ルター破門の場所

ヴォルムス

マルクト広場を出て、ノイマルクト通りを行くと、町の一番のアトラクションであるヴォルムス大聖堂が見えてくる。4つの円柱塔と2つの大きなドームをもつロマネスク様式の大聖堂である。

ヴォルムス大聖堂は、その入場の順番を巡ってジークフリートの妻クリエムヒルトとグンター王の妻ブリュヒントが諍いを起こし、ジークフリートが殺害される遠因となった場面の舞台であるが、現在の建物は11世紀から12世紀に建築改修を繰り返された建物で、叙事詩に登場する建物ではない。この大聖堂は、神聖ローマ帝国の帝国議会が開催された場所であり、1521年マルティン・ルターの破門が決定したのもこの建物においてのことだった。

建物は1018年にブルクハルト司教の下で建てられ、1130年から1181年に彼の後継者である司教ブルクハルト2世とコンラッド2世が現在の形につながる大聖堂を建造した。  その後、大聖堂は数々の戦争で大きな損害を受ける。

1618年に勃発した三十年戦争では、1632年から1635年までスウェーデン軍が町を占領し、プロテスタントの説教者が大聖堂でミサを行った。プファルツ継承戦争では、フランス国王ルイ14世の軍隊が、ハイデルベルク、マンハイム、シュパイアーに続いてヴォルムスも壊滅させた。教会も略奪され、焼失したが、シュパイアー大聖堂のような爆破は失敗し、完全な倒壊は免れた。しかし、建物は完全に燃え尽きてしまい、保管庫は大部分が崩壊してしまう。プァルツ・ノイブルクのフランツ・ルートヴィヒ司教が1698年から大聖堂の復元を開始し、この時、バルタザール・ノイマンによる祭壇など、バロック様式の要素が追加されたのだ。

再建された大聖堂は、今度はフランスの革命軍に蹂躙される。 1792年末には、ヴォルムスをはじめ、シュパイアー、マインツ、フランクフルトといった都市は革命軍に征服される。大聖堂はしばらく馬小屋や倉庫として使用され、 その後、回廊は解体され、石材は売りさばかれたのだった。その後も再建が試みられたが、調査の結果、教会はかなりの損傷を受けており、再建は困難を極めた。その為、一部は基礎部分からの再建を余儀なくされた。石を組み上げる際にも、なるべくオリジナルの石を使用したという。再建作業は1935年までかかった。

第二次世界大戦では、1945年の空襲で爆撃を受けたが、幸いにも内部の調度品や家具は被害を受けなかった。屋根も吹き飛ばされたが、内部の円蓋部分は破壊を免れたという。ヴォルムスから25キロ北にあるゲルンスハイム(Gernsheim)では鉄橋が爆破されたのだが、ヴォルムス大聖堂の屋根の修理には、その鋼材が再利用されたのだった。

また、20世紀後半にハインツ・ヒンドルフ(Heinz Hindorf)によって作られたこの教会のステンドグラスも見ものだ。ヒンドルフは、ステンドグラスやモザイク技法を習得した画家、ガラス芸術家であり、ヴォルムス以外にもブラウンシュヴァイク大聖堂のステンドグラスも作成している。

ハインツ・ヒンドルフ(Heinz Hindorf)

残念なことに、中世に作られたステンドグラスは数々の戦争を生き抜いたものの、20世紀に入ってから破壊されてしまったのだ。ヴォルムスから20キロ離れたマンハイム近郊のライン河畔の町にルートビッヒスハーフェンという町があるが、1921年、その町の一地区であるオッパウ(Oppau)の肥料工場で窒素ガスによる大爆発が起こったのだ。

これはドイツ化学産業史においてもっとも大きな事故となり、559名が命を落とした。TNT火薬で1~2キロに相当するというその爆風による被害はなんと75キロ先まで届き、80キロ先のフランクフルトでも爆発音が聞こえたという。ヴォルムス大聖堂のステンドグラスもこの時に失われてしまった。

また、大聖堂内部のアンナ礼拝堂には、元々ロマネスク様式の南門にあった「ライオンの巣のダニエル」のレリーフがある。

       『ライオンの巣のダニエル (Daniel in der Löwengrube)』

『ライオンの巣のダニエル』は、旧約聖書の四大預言者のうちのひとり、預言者ダニエルを描いている。ダニエルはバビロン捕囚でバビロニアに連行されるが、その賢明さによってペルシア王ネブカドネザル2世の後を継いだダレイオス王に重用された。これを妬んだ他の家臣達は、ダニエルをライオンの巣に投げ込みむ。しかし、ライオン達はダニエルに危害を加えなかった。後に真相を知ったダレイオス王は、ダニエルを陥れた家臣を家族もろともライオンの巣に投げ込み、ライオンの餌食とした。

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