聖マルティンが、裸の物乞いと隣り合わせに描かれている。背景には、南スペインの風景が描かれている。雲がたなびく青い空は、人物の後ろで、トレドの町と、タホ川にかかる橋のある山岳風景に溶け込んでいる。
前景の人物と馬は、詳細まで丁寧に描かれている。負傷した足を引きずっているようにも見える物乞いの男は、スペインの貴族風に描かれた聖マルティンを下から、感謝の目で見上げている。人物描写はグレコ独特の縦に長い構図となっている。乞食の裸を覆う緑色のマントが、空と地上とをきっちり二分する役割を果たしている。
参考:
NDR.de, “Sankt Martin: Warum feiern wir den Martinstag?”, 11.11.2020, https://www.ndr.de/geschichte/Martinstag-Warum-feiern-wir-am-11-November-Sankt-Martin,martinstag106.html
Berliner Morgenpost, “Warum am 11 November der Martinstat gefeiert wird”, 11.11.2012, https://www.morgenpost.de/web-wissen/article110894307/Warum-am-11-November-der-Martinstag-gefeiert-wird.html
Katholisch.de, “Der heilige Martin, Sankt Martin”, 06.01.2015, https://www.katholisch.de/artikel/178-sankt-martin
Kathorisch.de, “Das müssen Sie über Sankt Martin wissen”, 11.11.2019, https://www.katholisch.de/artikel/15349-das-mussen-sie-uber-sankt-martin-wissen
Schmitz & Nittenwilm, “Die Geschichite vom Weckmann”, https://schmitz-nittenwilm.de/weckmann-die-geschichte-zu-st-martin/
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