腕を折られた天才彫刻家

ヴュルツブルク

ティルマン・リーメンシュナイダーは中世ドイツの彫刻家であり、数々の名作を残している。同時代に活躍したファイト・シュトス、アダム・クラフトと並んで、ゴシック時代後期の最も重要なドイツの彫刻家と見なされている。この時代のヴュルツブルクは、ゴシックからルネッサンスへの移行期に当たっており、南ドイツの彫刻の中心地であった。彼は自身の彫刻作品の材料に、菩提樹の木や砂岩を好んで使用しており、全く異なる素材で作品を完成させるその能力は注文に値する。また、同時代の彫刻家と一線を画するのは、当時は一般的であった彫刻作品への塗装をやめた点である。リーメンシュナイダーは、素材そのものの美しさや、作品に当たる光の効果を狙って、作品への色付けを諦めている。こういった点もリーメンシュナイダー作品の特異性・独自性を高めている。

リーメンシュナイダーの一家はテューリンゲン北部の出身だったが、ヴュルツブルクに親戚がいたため家族とともにこの地に移住した。彫刻のマイスターとしてヴュルツブルクに工房をかまえ、祭壇や墓碑の彫刻を数多く手がける一方、1504年に市議会議員に選出され、ヴュルツブルク市長も務めた。

ティルメン・リーメンシュナイダー

1460年頃、ハイリゲンシュタット・イム・アイヒスフェルト(Heiligenstadt im Eichsfeld)でコイン鋳造の親方であった同名のティルマンの息子として生まれ、わずか12歳で画家および石工として見習いを始めた。木や絵の彫刻家という職業はなかったので、職人のギルドで学び、1475年に画家と石工の見習いとして修業の旅にでたのだった。


それ以降、1483年にリーメンシュナイダーがヴュルツブルクに定住するまでに8年かかっている。 2年後、わずかに年上の未亡人、アンナ・シュミット(Anna Schmidt)と結婚。アンナ・シュミットとの結婚でティルマンは、3人の小さな子供と家屋を手に入れることになった。この家が、ティルマンの住居兼工房になったのだった。

リーメンシュナイダーは、非常にオープンで友好的な性格だったので、対人関係も良好だったという。そういった彼の優れた人間性は作品にも反映されており、彼の作った作品は非常に表現力が豊かである。30歳の頃にはすでに、ファイト・シュトス、マティアス・グリューネヴァルトやアルブレヒト・デューラーら当代きっての巨匠の仲間入りを果たすのである。

当時、ヴュルツブルクは司教を頂点とした支配的構造の中にあり、リーメンシュナイダー工房の顧客も主に教会であった。リーメンシュナイダーは生涯3人の司教に仕えたが、彼ら抜きには何も進まなかったという。それほど、ヴュルツブルクは教会に依存しており、ローテンブルクのような小さな町であってももう少し市民は教会から自立した生活を送っていたという。

教会関係者は、市の城壁内に大勢暮らしており、共同体が市民に提供するサービスは享受するものの、共同体に税金を支払うことはなかった。司教区のマリエンベルクは、開かれた教会というイメージとはほど遠く、要塞化された城のように建てられている。市民の間には、貴族で占めらた高級聖職者の特権に対する反発が生まれていた。後にリーメンシュナイダー自身が市の収税役をしていたころ、貴族や聖職者の不動産に対する課税を巡って、司教と対立したこともあったという。

しかし、この頃のリーメンシュナイダーは次から次へと舞い込む注文に忙しく、仕事に集中していた為に、政治にはあまり関心を示していなかった。この頃、リーメンシュナイダーは、肖像画、祭壇画、彫刻、墓標など広範囲に手掛けている。15世紀初頭の庶民は、まだ字を読めるものが少なく、キリスト教の伝統や、イエスとその弟子たちの物語を書面で読み知ることはなかった。キリスト教の信仰については、絵画や彫刻作品を通して得られる視覚情報を通してのみ、庶民へと伝えられた。

1494年、結婚後わずか9年でリーメンシュナイダーの妻アンナは亡くなった。リーメンシュナイダーは順調で、家計を賄うことができたが、妻を亡くした悲しみに暮れていた。にもかかわらず、彼はほとんど休まず仕事をしており、彼の最高傑作のいくつかはこの時期に作成さている。この時期作成した女性像の顔に亡き妻アンナ特徴が見られる。

3年後、リーメンシュナイダーは新しい伴侶を見つけている。彼女の名前もアンナで、ヴュルツブルクのラポルト家(Rappolt)出身だ。1506年に結婚してから、この二人目の伴侶も9年後に亡くなっている。この頃リーメンシュナイダーは40代半ばで、8人の子供と大規模な工房を持っていた。私生活の不幸にも関わらず、彼の創造意欲が途切れることはなかった。1507年、リーメンシュナイダーはマルガレッテ・ヴルツバッハ(Margarete Wurzbach)と3度目の結婚し、新居を購入している。

リーメンシュナイダーはこの頃と前後して、市の下院議員も務めている。1509年には、聖公会の上院評議会に送られ、司教との良好な関係や彼の人間性によって、市と司教区との間のバランスを保つことに貢献していた。そして、リーメンシュナイダーは市長に選出されることとなった。自身よりずっと若いマーガレットという女性と4度目の結婚も果たしている。この頃にはたくさの家とブドウ園まで購入し、1524年まで市長を務めた。

1493年、アルザス地方では農民の蜂起が流血を伴って鎮圧されていた。 1513年、バーデン地方のブライスガウの農民は、当時、主に農民が身に着けていた革製の網靴を自分たちの旗印として、支配勢力に対して反抗の狼煙を上げたのだったが、これも鎮圧され蜂起は失敗に終わっている。 2年後の1515年、マルティン・ルターはヴィッテンベルク大学で論文を発表している。


1525年には、フランケン地方でも、貧困や支配に対する農民の蜂起がおこっている。リーメンシュナイダーは、市参事会員のうちのひとりであったが、農民の側に立って、蜂起した農民たちに対して市門を開いたのだった。しかし、要塞化されたマリエンベルクは農民の包囲に耐え、1525年6月4日、ヴュルツブルクの城壁の外で勝敗を決する戦いが起こり、農民軍は前進する司教の軍隊に敗北した。 前日、農民軍を指揮していたのは、ゲーテの戯曲でも知られ、「鉄腕ゲッツ」の異名でも知られるゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン(GÖTZ VON BERLICHINGEN)であった。ゲッツは、指揮を引き受けた4週間が過ぎたという理由で、農民たちを置き去りにして逃亡しており、農民たちは軍事指揮官なしで戦闘に参加していたのだった。 8,000人におよぶ農民がわずか2時間の間に殺戮されたという。

リーメンシュナイダーは、ドイツ農民戦争の際、市議会議員であったにもかかわらず農民軍の立場を支持したかどで、主要な加担者としてマリエンベルク要塞内に拘束され、裁判にかけられている。リーメンシュナイダーは投獄後、拷問に架けられたのだった。2か月後、釈放され、家に戻されたものの、キッツィンゲンのベネディクト修道院からの委託があった以外は、仕事の注文も途絶えたという。一説によれば、拷問を受けた際に利き腕をへし折られ、再び彫刻家として活躍ができなくなったという。拷問にもかかわらず、身体的に重い障害は負わなかったという説もあるが、いずれにせよ、この頃には創作に対する意欲は失われていたと考えられている。

70歳を少し超え、1531年7月7日、70歳を少し超えた頃、リーメンシュナイダーはヴュルツブルクで失意のうちに亡くなった。死後、リーメンシュナイダーは彼の作品とともに忘れ去られ、再発見されるのは19世紀に入ってからであった。1822年、歴史家のシャロルド(SCHAROLD)が、リーメンシュナイダーの墓石を再発見したことにより、芸術史にその名前が再び現れたのだった。代表作とされるクレグリンゲンのヘルゴット教会の祭壇は、宗教改革以来、木造小屋の後ろに隠されており、発見されたのは死後300年後の1832年であった。

「ドイツとドイツ人」と題した演説の中で、トーマス・マンはティルマン・リーメンシュナイダーについて次のように述べている。

「彼は決して政治に干渉するようなことは考えなかった。なぜなら、元来、彼の生まれもった謙虚さや、自由で平和な創造への愛情からはほど遠いものだったからだ。彼は大衆を扇動したりすることはなかった。貧しい人々、抑圧された人々の為に彼の心は打たれ、彼が当然だと考えた農民の権利のために、司教や諸侯に反対する立場をとらざるを得なかったのだ。彼が生きた時代の大きな根本的矛盾に捕らわれ、ただ精神的で美を求める芸術市民としての立場を脱し、自由と権利の為に戦う者にならざるを得なかったのだ...」

農民戦争では、ティルマン・リーメンシュナイダーだけでなく、裕福な貴族の家に生まれたにもかかわらず、農民側に立って戦ったフロリアン・ガイエルのような騎士もいた。ガイエルもフランケン地方の出であり、ヴュルツブルクからわずかに南に下ったギーベルシュタット(Giebelstadt)という村の為に戦ったのだった。

リーメンシュナイダーが農民戦争で農民側に加担した理由は語られていない。農民の境遇への同情、神への信仰心であったとする見方もある。いずれにせよ、農民戦争が起こっていなければ、リーメンシュナイダーの人生はまったく違ったものになっていたであろう。リーメンシュナイダーは、その波乱の人生にも関わらず、400点以上の作品を残しており、その彩色も廃し、一切の虚飾を捨て去った作風は、現在でも非常に高い評価を受けている。

参考:

Hans-Christian Kirsch, Tilman Riemenschneider. Ullstein Verlag, Frankfurt/Main, 1983  (Zitat von Thomas Mann aus diesem Buch, Seite 286)

Geschichite zu Fuß, “TILMAN RIEMENSCHNEIDER – EIN DEUTSCHES SCHICKSAL”, https://www.geschichte-zu-fuss.de/tilman-riemenschneider/

Lern Helfer, “Tilman Riemenschneider”, https://www.lernhelfer.de/schuelerlexikon/kunst/artikel/tilman-riemenschneider#

『ドイツものしり紀行』(ゴシック最高の彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダー)、紅山幸雄、P38 -P44, 新潮文庫

『ドイツ 歴史の旅』(ヴュルツブルクとティルマン・リーメンシュナイダー)坂井栄八郎、P109 - P116、朝日選書

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