片腕のパン屋

アウグスブルク

アウグスブルクの要塞跡

アウグスブルクにはローマ時代から要塞があった。 中世には、塔と堀のある新しい壁が建てられ、何世紀にもわたって強化され、拡張を繰り返してきた。 19世紀に入ってアウグスブルクの城塞は取り払われることとなったが、 今日でも5つの城門、4つの要塞、城壁の一部が残っている。

ローマの都市であった《オーガスタ・ビンデリカム》(Augusta Vindelicum)の要塞は、周囲が木製の防御柵で囲われていたと考えられている。 8世紀には、アウグスブルクは司教座となったことから、町も適切な防御設備が必要となっていた。955年、マジャール人によるヨーロッパ侵攻の際には、町を防御する目的から、ウルリッヒ司教の指導のもと市の守りを強化し、ザクセン、シュヴァーベン、バイエルン、フランケン、ボヘミアの軍隊との協力のもと、《レヒフェルトの戦い》(Schlacht auf dem Lechfeld)に勝ち、マジャール人の攻撃を退けたのだった。

三十年戦争中も、アウグスブルクは慢性的な兵力不足であったにもかかわらず、敵の攻撃を防衛できた。1632年、グスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍は、アウグスブルクの町を占領した。この占領時に、スウェーデン軍は城内の移動を容易にし、堀を超えて城壁に早く到着できるよう、レンガ作りの階段を作成しているが、この階段の一部は《スウェーデンの階段》(Schwedenstiege)として、今でもアウグスブルクの旧市街に残っている。

この《スウェーデンの階段》のあるアウグスブルク市壁の東側には、《Stoinerne Ma》という石像が建っており、これはドイツ語で《Steinerner Mann》、つまり《石造りの男》と呼ばれている。カタツムリのようならせん型の台座に乗っているのは、《コンラート・ハッカー》(Konrad Hackher)という名の片腕のパン屋がモデルだ。

三十年戦争の前まで、カトリックとプロテスタントはアウグスブルクを共同支配していた。しかし、1629年にカトリック勢力が政治的支配を強めようとしたことに対し、1932年にプロテスタント側であるスウェーデン軍が進軍し、町を占領したのだった。それに対して、カトリック側の帝国軍は、スウェーデン軍が支配する町をすぐに包囲し、補給路を断って、兵糧攻めにしたのだった。城塞内の食料はすぐに底をつき、1万2千人にも及ぶ市民が飢えと寒さによって死亡したという。この時、ハッカーというパン屋が包囲している皇帝軍を欺く策を思い立った。

伝説では、皇帝軍による包囲の中、ハッカーは、おがくずから作ったパンを焼き、市壁をよじ登ると、包囲している皇帝軍にはっきり見えるように、パンを城壁に叩きつけたと言われている。つまり、城壁内には食料が豊富にあり、パンを投げつけるほど余裕があることを見せつけたのだった。敵軍を挑発するには十分に効果があったようで、怒りに駆られた敵軍が放った弓矢の一本がパン屋の腕に命中し、腕を失った。そしてその傷がもとで、その日のうちに亡くなってしまった。しかし、この犠牲は無駄に終わらず、城塞内部にはまだ十分に食料があると考えた皇帝軍は、もはや勝利を確信できず、包囲を解いて町から撤退してしまった。

この出来事は、三十年戦争中、1634から35年の《アウグスブルクの包囲》の時に起こった出来事だと言われている。しかし、ハッカーの命を懸けた奇策もスウェーデン軍を助けるには至らず、その後の戦闘で幾度か敗れた後、1635年3月に都市は帝国軍に引き渡されたのだった。

伝わる話はこれだけである。1634年10月から1635年10月の間に亡くなったパン屋のコンラッド・ハッカーという人物がいたという説もある。またハッカーというパン屋の活躍は史実では証明されていないが、ハッカーの妻であると思われる人物は1635年の市の納税登記帳に名前が残っているという説もある。1642年、アウグスブルクの住民は、この勇気ある救援者に感謝の意を表するため、この出来事を記憶に留めようと、お金を集めて回り、左手にパンを持った男の像を建てたのだった。美しい話だが、作られた話のようだ。ただ多くの伝説と同様に、若干の真実が含まれている。

この伝説は18世紀から語られるようになり、同じ頃、左手にパンを持った石像が建てられたと考えられている。石像の鼻に触れると幸福が訪れると言われており、カップルなどが鼻を触っていくため、鼻の部分だけ黒ずんでしまっている。

1703年には、スペイン継承戦争でフランスとバイエルンの軍隊がアウグスブルクを包囲攻撃し、激しい爆撃を加えて城壁を壊し、町を占領している。町を占拠したバイエルン軍は、城塞を破壊するように命じている。町が攻撃、占拠された歴史を見ると、城壁による守りが破られて敵に攻め入られたのではなく、籠城側の降伏によって自発的に門扉を開けている点が注目される。

このようにすでに中世の時代から、壁と堀と塔による防衛手段によって、アウグスブルクの町は守られていた。ぐるりと町を囲む城壁には、100を超える監視塔が建ち、11の門が設置されていたという。アウグスブルクを歩くと《ローテス・トア》や《フォーゲル・トア》のように《トア》(Tor)という名前が今でも残っているが、これは当時の城門に由来している。

参考:

Augsburger Allgemeine, “D’ Stoinerne Ma musste wandern”, Franz Häußler, 31.03.2006, https://www.augsburger-allgemeine.de/freizeit/D-Stoinerne-Ma-musste-wandern-id2712796.html

Annett Klingner, “Der stoinerne Mo – Legende und Wahrheit eines Wahrzeichens”, http://www.annett-klingner.de/news.php?news=26

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